見出し画像

「ミレイユの右へ」22

第二十二回 ペティナイフ




 りんごの皮剥きについての相談だったので、久埜はそれを果物ナイフと同義なのだろうと思ったのだが、野菜の皮剥きや面取りも出来る、一番小ぶりの西洋包丁のことをそう言うのだという。
 食事会は穏やかな雰囲気で終わり、事故に対する目に見えないしこりも霧散したようであった。
 ただ、会計を済ませてみると、それでも二万円近いお金が残り、別の何かを抱え込んでしまっているような気分があった。
 早紀が「それでペティナイフ買うたらいいやん」と悪魔の囁きをしてくるのだが、この方はちゃんとしたお金で買わないと意味がない気がして突っぱねた。
 しかし、どうせなら良いものが欲しい。
 その後もずっと心に留めておいたのだが、文太がたまたま機嫌のよい夜があって、
「中学の入学祝いは何がいい?」と訊いてきた。
 そこで、チャンスだと思い「ペティナイフ」と答えたのだが、事情を知らない上に晩酌で酔っ払っていたので、他の何かと勘違いしたらしい。
「そ、それは買っていいが、母さんと相談しろ」と言って、お金だけをくれた。
 何だか違和感があったが、相談しろと言われたので、富美に素直にその旨を伝えると、
「もう、花嫁修業を始めるのかい?」と、えらくニヤニヤしだした。
「そんなんじゃないよ」
 まるでそんなつもりはない。ただ、真史を見ていたら出来ないことを出来ないままで放っておく自分というのが許せない気がしてきたのだ。
 そこまで考えて……ああ、そういうことかと、思わず吐き出された自己分析に納得した。
「花嫁修業?」
 たまたま居間に戻ってきた文太が、小耳に挟んだのか酷く怪訝そうにして言った。
「そのペティ……何とかで、花嫁修業?」
「別にいいんじゃありません? 女の子なんだから当然です」
「まさか……俺は不純異性交遊とか許さんぞ」
「不純じゃなければいいんですよ。……って言うか、何でそういう話になるんです?」
 それには答えずに文太は、
「とにかく、そういうことだ。色気を出すにはまだ早い」
 そう言い置いて、寝室に向かっていった。
「……?」
 話が噛み合っていなかった気がして、久埜と富美はしばらく顔を見合わせていたが、その後すぐに、いい包丁を売っているのはやはり地区一番の目抜き通りにある、あの刃物の専門店だろうと相談の続きを始めた。

 翌日、二人して大抵の包丁類が揃っていると評判の、その店を訪れた。
 奥行きはない一般商店だか、これでもかと陳列棚に様々な刃物類が並べられていた。
 看板に創業三十年とあり、もっと年季が入っていそうな老齢の店主に相談すると、刃渡り十二センチでハンドルが黒い、最もベーシックなものを勧められた。
 値段も手頃だった。
「みんな、こういう奴から始めるんです」と、柔和そうに笑う。
「腕が上がると、当然上等な奴が必要になる。それはその時が来たら分かります」
 なるほどと思い、それを購入することにした。
「名入れをしますか?」
「名入れ?」
 刀身(ブレイド)に、持ち主の名前を彫金することが出来るのだという。
「記念にもなるわね……」と、富美。
 料理人でもない本当の素人なので面映ゆかったが、頼むことにした。
「お買い物に行きます? 戻ってくる頃には仕上がってますから」
「では、お願いします」
 近くのデパートで春から使う通学用の靴を買い、その後その地下の食品売り場で諸々の買い物を済ませて、また立ち寄った。
「はい。こちらになりますね」
 箱に収まったペティナイフが差し出される。
 刀身に刻まれた「久埜」の文字が銀色に輝いて、そこにあった。

 デパートでりんごも買っておいたので、家に帰ると早速卓袱台に新聞紙を広げ、皮剥きの用意をした。
「あれっ? あたしから習うのかい?」
「だって……」
 真史とそこまで親密にしていいのか、最近少し分からなくなっていた。機会があれば指南してもらおうとは思うが、いろいろ忙しいだろうし、煩わしく思われるのも嫌だ。
「まず柄をしっかり握る。ぐらつかせない」
「うん」
「刃の延長線の前に指が来ないように」
「こう?」
「そうそう。それで、むしろ左手でりんごを刃の方に送るんだよ」
 新しい包丁はよく切れた。するりと抵抗なく皮目に刃が入り、指でりんごを送ると赤い帯が次々と生まれる。
 ああ、こういうことか、と思った。
 何だか新しい感覚だった。
 上手く出来ているが、油断しないようにと富美が言う。慎重に続けて、集中を切らさないようにしていると、とうとう最後まで皮が途切れなかった。
「出来た」
「あー、ハラハラした……」
 実を半分にして、それを三等分する切り方も習った。芯の取り方も。
 皿に盛って、六個あるそれをにやつきながら眺める。
 身に包丁目がつくと、その立体面からサクリと割れる感覚が想像できて、妙においしそうに感じた。
 夜、寝しなに非常に満足な一日だったと思いまどろんでいると、富美が何故か忍び足で部屋に来た。
「お父さんだけど」
「何?」
「どうも……ペティナイフっていうあれだけど、下着か何かと勘違いしていたようだよ」
 そんな馬鹿げた勘違いがあり得るのかと考えて、
「ああ……ペティ……コート?」
 昼間のやり取りを思い出して、二人して爆笑した。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?