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「ミレイユの右へ」42

第四十二回 ドライブ



 三月末、春休みに入る前に絢は正式に転校の挨拶をクラスで行った。
 既に察知していたはずのクラスメートの間から悲鳴のような声が上がり、改めて絢は皆に好かれていたんだなあと久埜の胸中で感慨が湧いた。
 しかし、本当のお別れはこれからなのだと思うと、その場ではかえって大きな情動の波は感じないでいた。
 そして、年度末の最終日も終わった。
 その日は美術部のメンバーで、待ち合わせてお別れのお茶会を喫茶店で行った。
 卒業生と木村先生も加わり、談笑を楽しむ穏やかな一時となった。

 家に戻ると、富美がいつも通りに店のカウンターにいたが、久埜の顔を一瞥すると帳場の方へ行って、
「旅費、これだけあれば足りる?」と言って茶封筒を手渡された。
 数日前に温泉旅行のことを相談して、既に許しは得ていたが金銭面のことがあるので、それは今日また話をするつもりだった。
 先回りして考えていてくれたのだろうが、随分とその封筒が分厚い気がした。
 中を覗いてみると、一万円札ばかりである。
「こんなに?」
「いや、旅行というのは何が起きるか分からないから余分に持って行くもんなんだよ。絢ちゃんの餞別にもいるだろ? それに、そもそもそれはあんたのお金だし」
「え?」
 久埜は気にしていなかったが、約束通りに大慶商事から例のフルーツ盛りの売り上げの一部が店の口座に振り込まれていたのだった。
「夜の街は随分景気が良いらしいね。この分だと、どこか好きな私立があったら、あんた高校自費で行けるわよ。将来の計画があるのなら、それも考えておきなさいね」

 翌々日の月曜日、よく晴れ渡った午前中に真史から電話がかかってきた。
 車の都合が付いたのだという。
「慣らしというか自分が慣れないといけないので、どこかにドライブに行こうと思うんですが、誰か誘って来ませんか?」
「行く行く」
 二つ返事で快諾をして、すぐに早紀の家に誘いの連絡をしたが、
「あ、悪い。今日練習試合」とのことで、あっさり断られた。
 絢は……確か、今日明日は引っ越し準備で忙しいはず。
 そうすると、二人っきりのドライブということになってしまう。
 ……どうしよう? と思いながらも、旅行用に買った服を前倒しで着ていそいそと用意した。
 幸い家の中には誰もいなかったので、よそ行きの服装を見咎められることもない。台所の勝手口からそそくさと外へ出て、道々考えることにした。
 出がけに思い付いて、引き出しにしまっていたカセットテープを三つほど取り出して、手提げバッグに仕舞った。
 いつか絢に教えてもらったシティポップの曲を車の中で聞くことが、ついに念願叶うのかもしれない。
 確か、その中の何れかにダビングして入っているはずだった。
 久埜の家の周辺は、一方通行や車両の入れない通りが多い。広い場所で待ち合わせていたのだが、しかしまあ中学生女子が男性と二人きりで遠出というのはやはりまずいかもしれないという考えが頭をもたげた。
 耕が家にいればなあ、とも思ったが、だからといって誘おうと声を掛けたかというと、それはまた別の話で選考外な気がする。
 ……やっぱり、都合が悪いのでとお断りする?
 久埜は煩悶したが、考えのまとまらないうちに背後からクラクションが響いた。
 振り向くと、随分巨体な見慣れないブルーメタリックの外車が近づいてきて止まった。
 運転席には真史がいたが、後部座席に……菜乃佳さんが乗っていた。

 車体はボルボというメーカーのステーションワゴンなのだそうで、
「中古なんですけど、気にいっちゃって」
「買ったんですか?」
「まあ、親父と共用なんですけどね。で、『かまのと』の源さんに自慢しに行ったらたまたま菜乃佳さんが通りかかって」
「姉の店に届け物があったんですけど、今日は私は休みなんです」
「で、まあ、久埜さん達も来るので一緒にどうかとお誘いしたという……」
 ……何だか怪しいが、久埜はともかくドライブ自体には恙無いことを喜ぶことにした。
 しかし、もし絢を誘っていて同乗していたら、奇妙な雰囲気になっていたんじゃないかと思い付いてぞっとした。
 菜乃佳さん本人は顛末を知らないらしいが……。
 絢はとにかく勘が良いから、どこかでこの姉妹を見知っている可能性はあった。
「で、どこへ行きます?」
 福岡市で丁度地方博をやっていたが、渋滞が酷いらしく運転初心者の真史には荷が重そうだった。
「逆なら関門方面?」
「取りあえず、下関の水族館にでも行く?」
 何も決めていなかったので、咄嗟の思いつきで車は動き出した。
 だだっ広いボルボのサスペンションはとても柔らかく、振動をあまり感じない。家にある軽トラックとは大違いだった。
 その分騒音も無いのだが、会話が途切れると何だか物足りない。
 乗っている後席から運転席を覗くと、ケンウッドのカーコンポが取り付けられているようだった。
「これ、カセット流してもらっていいですか?」
「もちろん」
 どれに入っていたっけ? ちゃんとラベルに書いておけばよかったと思いながら、取り敢えずひとつを手渡した。
 挿入口にそれは消えていったが、イントロが始まってすぐに間違ったことに気づいた。
「後ろに3ウェイのスピーカーを乗せてます。音が良いでしょう?」真史が言った。
「あれ? これ何だっけ? 聞いたことあるんだけど」
 菜乃佳さんが首を傾げて呟いた。
「ああ、そうそう。『二人だけのセレモニー』ね。……懐かしい」




 

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