見出し画像

「ミレイユの右へ」52

第五十二回 意外



 久埜は週末を楽しみにしていたが、十九日の夜に絢から電話が掛かってきた。
 また、一週間繰り延べになってしまったのだという。
「ええっ、また?」
「私もあんまりだから父を問い詰めたんだけど、事業を手仕舞いしようとしているらしくて……。トントンにするために、どうしても外せない取引があるとかで」
「それって、赤字になったら相当大きいのかな」
「土地取引だからねえ……」
 一週間程度だったら仕方ないか、と二人で溜め息をついて、電話を切った。

 この長い一週間の間、「ミレイユ」は太平洋上をひたすら西へ進みながら成長し、二十二日日曜日にはまだフィリピンの遙か東海上にあった。中心気圧935ヘクトパスカルに達して、最大風速五十メートルの暴風圏も形成したが、どうもずっと海の上をウロウロしている印象で、まだ誰も風水害被害で長らく保険金支払い一位を保つような、たちの悪い存在だとは思いもしなかった。

 二十五日水曜日の夕方、絢から電話が掛かってきた。
「台風が丁度来そうだから、今度は前倒しでもう熊本に来ちゃった」
「ええっ?」
 いきなり距離感が詰まったので久埜は驚いた。しかし、こういうお茶目が出来るところまで、絢との間の何かが回復したんだなと少し思った。
 熊本へは一人で来たのだという。
「で、こっちに来るときはどうすると?」
「あ、北九弁懐かしい! ……そうやねえ、小倉のホテルで一泊して台風をやり過ごしてから新幹線で大阪まで行って、そこから飛行機で帰るつもりなんよ」
「そうなん?」
「小倉までは、父が車で送ってくれる。だから、二十七日の夜に小倉のホテルで……会いましょう」
「うん、分かった」
「台風が丁度来たら、雨風で帰れないって言って久埜も一緒に泊まればいいよ。話すこと沢山あるしね」
 一緒に泊まる……?
 笑って受け流すしかなかったが、本当は別に深い意味のないことは分かっていた。
 しかし、あの台風は確かまだ沖縄の南海上にいるはずだった。
 二十七日の夜には、まだ北九州には到達しないのではないだろうか……?

 久埜は文太と富美に、絢が小倉まで来るので会いに行くこと。場合によっては外泊することを話した。
「早紀ちゃんは行かないのかい?」
「うん」
 もう、早紀を盾にすることは出来ない気がするし、多分誘っても来ないだろう。
「女の子だけで大丈夫か?」文太は首を捻っていたが、
「ああ、そうだ真史さんに」と富美が言った途端に、速攻で許可が出た。
「何かあそこは一流ホテルなんだろ? 大丈夫だろう」
 未成年なので、予約は富美に頼んだ。

 二十六日。学校から帰宅すると、ついさっき大慶商事の厨房から電話があった、と富美が言った。
「何だろう?」
 中学生の時にかかわりだしてからこの方、大慶商事にはおよそ二百点近いデザートなどのデザイン画を久埜は提出していた。
 実際の商品にまでなったのは、その内の数十点だったが、さすがに需要は網羅したらしく、この頃では新作の催促というのは無くなっていたのだった。
 恐る恐る電話をしてみると、菜乃佳さんが電話口に出た。
「あのね。お祝い事の前祝いみたいなことを今やっているのよ。ちょっといらっしゃい」
「お祝い事?」
 着替えて、首を傾げながら高校入学時に買った自転車で飛ばしていくと、あの厨房の扉が開け放たれていて、中から明らかに酔っ払った男の大声がしていた。
 菜乃佳さんと真史が待っていて、二人とも物凄く笑いを堪えたような表情で、
「実はねえ、姉が今度結婚するの」と、言った。
「え? おめでとうございます」
「おお! 有り難う!」奥から聞きつけたのか上機嫌な返事があった。
「……えっと、お相手ですか?」
「お相手ですよ」真史が吹き出しそうな顔で言った。
 戸口から中を覗くと、控え室のテーブルを囲んで数人が座っていた。オードブルや飲み物が山盛りに置いてある。
 涼子さんにお酌をしてもらって、まさに有頂天なのは……。
「えっ? ……源さん?」
「……なんだその意外そうな顔は?」
「いえいえ、意外だったもので……その」
「まあ、こっちへ来て座れ。何でも食べろ」
「来る人みんな同じ事言うな」久埜の座った場所の対面で、早紀がしれっと唐揚げを囓っていた。
「何で、あなたがここにいるのよ?」
「中華系の献立も出せるラーメンチェーンをここの会社が構想しているそうで、ま、謂わばオブザーバー的な」
「いやいや、それは大袈裟だろう」
 そう言ったのは、早紀の隣に座っている日焼けした青年だった。茶髪で、彫りが深い顔立ち。その上筋肉質でサーファーっぽい颯爽とした感じだ。
「ラーメンスープを一カ所で作って、チェーン各店に配れるか、みたいな構想を話したら面白がられて出入りさせてもらっているだけです」
 誰だろうと思ったが、早紀から「察しろ」という念を込めた目つきで見られた。
「あっ! アニメ好きの……」
「アニメ? 好きですよアニメ。いいですよねアニメ」
 意外だ。想像していたのと全然違う。
 何だか矢継ぎ早に想像の埒外なことばかりが起こりだして、久埜はふと不安を覚えた。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?