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「ミレイユの右へ」45

第四十五回 温泉郷



 少し早いが昼食を摂ろうということになった。
 ドライブインの食堂で、各々好きな物を注文する。
 早紀は炒飯を食べていたが、
「うーん、なかなか」と、やはり中華に関しては一家言あるようだった。
 食後にコーヒーを頼み、お代わり自由だったので、つい飲み過ぎてしまった。
 車内へ戻ると、またお喋りが始まった。
 絢はいつも通りの感じである。話に夢中になって、絹子さんの言葉に感じた疑問は後で考えることにしてしまった。
 外は変わり映えのしない狭い道路を走り続けている印象だったが、ふと窓の方を見ると、だんだんとさらに田舎の風景になってきていた。
 緑が濃くなり、さらに過ぎ去る林や草むらの植相が地元とは微妙に変わってきた感じがした。
 大分県の一部を抜け、熊本県に入るのだという。
 標識の類は気にしていなかったので、既にどちらかにいるのかもしれなかった。
 ドライブインを出て一時間半くらいが過ぎた。
「あと、どれくらい?」
「一時間もないくらいかな? 多分」
 まあ、真史は長距離ドライブ自体が初めてなのは分かっていたので、返事が曖昧なのに文句を言うのは筋違いだが、そろそろまた少し休憩したい。
 それを言うと、
「この辺に休憩できそうな所なんて無いんじゃないかしら」と絹子さんが答えた。
 確かに山の谷間の一本道が、さっきから続いていた。
「なら、ぶっ飛ばして」と、早紀。
「本気出してください」と、絢も言った。
 あーみんな我慢していたんだと思って笑いを堪えたが、外国製の馬鹿でかいエンジンが唸りを上げ、急な加速を感じて、久埜は青くなった。
「いや、ほどほどでいいから」
「道狭いんだから、ほどほどにぶっ飛ばして下さい」
「本気は、まだ取っといていいです」
 ステーションワゴンは接続路をどうにか間違えずに進み、国道442号に入った。

 「黒川温泉郷」の看板を過ぎてからも、山里風の景観はあまり変わらない。
 ノロノロ運転で予約しておいた宿を探す。
 どうも一本通りが奥にあるようなのだが、木々が邪魔をして車からは分からなかった。
 共同駐車場のような所があったので、一旦そこに停めた。近くにタクシーがいたので運転手に訊きに真史が走って行った。
 やがて帰ってきて、
「川の向こうの、あの屋根がちょっとだけ見えている所らしいです。道が狭いようなので、この車はちょっと厳しいかな」
 一泊用のお泊まりセットなので、荷物は大して重くない。皆で歩いて行くことにした。
 駐車場所は指定の所があるかもしれないので、後で移動するとのこと。
 橋を渡って、狭い通りに出る。
 何だか鄙びた建物の並ぶ、静かな温泉街だった。
 その質素な様子に久埜はかえって違和感を感じ、観光地のはずなのに何でこんなに落ち着いているんだろうと思った。最初分からなかったが、自分の家のある同じ様な狭い通りを思い返して理由が閃いた。
「余分な看板が無いんだ」
 絹子さんが、にっこりした。
「ここは、温泉郷自体をひとつの宿として考えようということで、個々の看板を外しちゃったらしいのよ」
「それ、面白いですね」
 確かに、久埜の住むような商店街は、何か対策を考えないと大型のショッピングセンターにいずれ駆逐されてしまうのではないか、という懸念は寄り合いのある度に出ているらしい。
 街全体をひとつのショッピングセンターみたいにすることは、アイデアとしては既に出たのかもしれないが……。
「本当にやったんだ。凄いな」
 きっと困難なことだったろうと思い、久埜は密かに感激した。

 そして、入り口までの敷石の儲けられた特段に歴史を感じさせる宿の前に来た。
「うわ、何だか文豪が泊まりそうな旅館……」
「実際、泊まっているかもよ」
 受付を済ませると、仲居さんが長い廊下を案内してくれた。
「生憎、文豪さんは泊まりに来てくれませんで……」
 感想が面白かったのか、にこにこしてそう言われた。
 三間の予約で、廊下に一列に入り口が並んでいた。
「僕は、ちょっと車を動かしてきますね」
 夕食の時間だけ訊くと、真史は荷物を置いてそのまま姿を消した。
 絹子さんは浴衣に着替えて、久埜達の部屋に顔を出すと、
「早速温泉に行ってきます。あなた達も自由にどうぞ」と言って、受付で預かった入湯手形をそれぞれに手渡した。
「ここは露天風呂が二十幾つあるらしいんだけど、これで他の旅館でも好きなところに三カ所入れます」
 説明すると、そのまま楽しみにしていたのか、さっさと出て行ってしまった。
 確かに、温泉旅館で他にすることなど無いので、露天風呂に行ってみようということになった。
 部屋の座卓の上にパンフレットがあったので、お茶を啜りながら三人で覗き込んだ。
「ここ、いいんじゃない? 今の時間なら女性専用」
「定員もあるんだ」
「ここのお風呂も気になる」
 二転三転したが、結局最初の露天風呂に行ってみることになった。
 浴衣に着替え、丹前を羽織り、旅館の下駄をつっかけて三人で玄関を出た。
 パンフレットの道案内を頼りに歩いて行くと、石畳の坂道になり、小道を辿り、木立の中に湯煙を上げる屋根付きの温泉が見えてきた。
「考えてみたら、初露天風呂だなあ」
「まだ、明るいしねえ」
「何、今更怖じ気づいているのよ」
 絢に急かされるようにして、そこの旅館の受付に行き入湯手形を見せた。




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