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2023年12月11日(月)みかんを持って

まだ月曜日かぁ、と思いながら電車に揺られ、
最寄り駅に着いたのが22時過ぎ。
コンビニを出て傘を開いた視線の先に、
奇妙なおじいちゃんがいた。

この雨の中、傘も持たずに手押し車を押し、
ゆっくり、とてもゆっくり歩いている。
仄かな街灯に照らされた、濡れて重そうな外套。

何が奇妙かと言えば、そこは高架がある道。
高架下を通れば濡れないのに、
わざわざ濡れる道を選んでいる。

たぶん、認知症の人だ。

かけよって傘を差し出し、
「大丈夫ですか?」と尋ねれば

「うんうん」と頷く。
「家はすぐそこだから」と。
脳血管系か神経系の病気の後遺症か、
うまくしゃべれない様子。

おじいちゃんが指差したのは150mくらい先。

しかしおじいちゃんは、歩くのがとても遅い。
10秒に1歩踏み出し、
その1歩もとても小さなもの。
家がすぐそこでも、
とんでもなく時間がかかるだろう。

「おじいちゃん、家族の連絡先とかわかりますか?」
と尋ねれば、手押し車のタグを指さしてくれた。

タグには、老人ホームの名前とその電話番号。

家って老人ホームのことか。

その老人ホームをマップで見ると、
おじいちゃんが進む方向とは真逆。
徒歩10分との表示。

一般人の徒歩10分は、
おじいちゃんだと一体どれだけかかるんだ。

ホームまで送っていくという選択肢は消え、
施設に電話することにした。

「おじいちゃん、名前は何ていうんですか?」

「フジワラ。フジワラトシアキ」
初めておじいちゃんがはっきりと喋った。
フジワラ。フジワラトシアキ。
このリズムが、おじいちゃんの体の中に
刻まれているものだと伝わる。

ホームに電話して状況を伝えると、
「ご迷惑をおかけしてすみません。すぐ向かわせますんで!」
と女性の声。
よくあることなんだろうけど、
その声に安堵は含まれていなかった。
フジワラさんのことを探していたのかも
よくわからない。
どういう感情だったのだろう。

電話を終え、フジワラさんに
「施設の方が迎えに来てくれるみたいです」
と伝える。
それでもフジワラさんは歩みを止めない。

「家はすぐそこだから」
と変わらず言っている。

そこで私は気づく。

フジワラさんの「家」は、
老人ホームではなくて、
前に住んでいた家なのか。

「フジワラさん、その家には誰かいるんですか?」

「いや」

「フジワラさんだけ?」

「うん」

「その家は長く住んでいたの?」

「うん」

フジワラさんは
手押し車に乗せたビニール袋を触って、
「たべもの」
と言う。

袋にはたっぷりのみかんが詰まっている。
絶対に一人では食べない量のみかん。

誰かと食べたいんだろうな。
フジワラさんの奥さんのことを想像する。
きっともうこの世にはいないのだろうけれど。

「一人でおうちへ帰ろうとするの、初めて?」

「うん」

「え、初めて?」

「うん」

「何かきっかけがあったの?」

「わからん」

「急に思いついて?」

「うん」

そのとき私は悟った。
フジワラさん、もしかして死期が近い?

自分が長く暮らした家で、
もしかしたら奥さんと、
もしかしたらお子さんと、
一緒にみかんを食べたくて、
雨の中一歩ずつ帰ろうとしている?

フジワラさんは、はっきり言った。

「俺は帰るんだ」

この言葉は、
何があっても尊重されなくてはならない
彼の意志だった。

よくないことをした。
彼の意志に反することをしてしまった。

私、悪いことしちゃった。

と声に出すと、
フジワラさんは
「ううん」
と手を振った。
いいんだよ、と許してくれていた。

泣きそうだった。

施設の人が来るまで、
私はフジワラさんと一緒に歩いた。
おうちの方向へ歩いた。

施設の人が来てしまう前に、
どうかたどり着いてくれ、と思った。

その時間は長いように思えたし、
実際フジワラさんは結構進んでいた。

だけど遠くから男性が、
車椅子を押して走ってやってくるのが見えた。

私はその迎えの男性が見えてから、
フジワラさんに謝った。

「ごめんね。本当にごめん」

フジワラさんは歩みを止めない。

「すみませんね!」
と男性。40代くらいか。

「フジワラさん、おうちに帰りたいみたいで」
と私が言うと、
男性は「?」みたいな顔。

男性は「もう話すことはない」という顔をしていて
確かに話すこともない。
ただこれで帰るのも申し訳ないので、
「何か手伝えることはありますか?」
と尋ねる。

「大丈夫ですよ。雨も止みましたし」

気がついたら雨は止んでいた。
ハッとして傘を閉じる。

男性は慣れた手つきで、
「フジワラさん、ここに座ってくださいね」
とフジワラさんを車椅子に座らせる。

「どうもありがとうございました」と
男性が私に頭を下げ、
フジワラさんの家とは逆方向へ帰っていく。

フジワラさんとは目が合わなかった。

フジワラさんが数十分、
あるいは数時間かけて歩いてきた道のりを、
男性は車椅子と手押し車を押して
ぐいぐい進んでいく。

私はとぼとぼと、
フジワラさんが指差した「家」の方向へ歩く。

フジワラさんの「家」は
取り壊されたあとだった。


*おじいちゃんの名前は仮名です。

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