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ロッキング・オン社 山崎洋一郎の果たすべき責任

小山田圭吾の東京五輪音楽担当就任に伴う一連の出来事から4ヶ月が経過した。問題視された雑誌記事の内容について、小山田圭吾本人、当時の編集者(赤田祐一・北尾修一)、ライター(村上清)などの当事者が言葉を発したなか、唯一、沈黙を貫く人物がいる。ロッキング・オン社の役員であり、ロッキング・オン・ジャパン(以下、ジャパン)総編集長の山崎洋一郎である。

山崎は問題となったジャパン1994年1月号当該記事のインタビュアー、編集長を担当していた。「沈黙」と記載したが、山崎は7月18日にロッキング・オン社の運営するWebサイト「 rockinon.com」上に謝罪文を掲載している。

「そこでのインタビュアーとしての姿勢、それを掲載した編集長としての判断、その全ては、いじめという問題に対しての倫理観や真摯さに欠ける間違った行為であると思います」
「27年前の記事ですが、それはいつまでも読まれ続けるものであり、掲載責任者としての責任は、これからも問われ続け、それを引き受け続けなければならないものと考えています」
ジャパン94年1月号小山田圭吾インタビュー記事に関して

rockin'on.com 山崎洋一郎の「総編集日記」2021.07.18

しかし当時を知るジャパンの読者からは上述の謝罪文で今回の出来事に関する総括とするには不十分である、との声が上がっている。それはなぜか?


■ ロッキング・オン・ジャパンと小山田圭吾の深い関係性
1993年に小山田がコーネリアス名義でソロ活動を開始すると、山崎はジャパン(1993年9月号)にて巻頭表紙でコーネリアスデビューの特集を行った。そしてコーネリアスがデビューアルバムを発売する直前の1994年1月のジャパン(問題になった記事を含む)にも巻頭表紙で小山田の半生を語る2万字インタビューを含む特集を行っていた。

以降も、
・アルバム「69⚡︎96」発売時(ジャパン 1995年11月号)
・69⚡︎96ライブツアー特集(ジャパン 1996年2月号)
・アルバム「FANTASMA」発売時(ジャパン 1997年8月号)
・ジャパン・リニューアル時(ジャパン 1998年1月号)
・ビースティー・ボーイズとの対談(ロッキング・オン 1999年4月号)
・アルバム「POINT」発売時(ジャパン 2001年11月号)
と自身が編集長を務める雑誌でコーネリアスを繰り返し表紙に迎えていた。

問題となったインタビュー記事が掲載されているジャパン1994年1月号は判型を変えてリニューアルを図ったタイミングに発売された号である。当時のことを後年、山崎は下記のように振り返っている。(ジャパン創刊20周年記念となる2006年6月号にて)

「(90年前半の)バンドブームの恩恵を被るというところまでは行かず、部数的にはPATI-PATI、GB、B-PASSといった、当時の巨大音楽専門誌の3分の1にも満たない状況だった」
「(雑誌リニューアルに際して)新たなスタンスと意志のもと、「これでダメだったら廃刊」だという悲壮でヤケクソな覚悟と共に94年1月号からの再スタートを切る」

この発言を裏付けるように、1993年末のジャパン・リニューアル前、編集部に在籍していたスタッフ・稲田浩(現ライスプレス代表)は同じく過去にロッキング・オンに所属していた田中宗一郎(現The Sign Magazineクリエイティヴ・ディレクター)との対談にて当時の状況を以下のように語っている。

「編集会議では、『JAPAN』はもう廃刊にするか、賭けに出るか、どっちかだなと。根本的な話をずっとしていましたね」
「判型を小さくする前の最後のほうで、小山田圭吾、小沢健二っていうのがあったんですよね。ソロ・デビューした彼らが続けざまに表紙(注:93年8月号・9月号)になったんですけど、あれが売れて。」
「小山田、小沢を太鼓を叩くようにドンドンとプッシュしていたのが勢いになって、移行期の『JAPAN』が盛りあがった」
カルチャー雑誌/音楽雑誌は死んだ? 雑誌天国の90年代から20年、何が変わったのか?~90年代『ロッキング・オン』編

このことからも1993年以降、意識的に小山田・小沢を取り上げ、同業他誌との差別化を図り、カウンターメディアとしての日本のロックを標榜し、成果へ繋がっていったことがわかる。

以上のような小山田との関係性を考えると、文春のインタビューを担当したノンフィクション作家・中原一歩が下記で述べているように

「乗っかった本人に責任もあるけれども、取材に協力した小山田氏に何か問題が起きたとき、掲載した雑誌の編集部や編集者は掲載した責任があると同時に、取材を受けてくれた人も守らなければいけない」

と当時を知るジャパン読者が思うのは当然の感情と言える。

なぜ小山田圭吾は『週刊文春』での独占インタビューに応じたのか?“音楽ロッキン村”問題を今考える


■ 山崎は小山田が発言していない言葉をインタビューに使ったのか

また掲載メディアとしての同義的責任以外に山崎には説明をすべき点がある。それは山崎がまとめたインタビュー内容についてである。
ロッキング・オン社はインタビューの原稿チェックをさせないという編集方針を1994年当時、とっていた(現在の方針は不明)。

以前、ロマンポルシェのメンバーがジャパンのインタビューを受けたときに原稿チェックを依頼したところ、「うちは尾崎豊にも原稿チェックはさせていませんから」と担当編集者が言い、「尾崎豊が俺達よりも遥かに上の人みたいに言ってるけど、俺は尾崎より自分を下だと思ったことはない」とウェブ上で述べた話もあり、ミュージシャン側からも問題提起がされていた。

ロマンポルシェ インタビュー(Rooftop)

取材対象が原稿チェックできない内容がパブリックな場に出ることはリスクを伴う。実際にジャパン1993年12月号の小沢健二インタビューでは、小沢が話していないことを雑誌(ジャパン1993年10月号)のリード文や表紙に記載されたとし、小沢がインタビュアーの山崎洋一郎に掲載意図や真意を問いただす記事が掲載されていた。

上記のような経緯もあり、小山田の五輪音楽担当辞任以降、当時の読者からは小山田インタビューについても山崎が脚色や誇張した部分があったのではないかという声が上がっていた。

2021年7月24日にLOFT9 SHIBUYAで行われた宇野維正・柴那典によるトークイベントではこの声について両者から意見があがっていた。有料イベントの為、詳細は控えるが、宇野(1996年ロッキング・オン入社)、柴(1999年ロッキング・オン入社)ともに山崎が小山田のインタビュー内容を脚色や誇張するようなことは、自身の経験上ないと明言していた。
1994年以後のジャパン誌での小山田に対するインタビューを読む限り 、私も宇野・柴と同様の考えを持っていた。

しかし、「週刊文春」(2021年9月23日号)でのインタビュー記事で小山田は以下の発言をする。

(インタビュアーから同級生に排泄物を喰わせたのかを質問されて)
「排泄物に関しては別の話です。小学校の頃、何でも落ちているものを口にしてしまう同級生がいました。枯葉とか蟻んことか。その彼が下校している時に、道に落ちていた犬のウンコを食べて、ペッと吐き出して、それをみんなで見て笑っていたという話をしたんです」

この発言には当時のジャパンを読んでいた身として大いに驚きを感じた。つまり、五輪の音楽担当就任に際してネット上を中心にセンセーショナルに取り上げられ、小山田を「犯罪者」とまで吊し上げられる上で根拠の1つとされたインタビューのリード文にインタビュアーの創作が含まれていた、と小山田自身が語っていたのである。

もちろん小山田の文春での発言についても「新たな創作」であると考えることは可能である。しかし、それを裏付けるか否定するかは当時のインタビュアーである山崎自身が知っていることに違いない。しかし、山崎は沈黙を続けている。

■ なぜ山崎は沈黙を貫くのか
山崎は、今回の小山田の問題に関連があるかは明確ではないが
・ジャパンでの「激刊!山崎」( ※1 )
・ウェブサイトrockinon.comの「山崎洋一郎の『総編集長日記』」( ※2 )
・podcastの番組「J-POP アーティスト伝説」( ※3 )
・高円寺のフリーペーパー「SHOW-OFF」のコラム
の4つの連載・番組を休止している。
(※1. 2022/2/28発売の4月号にて7ヶ月ぶりに再開、小山田圭吾に関する記述は一切なし)
(※2. 2021/11/25に再開、小山田圭吾に関する記述は一切なし)
(※3. 2022/3/16に8ヶ月ぶり再開、小山田圭吾に関する発言は一切なし)

またジャパン2021年11月号では「JAPAN温故知新」という20年前のジャパン誌の誌面を振り返る連載が休止されている。20年前、2001年11月のジャパンの表紙は小山田圭吾である。

山崎は以前、自身の連載をまとめた単著「激刊!山崎」にて

「僕は株式会社ロッキング・オンの社員だが、まがりなりにも一人の記者である。もし自分がどうしても書きたい記事が会社にとって許されないものなら僕は会社を辞めてでもそれを書くべきだろうし、業界から締め出されるようなことになってもやらなければならないことがあればやはりやらなければならない」

というジャーナリストとしての覚悟を述べた発言をしていた。この発言を額面通り受け止めれば、現在の山崎の対応は本人の意思として「沈黙することを選んでいる」とみるべきである。

しかし、ここで沈黙を続けることは音楽ジャーナリストとして、この問題に語るべき言葉は何もないと白旗を揚げることにならないだろうか。

時代に鋭敏に反応し、ときに「暴走編集者」や「独裁体制」と読者に揶揄されながもミュージシャンや読者を鼓舞し、現在の日本のロック雑誌・音楽シーンの基盤を30年以上の長きに渡って作ってきた人物はまぎれもなく山崎洋一郎だったのではないか。

不都合な事実に沈黙し、ほとぼりを冷めるのを待ち続けることが正解だと本気で思っているのだろうか。

このままでは、ロッキング・オンならびにロッキング・オン・ジャパンは自分たちが推薦するミュージシャンに火の粉がかかれば、一目散に逃げて、我関せずとダンマリを決め込むメディアの烙印を押されるだろう。

ロッキング・オン社の創刊者であり、代表取締役である渋谷陽一は自身の評論集「メディアとしてのロックン・ロール」にて以下のように述べている。

「メディアにかかわる人間の中で、巨大組織に所属していることに安住している者と、客観的な物の言いかたしかできない者は絶対許すまいということ。つまり受け手でもある自分を認識できない者は、メディアにかかわる資格はないということ」
「メディアとはひとつのシステムなのだ。(中略)伝達、コミュニケーション、あるいは人間の持つ他者への基本的な意志そのものが主役なのである」

定型の謝罪文をウェブサイトに掲載して、あとは何もなかったように通常営業する姿勢は受け手である読者をみくびり過ぎてはいないか。

もちろん山崎の発言で今、小山田に向けられている評価が180度変わるほどおめでたいことは思っていない(小山田の評価を変えるのは今後、彼の音楽を通じた社会との関わりによるものだと思う)。

しかし山崎には果たすべき責任が残っているのではないか。


■ 山崎洋一郎に告ぐ
今回の出来事で貴方が沈黙を貫くことは貴方が長年培っていたロックジャーナリズムの否定であり、読者やミュージシャンへの裏切りである。

貴方の文章で自分にとって特別な存在となる音楽に出会い、その後、より多くの音楽に触れることができた読者は確実に存在しており、私自身もその一人である。

ほとぼりが冷める日をただ待ち続け、何事もなかったように平常運転することが貴方の回答であるならば、私は貴方を心から軽蔑する。

貴方が過去に伝えた言葉の一つが今回、一人のミュージシャンのアーティスト生命を抹殺するほどの事態になっていることについて、自身の考えをきちんと言語化することが貴方が果たすべき責任である。

2022/03/20追記 ========
休止をしていた「激刊!山崎」「山崎洋一郎の『総編集長日記』」「J-POP アーティスト伝説」の連載が再開したので、追記しました。
ただし小山田圭吾に関する記述や発言は一切されていませんでした。
改めて山崎洋一郎は問われている説明責任から「逃げる」ことを選択したのだと認識しました。

2022/08/02追記 =========
2022/7/29〜31に開催されたフジロック・フェスティバル'22では昨年、出演をキャンセルしたコーネリアスが2日目のホワイトステージのトリを飾った。山崎洋一郎はロッキングオン社のウェブサイト「rockin' on.com」上でフジロック関連のブログを16件更新した。しかし、コーネリアス・小山田圭吾に関する言及は一切されなかった。改めて山崎洋一郎は問われている説明責任から「逃げる」ことを選択したのだと認識しました。


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