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「ミレイユの右へ」25

第二十五回 爪楊枝



 池尻酒店の看板が見えてきたところで、絢と別れた。
 この時間は、仕事帰りの客が出入りして店の中がごった返すことが多い。軽トラックを置いてある車庫の中から家の台所に通じる勝手口があるので、そちらに廻った。
 台所は三年ほど前にリフォームをしていた。まさしく取って付けたようなアルミのドアを開けて、靴を脱ぎ台所に上がる。
 富美の姿が見えないので、きっと店番に立っているのだろうと思って聞き耳を立てると、多分一見の酔客に応対していると思われる、何時にないおべっかの混じった声が漏れ伝わってきた。
 いかにも酔いの回った耳慣れない大声が聞こえるが、迫力は無く、多分悪酔いした普段は真面目な中間管理職のおじさんといったところであろう。
 喧嘩とか、大きなトラブルは起こさないが、その実、結構面倒くさい客の部類ではある。
 酔っ払いがあまり管を巻くようだと、何故か管轄が常連のお客さん達に移って、何人もが連合して追い払ってしまう手筈になっているので、大抵あまり心配はない。
 実際、そういうエマージェンシーは発動せず、富美に丸め込まれて、既に支払いのフェイズに移っているようであった。
 まあ、出て行ってもらうまでがお店の仕事なので、神経を使う微妙なタイミングであった。
 久埜は、こういう折りには顔を出さないように言われているので、にんまりとして手提げ袋の中のライムを取り出した。そして、流しの横に置く。
 隣のコンロの上にある複数の鍋には、蓋を開けると煮物や汁物などが入っており、今日の夕食のおかずは既に仕上げてあるようであった。
 ……だとすれば、俎板は空いている。
 早足で自分の部屋に向かい、一分と掛からずに着替えると、また台所に向かった。
 ライムを水道の蛇口で洗い、俎板の上に並べる。そして包丁立てから自分のペティナイフを取り出した。
 ライムの緑色の皮目を指でなぞる。中は多分レモンと同じ構造だろうから、あの映画のように皮に曲線をつけようと思えば、円弧型になる輪切りであろうか。
 包丁を入れるとすぐに酸味の立った、独特の爽やかな香りが鼻腔を刺激した。
 一枚だけを輪切りの状態で切り出してみる。艶のある緑色の果肉は美しかった。
 少し考えて果肉と皮の間に刃先を入れ、ぐるりと切ってみた。完全には切り離さず、摘まんで目の前に持ってきて考える。
 何だか力がなく、だらんとしている。……すると蔕(へた)の方向に縦切りしなければいけないのか。
 輪切りでも果肉と皮を切り離さなければ、結構構造はしっかりしていて、一部に切れ目を入れても、それでグラスの端に刺せば自立することは確認できた。
 借りてきた本に載っていたのは、概ねこの輪切りのバリエーションだった。一部を切って捻りを加えバタフライと呼ばれる形を作る。
 だが、やはり求めているものとは違うようだった。
 二個目を櫛切りにしようとして、手に取った後でふと考えた。
 あの映画の中に出てきたデコレーション。あれは果肉を使っていただろうか?
 使いかけの方に持ち替える。
 この皮だけを削ぎ取って使ったのかもしれない……。
 残り三分の二ほどのそれを、りんごの要領で皮を剥いた。力が入ると、既に切り取った部分から果汁がこぼれて勿体なかったが、好奇心には勝てなかった。
 どうにか皮の切片が取れた。
 ナイフで容易に皮が削ぎ取れることは分かった。多分、この皮を細く切るのだ。
 皮の裏の白い部分を削ぎ落とすと綺麗になり、また平らになって、扱いやすくなる。
 それは勘で分かった。
 長細い三角形に形を整え、斜めに幾筋か切れ目を入れて丸めてみる。
「ああ、これこれ」
 感じは似ていた。だが、これをどうやってグラスに取り付けたのだろう?
 まとまりがないし、切れ目を入れてもグラスの縁で自立しそうにない。
「……久埜? 帰ってきたならちょっと代わってくれない?」
 手が止まったところで富美に呼ばれたので、その日はそれで中断することになった。

 夜の十時前、久埜はぼんやりとお茶の間でテレビを見ていた。
 富美は店の方の机で帳簿をつけており、一緒にいるのは風呂上がりでビールを飲んでいる文太だけだった。
「宿題やったのか?」
「やった。お風呂も入ったし、歯も磨いたよ」
「……そうか」
 文太はそう言うと、白髪ネギをゴマ油で和えたつまみを口に運んだ。
 富美が忙しそうなので、久埜が適当に作ったものである。
「……うまいな、これ」
「そう?」
 久埜の反応はぼんやりとして、心ここにあらずといった調子なので、文太は鼻白んだ。
 全く、思春期の娘は何を考えているのか分からないと、顔に出る。
「ただ、歯に引っ掛かるんだよな、これ」
 そうぶつくさ言って、卓袱台の上の楊枝入れに手を伸ばしたとき、
「あっ!」と、久埜が素っ頓狂な声を発したので、文太は吃驚した。
「な、何だ?」
「それそれ」
「どれ?」
 久埜は文太の手から楊枝を引ったくると台所へ一目散に走って行った。
 冷蔵庫を開ける。
 皿にラップをして取っておいたライムの皮を取りだし、丸くまとめて楊枝を刺した。
 刺す場所の吟味は追々出来る。
 同時にグラスに固定するアイデアも思い付いたので、そちらの方が実は重要だった。
 切ってない方のライムを取りだし、櫛切りにする。
 グラスを持ってきて、実の方に切れ目を入れたそれを縁に固定した。
 そして、楊枝でまとめた飾りをそのまま櫛切りライムの皮に突き刺す。
「出来た出来た」
 形はまだ悪いかもしれないが、きっとこうしていたのだ。自力で思い付いたのが嬉しいし、難問を解決した達成感があった。
 様子を見ていた文太が、ビールをちびりと飲んで、
「やっぱり、さっぱり分からん……」と呟いた。




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