見出し画像

「ミレイユの右へ」43

第四十三回 関門



 特徴的なそのイントロは、確かにしばらく聴いていなかったせいか、異様に懐かしさを感じた。
 それと同時に、絢がいなくなった後で、またこれを聴いている自分の姿が見えて、絢が懐かしい存在になってしまうという受け入れられないその未来が轟々と音を立てて迫ってくる気がした。
「ま、間違い! こっちに換えて」
 語気が激しくなってしまい、二人は驚いたようだった。
「え? いいですよ?」
 真史がボタン操作をして、テープは最初の「あ……」という発声のみで切れてイジェクトされた。
 二本目は、お目当てのシティポップが冒頭から流れた。
 だが、それが耳から入ってきても、あの「二人だけのセレモニー」の歌声が久埜の頭の中の別の場所で繰り返し響いていた。
 同時に果物ナイフに悪戦苦闘したり、夜の街にさまよい出たりしたあの頃の空気が蘇る。
 今思えばまだ酷く子供だった自分や早紀の姿がそこにあり、振り返ったらいつもそこに絢の姿がある。
 漸く、この別れが何か自分にとっても絢にとっても途轍もない凶事なのではないかという実感が湧いてきた。
 あの時、絢が奇妙に取り乱していたわけが唐突に理解できて、分かってしまうと感情が抑えられなくなってきた。
 ハンカチを取り出す前に涙が溢れた。
 突然、むせび泣き始めた久埜に、真史は酷く慌てた。
「ど、どうしたんですか?」
 久埜の隣にいた菜乃佳さんが、
「ちゃんと前を見て!」と一喝すると、自分のハンカチを取り出して、久埜の頬を拭った。
 そして、うずくまった久埜の背を撫で、
「そんな時もあるよね……。大丈夫だから。大丈夫だからね……」
 と、繰り返し優しく囁いた。

 車は関門トンネルを目指していたが、ルートを変更して取り敢えず休む場所を探すことになった。
「こっちに行くと和布刈(めかり)公園があるわ」
「はい」
 菜乃佳さんの指示と案内は的確で、やがて右手に海が見えだし、道の先には関門橋の巨体が山の稜線を超えて姿を現した。
 和布刈公園は元々門司城のあった場所を含んで整備されていた。山城の跡であり、高台では関門海峡が見渡せるかつての戦略の要衝であった。
 今ではリゾート化された公園の駐車場付近は、晴天のせいか人混みになっていた。
「このまま上に登りましょう」
 案内標識に沿って、展望台のある頂上を目指した。
 ルートはちゃんと車で登れるようになっていたが、カーブだらけで段々と道幅も狭くなる。
 真史は運転に集中して悪戦苦闘していたが、まだ頂上に着かないうちに久埜が、
「ここでいいよ」と顔を上げて言った。
 そこは、路肩に数台のみ停められる小展望台になっていた。
 駐車するなり、外へ出る。
 春の山の匂いと塩風の入り混じった複雑な空気を吸うと、何だかすっきりした気がした。
「落ち着いた?」菜乃佳さんも降りてきた。
「すみません。ちょっと変になっちゃって」
「女の子なんて、みんな変な生き物よ。私もそうだったし」
 真史が遅れて来て、
「えっ、そうなんですか?」と、真顔で言った。
「まあ、いずれ骨身に染みるかもよ?」
「それは勘弁してもらいたいです」
 二人の会話は面白かったが、久埜はそこにあったベンチに腰掛け、関門の海を眺めた。
 あの、海峡の向こう側が本州。そして、青森はその一番北側だ。
 距離としては途轍もない気がするが、ずっと幼い頃から同じ時間を生きてきた縁(えにし)が、そんなことで切れてしまうとは、どうも思えなくなってきた。
 ……その事を、何て言うんだっけ?
 正鵠を射た一言があったはずだが、ど忘れしてしまった。
「えーと」
「何です?」真史が背後から答えた。
「いつか食事会で、晴彦兄さんが人の縁のことを話してましたよね」
「……懐かしいな。言ってましたね。忘れたことはありませんよ」
「何て言ってましたっけ?」
「それは……」
 そっと手を握られた。
「絆……ですよ」

 その後、公園の近くのレストランで昼食を摂った。
 三人とも、それなりに料理には一家言ある面々だったが、及第点だったのか単なる空腹のせいなのかモリモリと食べ、菜乃佳さんはビールを頼んでお代わりもした。
「菜乃佳さんは、お酒が好きなんですか?」
 久埜は何の気なしに訊いたのだが、
「いえ、あまり呑まない方……。姉に比べたら赤ん坊並なんですけど、今日はとても良いものが見れたので、何となくお祝いです」
「……勘弁してくださいよ」
「そっと中学生女子の手を取って、『それは……絆ですよ』って」
 三人とも真っ赤になった。
「ああ、恥ずかしい。私まで恥ずかしい」
 雰囲気が一転して、帰りの車内は楽しかった。
 あの「二人だけのセレモニー」を、敢えて流してもらったのだが、今度は大丈夫だった。 暗記してしまっているので、つい歌詞を口ずさんでしまう。
 ……ねえ……言えない言葉、あなたの背に書いてもいい?
 このくだりが、何故かいつも印象に残るのだった。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?