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無いで止まるは、ただのネズミ


①  歴史における大々的な無いの到来

『あなたの主観ですよね?』そう言われそうですが、

『はい主観ですが、それが何か?私の主観とあなたの主観は同義ではないですよね?』

そうきっと返すだろう…。

時間にしても、宇宙にしても、神にしても、己にしても、無いの前提、それはわかる。

しかしある側面にして、無いがあるに転ずる事がある、それは本当に無かったのか?

疑問が湧く、無いと言う捉え方もあると言うだけの話、

極論を言う、無いなど無いのだ、無いと言う概念すらある、空の話にもつながりそうではあるのだが、前提はわかる時間も、固定的な我も存在しなかったのには同意する。

しかしこの具現化された、あると言う、境目は何なのか、無いをあるに変えた概念の世界なのでは無いのだろうか。

②『無い』の領域

無いの領域は深淵の領域、安定の領域、絶対の領域

そしてここは、それらが形を変えたからこそ、生まれた領域、無いを源とした可視化の世界とも言える。

深淵は、『本来ならば!』の、たらればの次元、人が生きる上で本来扱うべき領域ですら無い。

そして扱える代物でも無い。

そもそも聞きたい、無いとわかったところで何とする?

好き勝手生きるのか?無い事で実際君らはどう生きるのか?人類にどうなれと感じるのか?

それすらも何も無いで片付けるのだと思う。

何も無いのであるならば、その言葉は口にすることすら、私ならはばかれる。

あるのならば口にすべきだとも思う。 

常に前提として踏まえるべきだとも思う。

何を求め、人は彷徨いその答えを見出したのか…。必ずあるはずだ、君らが無いに至った理由。

それがある、その先は必ず存在する、無論君らの頭にそれが生まれい出るものかは、分からない、しかしその事で憤る、私の感情は強く吹き出す。

吹き出させるが為に、それは存在するのか?

それならば、こんな腹ただしい事はない、

その情報の発生源はどこですか?人ならばあえて何もいうまいが…。

どちらにしろ人はまた誤解釈の末、間違いを犯す。

それは間違いのないことで有る。

③ 重要性は有ると無いでは無い

よく、スピリチュアルな世界に生きる者たちであれ、科学者であれ、哲学者であれ、無いを、説くものがいる。

この事は一部なんの問題もない、それは概念上事実なのだから、問題はその先、受けての存在が必ずいる事だ。

常々私はこれに疑問を持っている、あるに依存し、人生を崩壊させたことも事実存在する、歴史を崩壊させたことも事実存在する。

神を置いたばかりに、争いは存在した。

時間という概念がそれを許した。

自我は自我に翻弄された。

それは神が存在したからなのか?

時間が存在したからなのか? 

あなたと言う、己が存在したからなのか?

無いを説いた理由、その先の言葉を理解しているのか?

思えば生物は意識を持たない事からの進化の過程で始まり、意識を持つようになった、その末与えられた概念、しかしそれは進化の過程、当初存在は必然であり、永遠にそうで有るかに思えた、がしかし、全てに意味があるのか無いのか、そこにようやく歩を進め出した。

そしてこの答えの出し方も、本当はわかっているのだろう?

前提として、無いこそ簡単なのだ、そして多くの誤解を植え付けるもの、あなたがそう言うつもりでないにしろ、常に人の危を操るものなのだ。

極論言うなら、ないにそれほどまでに固執したいなら死ねば良い、軽率な表現かとも思うだろうが、私はそうは思わない。

何故なら、無いの答えは、人1人の命すら奪いかねないから…。

当然、この事は私にとっては当たり前、だからこそ憤る。

なんの帰結も準備せず、無神経にその言葉を準備するならば、その言葉によって死を選択する者たちが現れる前に、君がまず死んでしまえ。

それが私の考え方であり、もちろん飛躍した感じ方。

強いて言うなら無いでも有るでも構わない、無いをベースに考える、あるをベースに考える、双方どちらでも構わず、重要視すべきはその先である。

タイトルを終わるではなく、止まると表現した理由は、その先を模したものである。

終わるは、そもそも人類の思考に似つかわしく無い言葉に思う、人は止まる事はできても、容易には終わる事は出来ない、ただ容易にはという部分が引っかかる。

あくまでも止まるは終わりではなく、途中なのだ。

④ 絶滅論

リンクがうまく貼れん❗️



ユニバース25という実験がある。

大それた名前ではある。25は検証回数。

ようは哺乳類の祖であるネズミを用いた実験、

繁栄〜格差〜乱れ〜秩序の衰退〜、非道徳〜、絶滅

ざっくりしてすまないが、子殺し、育児放棄、性への無関心、繁栄からの解離、やがては絶滅、まぁ細かい詳細は読んだり、見たりするのが早いかも知れない。

⑤ 脊椎における情報と新たなるネズミとは

脊椎に眠る情報の中に、滅亡のシナリオは既に組み込まれている、何故か?

それは当然で、いくたびもの淘汰の歴史の末、それを逃れ、その度その情報は脊椎内に、数万年も保存されてきた。

遺伝的記憶としての結果に過ぎない、現在人類のテーマはないという概念に向かっている。

その無いからの崩壊の情報は確かに存在する、しかしこれは、現状の話でしか無いのだ、新たに生まれるネズミの中に、これを書き換えようとする者が存在する。

無いとは言わせない、私がそうなのだから、一でも構わない、異常者でも構わない、破綻した者でも構わない、ただこの示唆された人類の未来に、絶望は必要ない、淘汰と進化の繰り返しの何万年と言う歴史の中で、複合的な分子情報と、形成された遺伝子と、肥大化した体組織、発達していった脳、思考した人類の歴史、捉え出した科学、発見された深淵の側面、無いと言う概念、これらの段階は、新たな脳の精神の、感覚の、心の進化を余儀なくしている。

文字通りそれが行われないのであれば、間違いなく、滅びゆく定め、これには私も賛同する。

しかしそこで止まらぬための、思考する脳では無いのか?

⑥ 人間至上主義、危と希望の天秤

ここからは、人の領域、外物質など関係ない、半端な真理など毒でしかない、少数派の我々はその毒を喰らい、脳を使い、争い続けなければならない、闘争すべきは人ではなく、脊椎に組み込まれた情報。

きっと必ず何かある、そこで止まるべきでは無い、

人口78億という概念を捨てるべきだと、78億もの脊椎情報が子孫を残し、思想を伝え、必ずまた来るであろう淘汰に対抗しうる情報を作り上げている真っ只中なのだ。

だからこそ情報には気をつけるべきだ、

人は情報を好き勝手扱う、都合の良いように使いまわし、帰結を失う。

⑦ 特異点における特異点、同時多発的チャレンジ

そもそも不安定さが生み出された時すでに、全ての概念は約束されていた。

無いの中で、あるを立証できる概念の世界が此処なのだ。

万物における特異点こそが、すなわち此処になる。

無いに生まれるあるの理由、我々人族に与えられた、

『有るを思考する約束』

は、どのようにすれば叶うのか、それこそが命題である。

『無いで止まるはただのネズミ』

『新たなるネズミは存続の情報を模索する』

それこそが人類なので有り、これはまさに量子コンピューターさながらの同時施行なので有る。



注:この文の真の対象者は、無いの帰結に翻弄され死を選ぼうとするものたちに対する文。

わかりづらくてすまないね、いろんな受け取り方をできるように書いてるつもり🤔



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