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thibi

 私は背が低い。思っている以上に。
 大学4年生なのに144cmしかない。

損することも得することもあるが、その全てを踏まえて自分と認めるのには随分と長い時間が必要だった。21年間の人生を振り返ってみると、この葛藤で得たものはとてつもなく大きい。

 背が低いことをコンプレックスに感じるようになったのは、たぶん小学校に入学してから。少しずつ自分が周りと違うということに気づいて嫌悪感を抱くようになった。背が低くて「可愛い」と言われることは少なくないが、それを今でも心底嬉しく思えないのは多分、その「可愛い」の褒めの裏にあるものを考えてしまうからだ。

 私の思春期はたぶん中学生の頃。そんな自分にもうそれはそれは腹が立って、なんで自分だけこんなに背が低いのか、道を歩いているだけで馬鹿にされているような、見下されているかのような気持ちにならなくてはならないのか。遺伝のせいだと両親にキレて当たったこともあった。
 そして、反抗したくなった。抗いたかった。可哀想だと思われるのが何よりも嫌いだった。あの子は背が低いから助けてあげなければ何もできない。そう言われているような気持ちになるたび、何かやってやりたい。見返してやりたいと思った。でも、そんな強気な自分と、どうせ無理なんだろうなという弱気な自分が心の中で葛藤していることを分かっていて動き出せずにいた。

 中学にあがると半ば強制的に部活に入らなければならず、姉がいるバレー部に入部した。スポーツの世界で背が低いことは致命的である。しかし、背の低さで特別扱いされることを心底嫌っていた私は負けじと争ってみた。こうした環境の中でハンデを背負い、ずっとアウェイの中で戦ってきた。戦いなんていってもそんな大層なものではないが。
 背が低くて難しいことはあっても全く出来ないわけではないし、逆に他の人より出来ることもあった。"出来ること"を伸ばそうと、自分が輝ける場所を探し続けた。希望は見えた。

 後悔も挫折もそれら全ての感情を背が低いことにより知ることができた。そのおかげで今、私がこうして笑っていられるのだとしたら最高なハンデである。
 人と違うことに悩み、普通を願った。どうして自分だけ?とまるで自分が被害者のように。しかし、私は気づくことができた。人との違いを活かすことで乗り越えた経験はこれからの私の人生の大きな助けとなるだろう。

 そんなの綺麗事だろうと言われるのだろうか。結局普通が1番なのかもしれない。ないものねだりなのかもしれない。それでもここに残しておきたい。自分の良さは自分で活かす。貢献できる何かを、自分が戦える場所を、探し求め続けたい。
この先もずっと。

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