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タヒチ島

1767年ポリネシア諸島に上陸した初の英国船ドルフィン号の船長サミュエル・ウォリスは、女性達の誘惑に体が赤くなる思いだったであろう。

後ろ髪を引かれる思いで、船に現地の人達が、果物を投げ入れる。

あざけりのようなものも感じたかもしれないが事実はどうだろうか。

(壊血病の改善に一つ貢献した風習かもしれない)

一風変わった初めての文化との出会いは、友好的、自己表現、好奇心に衝撃を受けたとある。

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数年後にタヒチに訪れた、ジェームス・クック船長も熱心に観察した記述が残っている。鮫皮のドラムを叩き歌う男達の伴奏に合わせて、足首まで樹皮布のスカートを着けて、上半身は何も身に付けない中、エレガントな仕草で手足を動かして踊る。そうかと思うと、「全く驚いてしまうような速さで腰を旋回させていた」という。それを行う少女たちに、品のない表現に感じたと言う。しかし、先住民にとってそれは、大きな喜びを表現するダンスであった。西洋式のダンスには一般に見られないことから、その後訪れる、宣教師たちも不快感をしめした。

神を喜ばせる、このダンスは上演場所をもち、「アリオイ」と呼ばれる歌舞団を、70艘ものカヌーが島から島へと行き来し行われていたそうである。


雨と豊穣を願う。普段私生活から離れた人々がダンサーを行い、夜を徹して踊られたと言う。中でも人気があったのが、大きな動物(なんなんだろう、もしや海洋生物かも)の膀胱で作った男根を着けた男性のパントマイムで、首長の性的な側面を盛り込んだ風刺画は大いに観客の笑を誘ったと言う。

(これは結構レベルの高い先輩いじりだとも取れる!)

1797年、ロンドン宣教師団が来島、統治者や司教の改宗を迫られ数年のうちに以前の面影を失うこととなり、

1820年まで、この伝統的なダンスは不道徳なものとして禁止された。

しかし、目の届かない所で続けられ、

1842年、フランス人がタヒチの統治権をイギリスから奪い取ったと同時に、この伝統的なダンスは復興した。

しかし、正式に公認されたのは19世紀末であった。

現在、タヒチの社会生活にとってダンスは重要な位置をしめてはいるが、音楽の多くが西洋の音階やメロディーが使われており、伝統的な歌詞の多くは失われている。しかし、身体の根本は変わらず、彼らが長年維持してきた、ジェンダーステップは脈々と受け継がれ、

現在「タムル」と呼ばれ、ナイトクラブやダンスホールで踊るダンスに見てとれる。


西洋式のカップルダンスとタヒチの伝統的なダンスが融合している、

男性特有のステップは踵を揃え、ハサミのように膝を開閉させる、腰は動かさない。女性は膝を折り、足の裏のボールの部分に体重を乗せて、腰を素早く旋回させる。男女共に頭部はまっすぐに保ち、腕はさほど動かさず骨盤を前に突き出す、腰から下の動きが主である。

この島の、ジェンダーの区別、人口維持の為の生殖コントロールまでされているこの伝統のダンスの真価。社会的、宗教的コンテクストはきわめて衝撃的なものであったであろうが、イギリスは押さえつける事しかできなかった側面がある。

ここからが少し難しいが、ユダヤ教、キリスト教など、ヨーロッパの伝統のカップルダンスや宮廷恋愛の理想の表現など、中世後期の南フランスまで遡り、当初の参加型で娯楽であるクラシックバレエの解釈が少し必要になるかもしれない。

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ポール・ゴーギャンの作品は指標になる。(彼の人生も面白い、今の画家よりも、冒険家カメラマンに近いといいますかね)

彼の作品の「イオ・オラナ・マリア」(アヴェ・マリア)

その当時認められてない衣装を身に付けた先住民を描き続けた画家である。

その中で、西洋の文化と融合する過程も見てとれる。

タヒチ人はダンスのメッセージをこう説明する。

「私は若く、健康的で魅力的だ。私は自分が誰なのか知っている。そして自分自身に満足している。」と。

そんなメッセージを込めて、今日のタヒチアンダンスは踊られ、世界もとより日本を含め、たくさんの方がそのダンスの魅力に取り憑かれているのである。


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