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「ミレイユの右へ」32

第三十二回 グラウンドにて



 その後、人づてに聞いて分かってきたのは、絢の父親の源蔵に不動産売買でかなりの収入があって、本業を人任せにしたり、家に何日も帰らなかったり、生活の乱れにどうやら拍車が掛かってきたようだということであった。
 丁度、市が計画している再開発区域にぽつぽつと幾つか狭い土地を持っていたとのことで、実際は先代に先行投資の才能があったようなのだが、これが源蔵の代で見事に当たったのだった。
 地域では土地成金として有名になってしまっていた源蔵だが、寄り合いなどにも顔を出さず、どうも業種の関係でも周辺と疎遠になっているらしい。
 絢はしかし、終始どこかさばさばとした気韻であり、両親の不和を悩んでいる様子はやはり感じさせなかった。
 言い出しにくかったが、久埜は一度その件をゆっくり話してみようと思っていた。

 すっかり夏めいてきた頃、部活が早めに終わったので、絢をグラウンドのベンチに誘った。
 期末テストも済んでいたので、校内の雰囲気はどこかのんびりしている。
 グラウンドでは、まだ野球部が練習しており、部員が交代でノックを受けていた。声出しに慣れてきた一年生が選手の挙動ごとに甲高く叫び、音と言えばそれと金属バットの打撃音だけだった。
 そぞろ歩きながら話を切り出すと、確かに現在両親は別居しているが、母親は今でも呉服店で働いており、生計は別になっていないのとのことだった。
「そうなんだ」
「実際、もう誰の店なのか分かんなくなっているんだよね。店主不在だし」
「お父さん、どうしてるの?」
「知り合いになった不動産業者とべったりで、土地探しにあちこち行っているみたい。自分用に東京にマンション買ったとか」
「へえ。……そんなに儲かるんだ」
「母さんの方は、骨の髄まで堅実な性分なので、そう言う『財テク』は嫌いなんだよね。いつか破綻するって」
「破綻……」
「その恐れが見えたら離婚するって言ってた」
「うわぁ」
「でも、それ仕方ないんじゃないかな。私もそう思うし」
「……そうなんだ」
 でも、そうなるとこっちにずっといられるのかということは、どうしても口から言葉が出てこずに訊けなかった。
 グラウンドを半周し、ネット裏まで来た。ベンチが幾つもあるのでそれに座る。
「おおっ」とかいう変な歓声がして、ようやく気がついたが、部員の多くががこっちの方を見ている。囃し立てはしないものの、変な雰囲気だった。
 すると、順番待ちの真っ白いユニフォームの部員が一人内野へ走って行く。
「……あ、兄貴か」
 日焼けで真っ黒になっている耕が、三塁位置について守備体制に入った。
 この位離れて見ると、家ではよく分からないがスマートに体が出来上がってきている感じで、いかにも野球選手然とした、しなやかな筋肉の付き方だった。
 なかなか凜々しい。
 久埜は、学校における公認カップルのシステムというのはよく分からなかったが、何となく耕と絢がみんなからそんな風に見られているのには、薄々気づいていた。
 まあ、最速でロマンスが結実して二人が結婚してくれれば、先ほどの悩みは霧散してしまうのだが。
 ノックが始まった。
「お兄さん、ピッチャーじゃないの?」
 いや、あんたの方が情報持ってないといかんだろ、と突っ込みたかったが、
「それはチーム監督が決めるんだろうけど、選手は一応何でも出来ないと」
「これは、何をやっているの?」
「三塁手のダブルプレーの練習だと思う」
 散々家族の練習を見てきた久埜にはすぐに分かった。
 一番上の兄の昭が三塁手で、その守備は相当評価されていたが、耕もなかなかうまかった。
 堅実な捕球の仕方、機敏な腕の引き上げと二塁方向へのステップ、しっかりとした送球。
「きれいね」絢が言った。
 これはロマンス的な発言なのかと、一瞬久埜は思ったが、しかしおかしな違和感があった。
 何というのか、熱量が無い。
 そう言う場合、「素敵」とか言うんじゃないのか?
 ……そう言えば、ここ最近、二人で何か話しているようなところも見ない。
 進展が無い?
「そう言えば……」
 と、絢がゆっくりと顔を向けた。言い出しにくい話をする流れで、何かそういうことを訊かれる予感が走る。
「あの、調理学校に行った、真史さんだっけ? あの人とはその後どうなっているの?」
 ……当たりだった。
「二年過程で、結構みっちりとしたスケジュールなんだって。実習もあるらしい」
「つまり、忙しい?」
「あー、この間手紙くれた」
「何て?」
「そういう近況が書いてあった」
「でも、学校小倉なんでしょ? アパート借りたっていつか聞いたけど、同じ市内じゃない」
「どうしろと」
「熱量が無いわね」
 ふふんと、鼻で笑われた気がして、久埜は愕然とした。
 自分と同じ様なことを考えていやがった……。
 グラウンドではノックが続いていた。
 左右に球が散らされて、捕球の運動量も増える。汗が飛び散り、何かに一心に打ち込む時間が流れ始める。
 空は青く、広い空間に、かけがえのない時間。
 隣には絢がいて……。久埜はふと、このまま時が止まればいいのにと思った。





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