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マイ•ブルーベリー•ナイツ


“何がいけないの?”

“理由なんて何も。パイのせいじゃなく注文がない。選ばれないだけ。”

“マイ•ブルーベリー•ナイツ”という映画の中で、
何故かカフェでブルーベリーパイだけ殆ど手付かずで売れ残る、という話の中での台詞だ。

この映画を観た後、1週間はずっと、
ノラジョーンズの“The Story”を聴いていたと思う。


ウォンカーウァイという監督が好きだ。

内容はどれも、どこか残酷で、救いがないように思うのに、
描き方がポップで奇妙で、ロマンチックなのも、
登場人物みんなが人間くさくて、どうしようもなく駄目で、チャーミングなのも。

たまらなく愛おしくて、独特のカメラワークと心理描写から作られる浮遊感に酔いつつ、
好きな気持ちが溢れて、ふと、泣きそうになってしまう。


“浮遊感”というのは、私の人生のなかでずっとすごく大切な感覚であった気がする。

何にもなくて退屈だった子どもの頃も、
大人になってからどうしようもなく疲れたり、心が重くなるような嫌なことがあったときも、

絵本や本を読んだり、ぬいぐるみと遊んだり、
映画を観たり、美術館に行ったり。


すぐにはそれらと触れられないときも、
目を瞑って、それらのことを思い出して、

そこからどんどん空想を膨らませて、ぐんぐん自分を違う世界に飛んでいかせたら、
重かった気もいつの間にか軽くなっていて、
自然に笑って鼻歌なんか歌って、小躍りしたくなる。

勿論、重い現実は消えるわけではないのだけれど。

“ダンサー•イン•ザ•ダーク”の、ビョーク演じるセルマのように、
とにかく浮遊感の中、歌うのだ。

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髪を切って、パーマをかけた。

何故か急に気分を変えたくなったのだ。


体調を崩してから、バイトをお休みしていて、本業だけになったのもあって、
自分のことを考える時間が増えてしまった。

この間、友人に会ったとき、
「普通の時間しか働きたくなくなっちゃった。
あと、不安を誤魔化す為に、自分の身体と時間を費やすのも嫌になっちゃった。
それと、代わりに、勢いに任せてエッセイを書いた、4500字の。」と伝えると、
「頭、冷やしすぎちゃったね。」と笑われた。


頭を冷やしすぎてしまったからか、逆に時間を持て余してのぼせてしまったのかは定かではないが、
とにかく自分のこれまでとか、これからとか、
色々考えてるうちに、
気分を変えたくなってしまったのだ。

パーマをかけるのは、実に7年ぶりくらいだろうか。

中学生のときに観た“スウィート•ノベンバー”の、
シャーリーズセロンの演じていた、癖毛でショートカットのヒロインに憧れて、
高校生から大学の途中までは、ずっとショートカットにパーマを当てていた。

勿論、全然ヒロインには程遠くて、
唯のサブカルを拗らせた学生だったけれど。

そこから急にヘアドネーションをしてみたくなって髪を伸ばし始めるまで、ずっと馴染みのあったパーマ液の匂いを久しぶりに嗅ぎながら、
この長さでパーマをかけるのが初めてなのもあって、
イメージは漠然としたままであったが、何となくわくわくしていた。

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仕上げていってる様子を見つつ、ちょっと違和感を感じつつ。
でも、途中だからなあ、なんて思って見ていたけれど。

「こんな感じでセットできますからね、じゃあカルテ残しますね」と、iPadで撮影されている自分の髪型を見て、ふと、
“雨に濡れちゃったプードルみたいだなあ”とおもった。

見慣れなさ過ぎて違和感しかなくて、
不安げな顔になってしまった私にすぐ気づいて、
「パーマのこととか、わかんないこと、不安なことあったらすぐ言ってくださいね。あとで気づいてもすぐ言ってくれて大丈夫だから。」
と言ってくれた担当さんに、

“この人に切って貰って一回も失敗されたことないし、大丈夫”と、自分に言い聞かせて精一杯笑顔で頷いたつもりであったが、
お見送りしてくれるときまで、ずっと担当さんは不安げな顔をしていた。
(担当さんの名誉の為に言うと、
私の頭の中のイメージが漠然とし過ぎていたのが原因であって、
決して失敗されたわけではないと思うので、
非常に申し訳ないことをしてしまった。)

帰り道に寄ったメキシコ料理のファストフード店でタコライスを待ちながら、
トイレに入って鏡に映った自分をみて、
“雨に濡れたプードル”という言葉がやはり頭に浮かぶ。

なんだか、すごく哀しくなって、鏡に向かって、満面の笑みでピースサインをしてみた。

何も状況は変わらないけれど、
人間は笑顔をつくると脳が幸せだと勘違いすると聞いて以来、
とりあえず、どうしようもない時は、一回笑顔を作ってみることにしている。

結局まだ馴染めなかったけれど、
まあ数日経てば受け入れられるということにして、
次の予定が待っているので急いでタコライスを食べてから店を出たら、急に雨が降ってきた。

曇り予定だったはずだけれど、
どうやら今日はどうにもならない日なんだろう。

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“雨に濡れたプードル”のまま、次の日夜勤に行ったら、
子どもたちが一気にステーション前に集合して、「ねえ!パーマかけたでしょ!」「女の人が髪型変えるときって、必ず恋してるんでしょ!」と騒いでいた。

恋して、アタックする勇気が欲しくて、
イメージチェンジを試みた結果、濡れたプードルになっていたら、それは凹んだだろうなあ、なんて思わず笑ってしまった。

パーマをかけたと伝えると、それはまあ笑ってしまうほど過剰に、子どもたちはみんな褒めてくれた。



ずっと誰よりも、人の顔色を窺って今まで生きてきた子たちである。
変化に気づくのも早いし、頑張って好かれようと褒めてくれる。

逆に必死に気を引こうとして、とんでもない何かを起こしたり、
そのうち、ちゃんと信頼していいか試すために全力でこちらを傷つける言葉を探すこともするだろうけれど。

そんなことしなくても、どんな時でも、君たちが大切だ、というのは、
時間をかけて、どんな時も変わらず唯、傍にいることでしか伝えられないのだ。


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寝る前に、担当の子に絵本を読み聞かせた。


ここに来るまで、1回も絵本を読んでもらったことがなかった子だ。
リクエストもないから、私のおすすめの“11ぴきのねこ”を読んだ。

本を読んでいるうちに、布団の中でごろごろ動くので、布団はズレて、パジャマからはおなかが出てしまっていたので、
パジャマを直して、布団を肩までかけたあと、「たぬきのおなか」とおなかのあたりをポンポンとすると、くすぐったそうに笑っていた。

電気を消すとき、じっとこちらを見てきて、「何で髪パーマかけたの?」と訊いてきた。

「何でだろうねえ。なんか、気分、かえたくて。」と伝えると、
「ふーん、いいんじゃない?」と、興味なさげに、大人ぶって言った後「それより、明日朝髪むすんでよ」と話すので、マイペースで笑ってしまった。


子どもはマイペースなのが何よりである。
勿論ルールとか時間の中で縛られなくてはいけない場面もこの先いっぱいあるけれど、
大人の前でくらい、マイペースな方がいいのだ。
一生懸命過剰なくらい褒めてくれるより、
気が抜けた言葉を聞ける方が、この子は私の前で少しはリラックスできるのかな、と、安心する。

明日朝早く起きれたらね、と伝えたとき、「えー、約束ね!じゃあはやく寝なきゃ!」と思いきり目を瞑る姿が可愛くて、
思わずほっぺたを両手で挟んだ。

このほっぺたの柔らかさを、明日結ぶ髪の柔らかさを、知らずに、
傷つけた、手放した人がいるのだ。

色んな事情があるだろうし、傷つけた人、手放した人もまた、
傷つけられた、手放された人なのかもしれない。
だから怒りはぶつけてはいけないのだと思う。


けれど、私は目の前のこの子を見て、
先程捲れたパジャマの隙間から見えた傷跡を思い出して、
どうしても歯を食いしばってしまう。

“こんな可愛い子を手放すなんてやっぱり馬鹿だ”と心の中だけで思いながら、
布団をトントン、としているうちに、寝息を立て始めた。

絶対にこの子たちに、もう自分たちは“要らない子”なのだと思わせるものか、
もし思ってしまう時があっても、絶対に捨てない、選ぶ大人がいる、と思わせるのだと、
寝顔を見ながら改めて思った。


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子どもたちを寝かしつけたあと、
ナースステーションのトイレに入って鏡をみると、おんなじように雨に濡れたプードルが映っていた。

けれど、なんか、ふふっと笑えてきて、それも悪くないんじゃないかと、ふと思えてきた。


別に誰かのためにした髪型じゃないのだ、
私が哀しくなるか、“ふーん、いいんじゃない?”と、思うかだけである。

もしかしたら、次観た映画のヒロインが、とてつもなくチャーミングで、雨に濡れたプードルみたいな髪型をしてるかもしれない。

それに、“雨に濡れたプードル”って、想像したら、どことなく情けなくて、ふふっと笑えて、かわいい感じがしてきた。

こういう風に笑えたら、もう私の勝ちだ。

結局は心の持ちようなのだ、
大人の私を愛せる人は私しかいないし、褒めてあげられるのも私しかいないのだから。


子どもたちに何度も繰り返しつつ、
結局自分が自分で気づくのには、時間がかかることばかりだ。
まあ、こういう情けない大人もいて、なんとかやってるという、
ハードルの低い見本になれれば、いいと思う。

別にブルーベリーパイだって、
売れ残っても、捨てなくたっていいのだ。

ワンホール丸ごと、自分で食べたっていい。
もし、いつか、選ぶ稀有な人が居た、そのときには、
一切れ、差し出したらいい。





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