風が吹けば桶屋が儲かる

人間以外の生物が、人間ほど知能レベルが高くない、その理由を考えることがある。私の中で最もしっくりくる説は、「知能を発達させることで獲得してしまう苦しみをどこかで感じ取り、意図的に避けているのではないか」というものである。つまり、人間はその苦しみを予見することができず知能を発達させてしまった、劣等生なのではないか。

人間にできて動物にできないことの1つとして、「物事のカテゴライズ」があるという話を聞いたことがある。

例えば、人間はマルチーズとレトリバーを同じ「犬」として認識できる。大きさも毛並みも全く異なるにも関わらず、である。
対して犬は人間を「人間」として認識できていない。1体1体を個々の動くものとして認識している、とされている。

これが何を意味するか。そこには1より大きい数、「複数」が生まれる。この「複数」が厄介で、我々人間を苦しめている元凶だ、と私は考える。

八百屋で大根が売っている。同じ大根のようで、ひとつとして同じものはないはずである。大小もあるし、土がついていたりいなかったりする。にも関わらず、どれも同じラベルが貼られ、同じ値段で売り買いされる。違うものが同じものとして扱われる。

この大根を100人が1本ずつ買うと、大根は100本売れたことになる。同じ大根は2本とないのにも関わらず、さも同じ「大根」が100本売れたことになる。

このカテゴライズ能力と、「値段」という単純で分かりやすい指標により、取引は格段にスムーズになる反面、そのもの自体を判断する力は着実に衰退する。記号化による感覚機能の退化とでも言おうか。

その昔、人間は天気を感覚によって予想できたと言う。その字の通り、空気を読むことが本当に可能だったと言われる。感覚機能が持つ複雑な情報を処理する能力はそれほどまでに優れていた。

人間は感覚機能を次々に外部化、記号化し、感じることを捨て、そのかわりに”理解”してきた。ただその”理解”には限界がある。伝え聞いた神の姿のごとく、意味を捉えようと神を真に感じることは永久にないだろう。それほどに感覚機能は理解の先にある。

生物はそのことを直感しているのではないか。そして、人間だけがその危機を直感できず、感覚機能を外部化した結果、”理解”の外での享楽を感じられなくなった。”理解”の内にある「数字」以外を信じられなくなり、相対的な評価に奔走する生き方を選ぶ他なくなり、そこには終わりのないラットレースが繰り広げられる。

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