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政治的手段としての踊り

ヨーロッパで踊りを政治的手段として使われるようになったのはそもそもの始まりは、15世紀ルネッサンス期イタリア宮廷内の豪華絢爛たる催しからである。当時、教養のある人物に知れ渡る、神話的人物がその時代風に色々な意味を盛り込まれ、寓話に作り帰られて、繰り返し上演されていた。

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イタリア皇太子の前で催された踊りを「バリ」(踊りを表すイタリア語「バラーレ」に由来)と呼ばれた。この催しも膨大な時間と費用をようし、画家、舞台設計、衣装担当、音楽家、脚本家、振付師といった様々な才能の塊である。ただこちらの舞台はたった一回のみ上演される。彼らはこの

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豪華な催しに参加することによって世間への地位を示し、王国の皇太子への寵愛への返礼とした。宮廷人として成功するには、馬術、剣術、話術と同様に、踊りにも熟達しておく必要がある。宮廷人としてふさわしい振る舞いをまとめた書「イル・コーテジアーノ」(1528年)の著者バルダサール・カスティリョーネによれば「ある種の威厳を漂わせているべきだが、同時にそれを和らげるような、優美かつ軽やかでしなやかな立ち振る舞いも備えていなければならない。」という。

ルネッサンス期の、音楽、絵画、文学と同様、踊りもまた当時の斬新な人道主義の影響を受けていた。1444年には複雑な新作の踊り方についての説明書が現れていたとされる。宮廷人が用いた様々なポーズの中には、ギリシャ・ローマ彫刻を模範したものもあった。手の込んだ上演技術は、メディチ家カトリーヌによってフランスに持ち込まれた。彼女は王権の影で実権を握った。それは、君主制の時代、宗教の時代、市民戦争の時代であった。去声をはるだけの王子たちだけでは宮廷を維持することはできなかった。ヨーロッパの王室は、宮廷内の催しでの競争に疲弊し、たちまち財産を失った。フランスでいう催しの「バレ・ド・クール」(宮廷の踊り)である。

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その後「バレ・コミーク・ドゥ・ラ・レーヌ」(王妃の滑稽な踊り)が生まれ、それはカトリーヌの息子アンリ3世のもと、1581年10月15日、ルーブル宮殿で王室の結婚式に上演された。

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※ルーブル宮でのバレエ(1581年)が宮廷バレエの最初のもので、イタリア人バイオリニストで作曲家バルタザール・ドゥ・ボージョワユールによる振付で、1555年に一団とともにパリに訪れ、メディチ家のカトリーヌの個人的従僕として使えた。

役を与えられた宮廷貴族たち喜んで、ダンス教師から指導を二週間ほど受け、稽古に励んだ。それが、フランス、イタリアの宮廷舞踏室においても複雑に発展していき、それが教養豊かな観客の目には象徴的な意味として円の内側に三角形を描くものがあるが、それは至上の権力を示すものであった。

かの「レオナルド・ダ・ヴィンチ」が舞台装置と衣装を担当したとされる「楽園」とともに次回へ

次回は、宮廷バレエの詳細へと迫ります。

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