凍蝶

それはもう誰もが認めるアウトローであるサカモトと私が秘密を共有し始めたのは冬休みに差し掛かる頃であるから十二月も半ばを過ぎた時だった。授業の席にサカモトは居なかったから、またどこかで喧嘩でもしてるのでしょうね、もしくはサボっているかのどっちかだわ、個人的には喧嘩の可能性にスパイシーチキンを一枚、などと書かれたノートの切れ端を前の席の同窓の女生徒に渡した直後のお昼休みだったのである。
私は特に散歩をしたいでもなかったのだが、その日は学友が委員会や吹奏楽部の仕事と練習に追われているので一人でお弁当を食べるのもどうかと思いまあ外の景色でも眺めようと魔が差したのもあったためか中庭のベンチにお弁当を持ってカチカチに冷めたごはんに箸をつけようとした矢先にサカモトが現れたのである。
私はサカモトの頬を見た。それから学ラン、ブカブカのズボンに靴元、殴られた跡から服装、髪型の乱れ具合、靴やズボンへの泥や血のつき具合がないかつぶさに観察したがそんなものは無かったことに落胆したのだった。さらば私のスパイシーチキン。
「ナカオカ」
「財布はありません。命だけはお助けを」
「……喧嘩売ってる?」
半分は本気で答えていた。陰口を言っていたとしても、私はサカモトのことを関わり合いたくない類の人間だと思っていたのだから。
「財布がないからって喧嘩を売る余裕はないからごめんなさい」
「俺はそんな見境のない人間じゃねえよ。こいつを助けてくれ」
「……これは何?」
サカモトが投げ出すように伸ばした手のひらを広げると、白い花のような薄い羽がピタリと重なっていた。
「蝶々だよ」


私はその蝶々を見て、これは死ぬなと思った。
「どうしてこれを助けるの?」
「たまたまこいつが駐車場にいた。センセの車に潰されるのも可哀想だ。動きもしない」
「残酷なことを言うようで悪いけれど」
私は生物に詳しくはなかったが、持てる知識をなんとか手繰り寄せて言った。
「冬の蝶々ってもう長くはないの。だってそうでしょう? 蝶々は春から夏にかけて多く見られるじゃない。いや、冬の蝶々だっているかもしれないけれど、俳句だと冬の蝶って弱々しく切ない蝶のことを指すのよ。もうその子は助からないわ」
「でも、俺はこいつを掴まえてしまった」
サカモトは唇を噛んでさぞかし悔しそうな顔を見せるのだった。自分の無力を呪っているのね。私はサカモトに抱いていた思いとのギャップに胸の錘をヒョイと投げるような気分になった。
「ちょっと手を貸して」
私はサカモトの手を自分の顔の近くに寄せ、口を開けた。サカモトの手を食べるんじゃないかって思うくらいに開いた口を彼の手に近づけると何度か息を吐いた。冬の空気に触れた息は白い霧のようになっていて、サカモトの手は反対に赤くなって、体温と吐息の温もりで蝶々が生き返ったらいいのになんて思いながら、私は息を何度も、何度も吐き続けるのだった。


蝶々の羽が微かに動いた。やがてありがとうも言わずにどこかへ飛んでいく。延命したものの、近いうちに死ぬのだろう、と思った。私とサカモトの選択は正しかったのだろうか。私は少しだけ後悔するのだった。蝶々に苦しいだけのつかの間の生を与えたことの重さに。
「これでよかったのかな……」
サカモトは泣かなかったが、暴れたがりのガキ大将が暴れ疲れて母に寄り添ってしまうような、子供じみた切ない顔を浮かべた。
「ねえサカモト。もしも私と話をしたことも、ましてや会ったことも無いと仮定して、見ず知らずの私が足を怪我でもしていて道路の真ん中で誰からも助けられないでいたら、貴方はどうする?」
「助けるさ」
即答だった。
「そういう事よ。それよりね」
私は冷めきったお弁当に箸を戻して言うのだった。
「手、洗ってね。ご飯の匂いしかしない息をかけてしまって、恥ずかしいだけだから」
サカモトは私の吐息で赤くなった手の色と変わらない顔で生徒玄関の方向へ駆け込むのだった。以来サカモトは私と会う時、バツの悪そうな表情をするのだが、私はサカモトの意外な一面を見たような気がするのを密かな思い出として胸に閉まってあるのだった。

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