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勉強が辛いことだと刷り込む大人たち

我々は「自分がしてきた・されてきたことを踏襲すること」がとても好きだ。「ずっとこうしてきたから」というセリフを何度聞いたことか。

子どもの教育やしつけについても然りで、当時は本当に嫌だったことなのにも関わらず「私たちもやってきたのよ」と言いながら押しつけがちだ。そこには、「自分が通ってきた道を否定されてしまうような感覚」があるからなのだけれど、本当はそれは否定ではなくアップデートである。

そもそも子どもたちは「学習すること」を楽しみながら行うことができる。子どもたちは日々のんきに遊んでいるように見えるかもしれないが、その行為はすべて学習になっているということをまず理解してほしい。

就学前の子どもたちはどんな物事にもある程度の興味が持て、自発的に楽しんで取り組むことができるので、保育士はその部分をできるだけ伸ばせるようなねらいを持った遊びを年齢別に保育の中に取り入れて生活している。

そう、学習すること=楽しいという構図がこの時点では成り立っている。ではいつ、これが学習=苦痛になってしまうのか。

ここからは私の持論なのだけれど、それは教師や保護者の学習に対する言動が大きく作用していると思っている。

これを読んでくださっている皆様は「宿題」好きですか?

私は、宿題というものは仕事でいえば「家に持ち帰ってやる仕事(サービス残業)」に当たると思っている。大人なら、帰宅後は何かキャリアアップにつながる勉強をする人もいるだろうしジムで体を動かす人もいるだろうし、読書などに時間を当てる人もいるだろう。その時間はそれぞれ自由に使うことができるはずだ。

にもかかわらず、子どもたちは毎日学校から宿題が出され、1~2時間、自分の意思にかかわらずそれをこなす時間を消費させられているとは思えないだろうか。宿題をする時間のせいで自分の興味のあることを学ぶ時間が減っている、と考えることは?

子どもたちは自分の興味のあることは大人が強制しなくても自分から進んで調べたり学んだりしていくものだ。そもそも成長期とはそういう風にできている。

それならば、私たち大人は、それを邪魔しない声かけや行動を心がけるべきではないか。

子どもたちが興味を持ったことを否定しないこと。疑問を持った時は学びのチャンスなので一緒に取り組んだり調べる手段を知らせること。基礎学習は大事だけど、アプローチの仕方は沢山あるのだから自分のやり方を押し付けないこと。

特によくあるのが、「手書きしないと頭に入らない」「パソコンやスマホ、電子辞書じゃなくて紙の辞書を引かねばならない」「短時間で学習になるはずがない」「ちゃんと机に向かわなければならない」という思い込み。教師ですらいまだにこういう意識の人がいる。

子ども一人ひとりに合った学習方法はそれぞれ違うので、保護者の自分と子どもは別の人間で学習方法も時代も違うということをしっかり認識したうえで、そこを一緒に模索していく方に舵を取ってほしいと思う。そこには大人自身の学びもあると思うし、大人が子どもに真剣に対等に向き合って取り組む姿勢を見せるのはとても良いのでは。

教師にはぜひ、「宿題」をどうしても出したいなら「自分でやりたいことをやる」という風に向きを変えてあげてほしい。そして何をやってきても否定しないこと。

何をするでも自発的にやったことは身に付きやすいものだ。それは学校の勉強も同じ。どの科目もできるだけ長く楽しく興味を持って取り組めるようにするのが大人の役割だと思っている。成長するにしたがって、自分で好きなものを選んでいくようになるし、そこまでに「自分一人でも学習する手段を知る」が達成できていればよいのではないか。

興味のある一点から枝葉が伸びて違う点と結びつき知識として世界が広がっていく楽しさ、そのシナプスのような広がりをすべての子どもたちが阻害されることなくのびのびと広げていける環境が整えられますように。
わずかでも私もその手伝いが出来れば嬉しいと思う。


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