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「ミレイユの右へ」15

第十五回 飾り切り



 包丁磨きが終わると、それぞれを丁寧に洗い布巾で拭き上げていく。
 そして、一本だけ俎板の上に残すと少年はそれを厨房に運んでいった。
 待っていると、中で「蓮根がどうのこうの」という源さんとの会話があり、すぐに戻ってきた。
 久埜と目が合って、
「蓮根の切れっ端をもらってきたんですよ」と言い、はにかんだのかにっこり笑った。
「蓮根?」
「花蓮根は覚えたので、雪輪蓮根を練習しようと思って」
「花……?」
「蓮根の飾り切りです。花蓮根はこれをこうやって……」
 真史は包丁で蓮根の輪切りの形を整えると、手際よく余分なところを落としていく。
 すぐに丸い輪が集まったような形の、輪切り蓮根が出来上がった。
「ああ、多分おせちで見たことがある……」
「そうそう、それが多いですよね。というか、家庭でもお馴染みなくらい一般的なんですけど雪輪の方は懐石の席くらいでしか、まずお目に掛からない」
「へえ」
 そこまで言われると興味を持たずにはいられない。じっと見ていると、蓮根の穴の上をまず少し残して切り取り、穴に向かって丸みをつけるようにしてぐるりを剥いていく。
 つまり柱の部分を残して、それを雪の結晶に見立てるようなのだが、外側が幾分残っていないとそういう風には見えないのに違いない。
 その残し加減が微妙だし、ほんの少しミスをすれば、やり直しだ。
 何でまた……この人はこのうすら寒くなってきた屋外で、この猛烈に神経を使いそうな作業に嬉々として、没頭しているのか。
 久埜は、しかしはっきりと自覚していた。これが「基本」という奴なのだ。幾らでも没頭できる、自分の為の掛け替えのない時間なのだと。
 目の前で見せつけられて、今ようやく具体的に分かった気がした。
 真史の作業がもうすぐ終わりそうで、久埜もそれを緊張して見入っていると、いつの間にか源さんも側に来て様子を見守っているのに気づいた。
「出来た」
 真史がそう言った途端、
「まあ、要領はな」と、にべにもなく源さんは言って、しかつめらしく続けた。
「あとは数をこなすしかない。まあ、十年か」
 そして、急に相好を崩して、
「……こんなのもあるんだぜ、久埜ちゃん」と言い、後ろ手で隠していたそれを見せた。
「……蛇籠蓮根。いつの間に」
 真史が目を見張った。
 蓮根を切れないように桂剥きにして、巻いて纏めると籠のような形になる。ご丁寧に籠の中には、蝶の形をした蝶々蓮根が二匹納まっていた。
「凄い! 源さん、まるで板前さんみたい」
「……あのなあ」
「『剥きの源さん』は、剥き物の世界では凄い人なんですよ。からかうのは感心しないなあ」真史が苦笑いをしながら言った。
「あ、すみません」
「そもそも、有職(ゆうそく)料理宗家の……」
 源さんが肘で真史を突っついた。
「……んなことはいいから、飯を食おう。冷めちまう」

 賄いと言っていたので、早紀の店のような家庭料理をつい想像していたが、こちらは小上がりに器もしつらえたちゃんとした食卓だった。本式の料亭料理など食べたことがないので、味の基準はさっぱり分からなかったが、ともかく出汁の味だけは抜群においしかった。
 花蓮根も入った野菜の焚き合わせ 、たらこの昆布巻き、焼いた甘鯛、潮汁。
「うまいだろ?」
「おいしい!」
 夕食の時に食欲のなかったことなど、どこかへ吹き飛んでしまって、ご飯のお代わりまでしてしまった。
 ――すっかりお腹もくちくなって落ち着くと、いろいろと疑問が湧きだしてくる。
「ええと、源さんはつまり板前さんが本職で」
「……ようやく認識したか」
「真史さんは……アルバイト?」
「……うーん。そうなんですが、僕は料理人志望で卒業後料理学校に行くのは決まっているんですけど、将来和食に向かいたいんですよ。で、父が先生と知り合いで、それならと紹介してくれたんです。技術を教えてもらうために放課後手伝っているだけで、まあ、弟子というような大それたものでもなく、見習いの見習いくらいです」
「先生って、誰だっけ?」
「俺以外にいねえだろうが」
 真史は高校三年だという。そうすると昭と同い年だが……。久埜が思うのも何だが、もう少し幼く見えるのだった。
 もっと話をしていたかったのだが、源さんが時間も時間だから送っていこうと言い、上着を取り出してきた。
 久埜はちょっと逡巡してから、
「あの、お願いが」と、真史の方に向き直った。
 真っ直ぐに見つめられた真史は目をぱちくりとした。
「卒業まで後何ヶ月かですけど、まだここであの練習をしていくんでしょう?」
「……ええ、まあ」
「時々、見に来ていいですか?」
「え?」
 真史は助けを求めるようにして源さんの方を見たが、あからさまに目を反らされた。
「……ええ、いいで、すよ」
「ありがとうございます」
 実は久埜は例の経験則、中学生と小学生はアリだが、高校生と小学生はナシというのを盲信していて、そっちの具合は全く考えていなかった。
「それじゃあ、行こうか」
 夜の帳は深みを増していた。憂鬱な現実に帰らなければならないが、この夜の散歩で得た物はかなりのものなのではないかと思うと、気分は晴れていく気がした。



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