「ミレイユの右へ」24
第二十四回 木村先生
なるほど、絢ならあり得ると思った。
実際、漫画好きなら誰でも一度は絵柄をなぞって落書きをしてみるものだが、絢は時々自分のノートの端っこなどに結構上手なイラストを描いていることがある。
ひょっとしたら相当な時間、人知れず練習をしてきていたのかもしれなかった。
ああ、例の「自分の為の没頭できる時間」だな、と思って、久埜はにんまりした。
「何? その笑い?」
「いやいや」久埜は慌てて誤魔化して、
「でも、道具とか大変じゃないの?」
「揃えた」
「え? 凄い」
そう言えば、最近は事故の件もあって絢の家に行っていないが、以前部屋でケント紙の束を見かけたことがあった。
その時は気に留めていなかったが、考えてみると漫画の原稿以外にそう使い道はないはずだ。
久埜も雑誌の漫画講座などで幾分知識はあったが、漫画を描くには各種のペン先、枠線を引く烏口という製図用具、更にはスクリーントーンなる原稿に貼り付けて使う粘着フィルムも必要らしい。
特にこのスクリーントーンが、地方都市では入手しずらく、久埜はまだ見たことすらなかった。
「で、描き上げたものってあるの?」
「うーん、まだ二つだけかなあ」
「読ませてよ」
そう言うと、絢は頬を強ばらせた。
「駄目駄目、ひとに見せられるようなものじゃない」
自分の楽しみとして描いたものだから、きっと恥ずかしいし気持ちは分かった。確かにそうだろうなと思って、それ以上は久埜はねだらなかった。
下校前に美術部担当の木村先生に、入部届を提出しに行った。
職員室は先生方の机が並んだ上に書類が積み上げられ、何だか雑然としていたが、その木村先生のところだけ、空間が開けて妙にすっきりしている。
先生は自分で淹れたのだろう、白磁のティーカップで一人だけ紅茶を飲んでいた。
銀縁の角の尖った眼鏡を掛け、多分四十台。漫画によく出てくる所謂オールドミスの悪役教師を彷彿とさせて、久埜は神妙な顔をするのに苦心した。
「初心者ですけど、よろしくお願いします」
書類を出して、そう言うと、
「誰でも最初は初心者ですよ」との返事だった。
「で、清家さん。――アミトーン60Lの10%がいるんだっけ?」
「はい」
「……じゃ、これ」
引き出しから大判の封筒を取り出して渡した。
「ありがとうございます」
よく分からない会話だったが、スクリーントーンの品番らしい。 ……誰でも最初は初心者なんだからと思って聞いていたが、年齢(とし)の離れた同好の士といった風情で、何だかうらやましく思った。
後で絢に訊くと、先生もかなり以前から漫画を描いているのだという。だが、同人活動が主だとのことだった。
しかし、その同人活動とか同人誌というものが今ひとつ分からない。
「追々分かるわよ」
何だかにやついているのが不気味だ。
木村先生は、清家呉服店の古い顧客でもあるとのことだった。小さい頃から、よく漫画本を譲ってくれたそうで、そう考えると絢は元々あの木村先生の影響下にあったわけだった。
中学校へは自転車でもバスでも、その気になれば歩いてでも行けたのだが、その日はバスを使って来ていた。帰りもそうだったが、大きめのスーパーが途中にあったので、停留所をひとつ手前で降りた。
「付き合う」と言って、絢がくっついてきたが、別に問題はない。ライムを探していると言うと一緒に探してくれた。
生鮮食料品のコーナーをぶらついていると、見落としそうな棚の片隅にそれがあった。
「あったあった」
「高くない?」
「それは覚悟の上よ」
二個だけ買って、裏道を二人で歩いて家路についた。
「それ、どうするの?」絢が訊いた。
確かに、ライムは料理にはあまり使わないし、概ねお酒絡みに限定されてくる。不思議に思うのは当然かもしれなかった。
まさか、いろいろ切り刻んで楽しむなどとは言えないので、
「カクテルデコレーションというものがあってですね」と、アミトーン60Lの10%みたいに感じろと念じながら説明した。
「それはまた、思いがけないところにシュミを見いだしたわね」
意外にも、本気で感心したように絢が言った。
「久埜がバーテンダーの格好をしたら、似合うかも」
「いやいや……」
そっちの方に関心があるのではないのだが……。
「女性バーテンダーって、ほとんどいないんじゃないかしら」
「そうなの?」
「考えてみれば、もともとお酒屋さんだし」
「いや安酒オンリーだし」
「角打ちやってるし」
「バーじゃないし」
「……でも、女性バーテンダーって、絵になるわね」
絵になる、で漫画のネタを思い付いたのだろうと久埜は察した。
「どんな格好をしているんだろ」
「きっちりとして、立ち姿が美しくないとね」
「ネクタイは外せないわね」
緩い坂を降りていく先に夕焼けが現れ、見慣れた風景に囲まれるまで、架空の女性バーテンダーへの肉付けは続いた。