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『教育は社会をどう変えたのか─個人化をもたらすリベラリズムの暴力』(明石書店)と競争に明け暮れた子育ての終わり

『ち・お』編集協力人・桜井智恵子さんの新刊に思うこと

帯文がクールだ。キャッチの下に書かれたコピーに惹かれた。

──「できる人が優秀」は幻想だった。

『ち・お』は専門家の言葉や言説を、わかりやすく伝える工夫と努力をして30年がたった。専門家はけして高みにたたず、読者のニーズに応える、というのが初代編集代表だった毛利子来(小児科医)さんの願い。

それはいまでも編集の柱として引き継がれている。

しかし、ここ数年、『ち・お』のきょうだい誌『お・は』では「平成の教育、子育て」を俯瞰する特集があり、そこに新たな感染症がやってきて、揺れはじめていた社会を大きくシャッフルするような状況がいまも進んでいて、私は「わかりやすく」の編集方針に少し違和感を感じている。

それはすでに、私自身が「子育て」世代ではないことによるところが大きいかもしれない。でも、それだけではなくて、石川憲彦(児童精神科医)さんが音頭をとり始まったネット上の「子育て相談」や、そこに至る前の編集部に寄せられる相談も、かなり複雑で厳しい内容だということも、一因だ。

相談は、「子ども」であることに間違いはないが、20代、30代、さらには50代という年齢の「家族」の悩みを抱えた親御さんたちからだ。

「大人は、人生には正解があるかのように子どもに向かい、示しがちだ。子どもが幼いときから、まずは子どもの潜在能力を見つけ、高めることが親の務めとか、子どもの学力を人並みにとテストの点に煩わされ、子どもに『寄り添って』いる」(第1章 子どもの現在 1 大人は自由に考えられない)

学齢期を過ぎた家族であっても、親子ともに煩わされていること、「寄り添って」いることの中身は、能力や人並みということに他ならない。親だけではなく、当の「子ども」自身もすでに親や社会が求めるものに価値を見出し、やがて「できない」自分を責めていく。身動きがとれない。自分の眼を取り出して洗うことが難しくなってしまう。

学力はほぼ将来の集金力と言い換えることができ、集金された多加が幸せの基礎になると思いこまされていた……例外はあるけれど、多くはそうだと気がつくのは、親も子も相当に傷つき混迷したあとのことだ。

どこが、なにが、間違っていたのか? 可愛くて、愛してやまないと抱いていたわが子が、怪物のように見え、異常な言動に思え、まるで腫れ物に触るように、緊張を強いられる関係になぜなってしまったのか?

桜井さんは本書で、私たちの子育ての「なぜ?」に「なぜならば」という長く詳細な「歴史」を積み重ねて答えてくれている。

それは、「さらっとわかりやすく」とはいかない。

80年代。『ち・お』の創刊時に読者になった人たちが親になった頃、日本には欧米のフリースクールが紹介されるなど、教育の多様化が注目をされた。けれど、やはり、いつのまにか、私たちが信仰していた。「教育こそ、学校こそ、宿題こそ、点数こそ、学歴こそ」教に。

桜井さんの新刊は、そこに渇をいれる一冊だ。

近年のご研究をまとめたこの本は、専門書というジャンルに入る。『ち・お』でさえ、書店では専門書に入ってしまいなかなかお目にかかれるものではないが、ましてや本格的な研究書は私たちの目前にそう現れない。明石書店刊。版元からぜひご購入ください。(P松田)


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