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インクルーシブと言える人の特権性


【わが家の一男三女のエピソードnoteの途中ですが、ちょっと気になった雑感を書いています。】

インクルーシブな社会を目指すことが、恵まれた立場にいる人々によって行われているという違和感。

これは何かにつけて仲間内で話題にする事なのですが、元はと言えば恵まれた、何も意識せず居られるという特権性を持つ多数派の人たちから、少数派の人たちが排除されたという事をスルーしたままインクルーシブが語られてしまう事への違和感なのかもしれない。


この違和感を解消するために、まずはインクルーシブを語る人たちが『自分は恵まれた立場なのだ』という特権性とインクルーシブを語る時の無知を自覚し、多様な少数派の声を可能な限り反映しながら具体的な支援策や配慮をする努力が必要なんだと思う。そんなアプローチを通じて、インクルーシブな社会を真に目指す、完成されないかもしれないけれど目指す、をはじめて語る事が出来るのではないかと思ったりもする。

多数派の価値観が前提だから必ず傷付く誰かがいる


インクルーシブな社会の実現は熟成の時間を要するし、そもそものインクルーシブという認識が人によってかなり異なる事も課題を複雑にしている要因だと思っている。私が思うインクルーシブというのは、みんなごちゃ混ぜ、ではない。ご縁が繋がったり離れたりの余白のある緩い繋がりを『選べる』という事。そして特権を持つ人々がその特権を活かし、積極的に多様な場作りをし、更にそこでは特権性を自覚しながらもマイノリティ性との差を取り、『共にそこに在る』ことで、多くの人々が安心して参加できる社会が実現されるのかもしれない、と思っている。更に言えばその特権性を持つ人たちですら常に脆弱性を孕んでいる事を忘れてはいけない、とも思う。

エンドレスに取りこぼしが起きてしまうのは、どこまで行っても多数派が権力を持っていて、『この社会のデフォルトだ』という事から抜け出していないから。そのデフォルトを崩してはじめて、『みんながありのままで居ていい社会』が実現されるのではないか。

インクルーシブな社会を目指すと言えるのは、恵まれている側にいる事を忘れてはならないと思う。そもそも当事者はインクルーシブ(多数派とのごちゃ混ぜ)を望んでいるのか?声をあげ辛い当事者は、そんな無自覚な多数派からのマイクロアグレッション(意図的か否かにかかわらず、政治的文化的に疎外された集団に対する何気ない日常の中で行われる言動に現れる偏見や差別に基づく見下しや侮辱、否定的な態度)によってじわじわと傷付けられているのだから、その痛みと向き合えて、受容出来て議論のスタートに立てるのではないか。

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