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夜間飛行

“愛されようとするには、同情さえしたらいいのだ”

ふらふらの頭のまま、部屋の本棚に置いてあった本をテキトーに引き抜いて勢いのままに開いたら、ページの初めに書いてあった。
サン=テグジュペリの『夜間飛行』、いつ買ったんだったか、最後に読んだのはいつだったか。

頭がふらふらするのは気圧のせいか、貧血なのか、微熱からかよくわからないけれど、

とにかく、走り続けていたら急に熱がでて、
原因も不明だけど、数日休まなくてはいけなくなった。非常に不本意である。


あの子たちの顔をみると私はすごく強い“母親”になれたような気がして。
背筋がしゃんとして、つよくて頼りがいがあって、打たれ強くて、ずっと笑顔でいられる気がするのだけれど、
“母親”を除いてしまった私は背骨を抜かれた烏賊のようで、ただぬるぬるとしか動けない。

ふと、部屋の中でつま先立ちで歩いてみた。
バレリーナみたいにピンとしてたら気持ちもしゃんとするのではと思ったが、一回転したらすぐ目が回ってベッドに倒れ込んだ。
そういえば烏賊は背骨が入っていようがぬるぬる動く気がする。


色々と書いてみたが、何てことはない、
ワーキングホリックが仕事を急に奪われて、ただ暇で腑抜けているというだけである。


思い切り寝るなり、溜まった観たい映画を観るなり、滞りまくりの研究を進めるなり、新しい掛け持ちバイト先を探したり、
色々やることは山積みで、いま書いているだけで吐き気がしてきたが、

如何せん私はいま背骨を抜かれた烏賊なのである、何もできない腑抜けである。


ずっと昔、人前で歌を歌っていた頃、
“しあわせ過ぎるといい歌が歌えない”なんて一丁前に話してた記憶が蘇ってきたが、
幸せでなくとも、喉も不調だといい歌はとても歌えそうにないのである。

自己表現の方法が少ないのは悲しいことで、しかも数少ないひとつが歌うことというのは、なんとも諸刃の剣だなあ、なんてくだらないことばかりが頭を巡る。


調子が悪いと、頭の中が言葉でごちゃごちゃしていっぱいになるくせに、うまく掴んで取り出したり、整理がむつかしくて、詰まって苦しくなるのがいつものパターンで。

なんでもいいから形になっていないものでもポロポロと破片を落として、溢れないようにしたり、だれかに拾ってもらったりしてどうにかやり過ごしていたけれど、

数年ぶりに体調までちゃんと崩しているので、
頭の中でぽこぽこ新しい言葉がどんどん浮かんでくるのに、
頭はふわふわして全然制御がいつも以上に効かない、というより、仕事を放棄してるといった様相で完全に言葉の供給過多で、雪崩が起きる寸前である。

子どもの頃の私の机の上みたいだ。


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こういう希にあるどうしようもないとき、どうしていたかを思い返すと、大学時代、親友といた時のことを思い出す。

彼は一緒に散歩して見つけたよく知らない花の名前を、調べて後で教えてくれるような優しい人だ。
歩いてて見つけた、“ちょっといい”にすぐ気づいて教えてくれるし、私の見つけた“ちょっといい”にもすぐ足を止めて一緒に喜んでくれる。
ごはんに行くと、メニューの全部が美味しそうに見えて一緒に優柔不断になるし、一緒に食べた料理がなんで美味しいか話し合ったり、隠し味に何を使ってるか必死になって探したりする。

つまりは、彼とは極めて物事を感じ取る距離感とか、温度とか、敏感さとかが似ていて、味わったり、それを表現するテンポも似ているから、
上手く言葉が出せないときでも、少ない言葉で伝わる安心感がある。

勿論、私が汲み取ってくれると甘えて期待してしまっているのも多大にあるかもしれないけれど。

私は、人に何かを正確に伝えようと思えば思うほど、
相手と自分の、物事を感じる敏感さみたいなものに、溝を感じれば感じるほど、

そこを多くの言葉で埋めようと、頭の中はさらに忙しく新しい言葉をどんどん生み出すし、
口からはどんどん付け足しの“それっぽい”言葉が湯水のように湧いて出てくるけれど、
口にすればするほど、多くの言葉を使えば使うほど、
全部どんどん嘘になっていく気がして、息が苦しくなっていく気がする。

だからこそ、息苦しくなく過ごせる相手というのは非常に数少ない貴重なもので、
だからこそ、彼のような人を大事にしたいと思っている。


昔、彼が喘息になった時には、暫く吸っていた煙草もすぐにやめられた。

今となっては、税金も高いし、吸えないところばかりだし、イライラして吸いすぎた日には眠りは浅くなるし、
やめて悪いことなんて、マッチで火を点けるのが下手になったのと、友だちのバースデーケーキのローソクに火をつけようとしたらライターが無くて困ったことくらいで、
やめるきっかけをくれて感謝している。

色々話は飛んでしまったが、
今以上に頭の中がどうしようもないときが多々あった(若かったし、私も自分のコントロールが今より、今ですら下手なのに、より一層、輪をかけて、下手であった)あの頃は、
大体彼と散歩をしたり、深夜のココスでお互いの研究について話していたりしたら(或いはほとんどくだらない話に逸れていたかもしれないが、)自然と浮かんでくる言葉のペースがゆっくりになって、勝手に落ち着いたものである。


そんな彼は、今は何故かコペンハーゲンにいるらしい。なんで居るのかは聞いていない。
コペンハーゲンの名前も、彼のインスタグラムのストーリーに載ってる写真から見つけて知ったのだ。
相変わらず、日常の“ちょっといい”を切りとるのが上手である。

コペンハーゲンが何処にあるのかもわからないし、何が有名かもよく知らないけれど、
とにかくすごく遠いことは間違いないと思う。
下手すると、地球と“バラの星”くらい遠いかもしれない。

勿論、コペンハーゲンには縁もゆかりもないので身体を置いて飛んでいくことはしないけれど。


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さて、気がつけばどんどん話はズレていって、何の話をしてたんだったか、わからなくなってきた。全部頭がふらふらするせいだと思う。多分。

今にもどると、結局この状況で、私の頭の中の机が雪崩を起こす前にどうするかという話で、
誰かほかの頼れる友人(このへろへろの調子とまとまらない言葉でも付き合ってくれる数少ないやさしくどこか愉快でチャーミングなひとたち)に電話でもするか、
いい加減“いい大人”なので、ひとりで打破する方法を見つけるかというところなのであるが。

如何せん、これを書き始める前、
ふらふらの頭のまま、ウーバーイーツで何故かクリームたっぷりのパンケーキを頼んだのは平日の午後で、
私の愉快な友人たちは基本的に労働に勤しんでいるのである。

では、ひとりでこのままこの調子の悪さが過ぎ去るのを待つか、と思うが、

無限にあたまの中にぽこぽこと浮かんでくる言葉たちに溺れて、1人うずくまって丸まっているのは、
たしかに苦しかった遠い昔の記憶がある。

早く時間を過ぎ去るようにしようとしても、
頭の中は既に言葉だらけでぎゅうぎゅうで、新しい文章は読んでも頭に入ってこないし、
何を観たいか映画を探す気にもなれないし、
かといって眠れもしないのである。

そして、こういう時に限って、デリバリーの到着は20分遅れるらしい。


そのうち、酔ったら気が大きくなるのと一緒で、頭がボーっとするまま、
“なんで私が防戦一方でひとり耐えなきゃいけんのだ!”という変な怒りまで湧いてきた。

そして、
“じゃあ、もういっそのこと、この勢いのまま、溢れてくる言葉をそのまま出してみよう!とどめておいてやるもんか!”
と思ったわけである。


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“サッカーがこの世で1番素晴らしいスポーツ”、という強めの思想を持った指導者の父親から、男兄弟の中に生まれて私だけサッカーを習わずに過ごして、
サッカーのない私には、本だけが楽しみだったのを覚えている。

田舎でそれ以外の娯楽もなかったし、
中学生まで夢は小説家だったし、文章を書くのも好きだった。

昔、“青少年の主張”に出した作文とか“〇〇文芸コンクール”に出した詩が結構大きな賞を獲ったこともある(〇〇の中身は忘れた)。


こんな感じで昔のことを書き始めると、なんかちょっといい話でも始まってしまいそうであるが、
現実はそうも上手くいかないものである。

実家に帰ったとき、
そう言えば私昔はいい文章書けたはずなんだよな、なんて思いながら、貰った受賞作品集を探し出して。

読み返してみると、
どれも、まさに“青少年”、というか、“思春期”、というのがひしひしと伝わる絶妙な苦しみ方と痛さが相まっていて、
本棚の前でクラクラしながらどうにか読み終えたのを覚えている。

審査員の人が他人としてこれを読んでまさに!青少年の主張!って選んだ気持ちもわかるし、
中学生の時、お母さんがこれを読んで、なんでこんなの書いたの!って、賞を獲った作品に、当時顔を真っ赤にして怒ったのを思い出して、頷ける痛々しさである。


そして、そんな私が、
高校生で出品した詩を書いた以来、これが私のプライベートで長めに文章を書く初めての機会なわけだ。

ベッドで横になりながら打っていたら、
薬も効いてきたのか、大分頭のふらふらも落ち着いてきて、
言葉でまだ頭の中はいっぱいなものの、少し理性が顔を出して、“本当に大丈夫か?また青少年の主張を書いてないか?”と自分に聞いてくるので怖くなってきた。


けれどもう、3500字以上書いてしまったので、消すのも惜しい気がする。
これはもう、最初で最後として、後で見返したときに、“28歳でもちゃんとまだまだこんなくだらないことが出来たんだ”と思える記念にする以外にはないのだ。

今日の私はどうしようもない腑抜けで、背骨の抜かれた烏賊なのだから。


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パンケーキは、結局、雨の中1時間以上遅れて届いた。
口はもう塩っぱいものの気分だったし、生地は冷えて冷たくなってたし、
紙の箱に描かれたかわいい手描きのイラストは、雨で滲んでいた。


それでも私はお気に入りのハーブティーを淹れてパンケーキを食べた。

こういうどうにもならない日には、このハーブティーに限る。

売ってくれたおにいさんが「これ3分って抽出時間書いてあるけど、自分は5分以上出しちゃってます。しっかり出しても美味いし、時間はテキトーでいいんです。」と言っていた。

とっておきのお茶は美味しいけれど、温度も時間もしっかり意識して、一つひとつ、丁寧な儀式のように淹れていく。それもまた落ち着くのだけれど。

けれど、今日の私は腑抜けなのだ。むつかしいことは何一つできない自信がある。

普段、なるべくしゃんと生きようと、子どもたちが、みんなが、安心して寄りかかれるような、どっしりした木みたいな大人で居たいと望んでるけれど。
いつか木になれるときは来るのだろうか。


せっかく美味しくかわいいパンケーキとして生み出されたのに、
冷えて時間が経ったからって食べてもらえないのはあんまりな気がして食べたけれど、
冷えていてもパンケーキはちゃんと美味しかったし、クリームは思ったより甘くなくて食べきれた。
濃い目のハーブティーとの相性も丁度よかった。

何分で淹れたかはわからないから、もう同じようには出来ないけれど。

パンケーキは冷えてもちゃんとパンケーキだったのだ、
烏賊も背骨が抜かれてもちゃんと烏賊かもしれない。


そもそもなんで最初に頭の中に浮かんできた例えが烏賊だったんだろうか。

背筋がピンとした、古いディズニー映画に出てきそうなタッチの烏賊が、ずらりと並んで行進する絵を想像して笑ってしまった。

まあなんだっていいのだ、
これだって自叙的エッセイかもしれないし、全部私の頭の中のファンタジーかもしれない。

烏賊だって陸を行進するかもしれないし、空を飛ぶかもしれない。

ただ大事なことは、ここにあるだけの頭の中身をぶつけて空っぽにしたので、
私は落ち着いて“夜間飛行”の次の文章から読み進められるということである。



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