群青色の空に煌めいて

 芝生が泣いていた。空はどこまでも群青色を誇っているというのに、夏空の煌めきの下で、あらゆる生き物は刺されるように日差しを浴びせられているのだった。
 芝生が原に来ていた。そのような通称に特別な意味合いはない。芝生が生い茂っている野原で芝生が原だと誰かが言い出したのが始まりだそうだが、そのようなものに興味はない。ただ、当時の私はどうしてこの地を踏んでいたのかもよくわかっていない。
 例年より暑い夏だという。他方では公害なんてものが出始めた時分、大人の世界はめまぐるしく変わっていくのだが、幼かった私にとっては只いつもより暑い夏というだけで何の感傷も湧かないのだ。それは大人の世界を知らない私の何色にも染まらない、悪く言えば無知で世間知らずな性格でしかなかった。思えばこの日にこの地を踏んだことが、これからの十数年に渡る父への些細な憎しみの源泉だったのだが、未来に思いを馳せるような考えは無知無垢の私にはなかった。


 近頃、好景気だという。市議である父の口から出てくる言葉は、「景気」「経済」「政治」のような類の言葉だった。父の言葉の意味はよくわからなかった。ただみんなが豊かで幸せになれる、これからなるんだ、というニュアンスの捉え方をしていたと思う。だがそれは大人の世界の話であり、私にとって子供の社会というのは居心地の良いものではなかった。父の発言や行動や立場といったものが子供を通して私を攻撃する鈍器になっていた。そんな肩身の狭いで家に帰りたくはなかった。気づいたら、あの群青色の空が見える芝生が原に来ていた。
 景気が良いという言葉を聞く年ほど、芝生が原には人が来ていた。豊かさを求めて田舎の男手が都市部へと流れていく。流れた人たちと交換されるように、都会の人たちは見知らぬ風景を求めて田舎へと観光する。自動車のガスの音、目を覆うような煙に悪臭が、時折私の住む田舎でも感じられるようになった。市庁舎のある地域ではコンクリートの建物も目立ってきた。それでも、私は私の信じる美しい風景がいつまでも続くものだと思っていた。


 しかしその日は平日でもあったし、車も人影も見られなかった。ただ音が聞こえる。美しいが、いびつな音。そのような不完成な音すら私の心を洗ってくれて、気が付けば何もない芝生が原の空気を胸いっぱいに吸い込んでいた。
「こ、こりゃお客さんかね」
 音の主は、みじめだと感じるほどずさんな格好をしていた。私は見たこともないような動物を初めて見たような気がした。
「こ、これは悪かった。こ、怖がらせてしまったね」
 吃音気味の声の主は中国の仙人様のようなひげを蓄えていた。ひげさん、という呼び名が私の中で浮かび上がった。
「ひげさんは誰?」
「ひ、ひげさんってぼ、僕の事?」
 ひげさんはまんざら嫌でもないらしく、「ひ、ひげさんか、こ、こりゃいい」と上機嫌だった。それから私の言葉をよく聞き取れなかったのか、何者であるかは答えずに、「お、お嬢ちゃんもどうだい?」とハーモニカを差し出したのだった。
「いやよ」
「ど、どうして?」
「だって、おじさんが吹いたハーモニカでしょう? その辺に落ちていたのかもしれないし、汚いわ」
「そ、それは残念だね。で、でもさ」
 ひげさんはハーモニカに口を当てて適当な音を出していた。何か曲を吹いているのかもしれないが、私には何の曲なのかわからなかった。
「お、おかしいな。せ、せっかくお嬢ちゃんがいるのに、おもてなしもできない」
 その姿は滑稽だった。でも私はひげさんを嫌いにはなれなかった。
「ま、またおいで。ぼ、僕はここにいるからさ」
「おうちに帰らないの?」
「い、家なんてないよ」
 家がない。私にとって、言葉で頭を殴られたような感覚になったのは後にも先にもこの時だけだった。それはいかに自分が親から与えられたテリトリーでしか生きていなかったのかを知らされたような気がしたのだ。
「でも」
 私は怖い気持ちを抑えながら、しかし怖いものを知りたさに口を開いた。
「今は好景気だよ? おうちがないなんて、嘘だよ。働くことだってできるでしょう?」
「は、働けないよ」
「それはどうして?」
「あ、足が悪いんだ。それに、ほ、ほら、変な話し方だろう? ば、馬鹿にされたら胸だって痛いんだ。で、でもみんなわかってくれなくて、こ、ここに住んでいるんだ」
 私は深く考えることはできなかった。思えば幼い私は、ひげさんの言うことは私が目を逸らしたい大人の世界の暗色を示していたのだと思って考えることを拒絶していたのかもしれない。
「と、とにかくまたおいでよ。こ、今度は君がハーモニカを持っておいで。ぼ、僕はここで待っているからさ。い、一緒に吹こうよ」
 ひげさんの顔は朗らかだった。私はまた来るわと言い残して帰るのだが、後ろめたい気持ちもあるのだった。


 結論を言うと、それからひげさんに会うことはなかった。
 私はハーモニカを父にせがんだ。実際に買ってもらうことはできたし、何度も練習したのだが、徐々にひげさんのことが自分の中で小さくなってしまうのと、学業に勤しまなくてはならないことからひげさんのことは忘れそうになっていたのだ。そのうちハーモニカも埃まみれになってしまった。
 中等生、高等学校と進学しても、私は市議の娘であるということから敵を作りやすかった。味方はいたのだが、味方であって友ではないと思った。今にして思うと、私の本当の友はひげさんしかいなかった。だが、それに気づくこともなく成長してしまった。
 私は大学に入るにあたって、父に反発した。私は音大に入りたかった。音を奏でることが好きだったからだ。だが、どうして音を奏でること、メロディーが人に感動を与えるのか、そのことを考え始めたきっかけを思い出せない。父は政治学を専攻してほしいようだった。ゆくゆくは役場勤めにしたいようだったが、父の思惑を知るほど私は父に反発したくなった。それが父への拒絶でもあったし、自分の意思表示でもあった。
 私は音大に行くことに決めた。父は折れたわけではなく、親子の縁を切るとまで言い出したぐらいだった。
 音大は合格した。私は東京に行く。見知らぬ都会の景色に思いを馳せながら荷造りのさ中に、あのハーモニカを見つけた。


 私が実際に芝生が原に戻ったのは、地元に音楽の教諭として赴任したことがきっかけだった。
 あの時の景色はもうない。子供の頃の風景、子供の頃の感情、それらは成長と共に色あせて、私は童心を失ってしまった。子供たちが成長する過程の中で、大人たちは社会を動かしている。例年、暑さを増しながらやってくる夏。芝生が原には父が主導で建設したリゾートになっていた。地域の観光業を栄えさせるために、芝生が原の開発を進めていると知ったのは、私が音大生になってからだった。
 芝生が原リゾートと名前を変えたその地は、もう私の知っている風景ではない。そして私の心にも、ひげさんと過ごした一日の夏の思い出はなくなっていた。
 父の顔でホテルを見学させてもらった。せめてひげさんを思い出せるものがあればいいと思っていたのだが、何もない。
 ハーモニカ。思えばあの日のハーモニカが、私の今を作っていた。
「ここを開発する時のことですが」
 私は担当の職員に話を聞いた。
「例えば、ホームレスのようなおじさんだとか、ハーモニカを吹いている男の人の話を知りませんか?」
 職員は怪訝な顔をしていたが、何とか記憶を手繰り寄せるように眉間にしわを寄せ、答えた。
「ホームレスなら、何年も前にこの近くで倒れているのを市民の方が発見したニュースがあったと思いますがね、もう亡くなられたと思います。そういえば、ハーモニカというか……すいません、楽器には詳しくないのですが、そのようなものを持っていたような気もしますが」
 私は動悸がした。私にとっては子供の頃の記憶でも、ひげさんにとっては大切な約束だったのだ。


 それ以来、私は父を憎んだ。いや、ここではたまたま開発を主導した父を槍玉にあげたが、本当は私の知っている風景を奪い、ひげさんのような人を生み出した大人たちの社会が許せなかった。父は仕事をしただけであるが、きっと私のひと夏の思い出のことなど、知る由もないのだろう。そして本当に私が憎んでいるのは、私の友となってくれたひげさんのことを忘却した私自身なのだ。
 だが、たとえ芝生が原が変わっても、群青色の空は変わらない。あの空のもっと上で、ひげさんがハーモニカを吹いている、そんな気がしてならないのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?