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『ち・お』№132『「遊び」の本質──「私」の軸を育む奇跡の時間』日本初の「冒険遊び場」のプレーリーダー・天野秀昭の「はじめに」一挙公開!

「遊び」に本質 「はじめに」

いま、こどもに「遊び」が必要な理由

「仮面」をつけて生きるこどもたち

プレーパークのかまどで火を焚いていたら、小四の男の子が寄ってきて、いろいろな話をしだしました。何気ない会話のなかで、彼はいきなりこういいました。
「ぼくね、学校じゃ仮面つけてるんだ」
あまりの唐突さに、返す言葉に詰まったぼくは、オウム返ししかできません。

「エッ、学校で仮面つけてるの?」
「うん、家じゃ二枚だけど」
このふたことめにさらに驚いたぼくは、苦しまぎれに聞きました。
「ちなみに、ここじゃ何枚つけてるか、教えてくんない?」
彼は、即答しました。
「ううん、ここじゃつけなくていい」

小四で「仮面」というたとえを使うのは、けっこう早熟な子だと感じたのですが、最後のその言葉を聞き、こう思いました。
「そっか、仮面をつけなくていい自分を感じたから、仮面をつけていることに気づいたのかも」と。

イラスト:中井敦子

でも、だとすると、この現代にはいったいどのくらい仮面をつけないと生きていかれないこどもが多いのだろう、と想像しました。さらに、それが仮面であると気づいている子は、いったいどのくらいいるのだろうかと。

ほめることの裏にある「なってほしいこども像」
「ほめて育てる」ことが奨励されています。
遊び場でずっとこどもの傍らに立ってきたぼくは、じつは、ほめることにはとても慎重です。「こうあってほしい」という、自分にとっての「いい子」の姿をしたときに、きっと大人はほめるのでしょう。ほめることは、自分が「なってほしいこども像」の裏返しである可能性が高い。

その子はその子として生きられたらいい、そう思うぼくは、自分のなかにある「なってほしいこども像」を危険視してきました。だから、ほめることには慎重なのです。

「よくできたね」は、ある面、呪いの言葉です。

「できること」に価値があると教える可能性があるからです。できてもできなくても、本人がそれに興味をもってなにかを始める、挑戦する、それ自体に価値があるのです。

でも、なにかができて本人が喜んでいたら、もちろんいっしょに喜びます。「よかったねぇ!」と。

こどもは、ほめられることが好きです。自分だけでは生きていけないので、相手からかわいがられる必要があります。そのため、相手が望む自分になろうとしています。

ほめてくれるということは、それがかなった、つまり自分の命が保障された
ことを意味します。

それが必ずしもいけないとまではいいませんが、その環境ばかりだと、こどもは相手に認められることを優先して自分の行動を決めるようになります。そのとき、自分がなにをしたいのか、を失います。

その自分が破綻してくるのが、思春期ごろです。

だれかにとっての「いい子」を目指した結果

ぼくは、乳幼児期がいかにその子にとって重要かを、思春期のこどもから教わってきました。彼らが巻き起こすさまざまな問題は、乳幼児期の「ねぇ、見て見て」に重なります。

そのたび「あー、この子は、見てきてもらってなかったんだ」と感じてきました。大人は、そんなことはないと思うかもしれません。でも、大人は「自
分の見たいこども」の姿だけを見ようとしているように思います。だから、見たくないこどもの姿をしかるし、自分が見たいこどもにしようとします。多くは、「しつけ」という言葉を使って。

大人にとって価値のあるこどもになれるよう一生懸命にがんばって、思春期ごろに疲れ果ててしまうこどもがたくさんいます。だれかにとっての「いい子」を目指して、自分を失くしてしまうこどもが大勢います。

それに気づいて「私」をとりもどせればいいのですが、それに気づくころにはその手段も方法もよくわからなくなっている。「遊ぶ=遊育」のほんとうの価値と、その目には見えない大事なことをできるだけ言語化してお伝えしたいと思い書きました。

なるほど! と手を打っていただけたなら、この本の目的は達成です。人にいわずにはおられない、となったら望外の喜び。自分でも仲間を集めて環境づくりをしよう!となったら、もう、1000パーセントの感謝です。

*本文の内容は、2022年5月20・21日に「那須まちづくり広場」でおこなわれた連続講座「那須町に『冒険遊び場』を作ろう!」(基礎編・実践編)をもとに再構成しました。

★つづきは、『ち・お』№132で! 全国書店でお求めいただけます。
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