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「ミレイユの右へ」19

第十九回 不倫



 視線を逸らしたが、向こうは既に久埜に気づいていたようだ。幾分早足になって、真っ直ぐに近づいてくる。
 あの時の怖い印象しかなかったので出来れば会いたくはなかったのだが、こうなると逃げ出すわけにもいかず、その場で待ち受けるしかなかった。
「……いつぞやの絢の友達の子やな」
「こんにちは」
 挨拶をしたが、どうしても堅い感じでしか声が出ない。
 だが、今日の源蔵は太い眉毛が八の字になって、何というのか毒気がなかった。
 落ち着きもない感じで、どうも子供と話すのが苦手なのかな、と思った。
「あの時は、儂がテンパってしまって、怒鳴り散らして悪かったな。せっかく知らせてもろうたのに」
「いえ……」
 久埜のような小学生に、源蔵のような偉丈夫がすんなりと謝罪してくるとは全く思っていなかったので、意外に思った。
 濃紺の紬を着こなした源蔵は背が高く、久埜達は見上げる形で、それだけでもかなりの威圧感があった。だが、やはり何だか妙に困っているような感じだ。
「そのお詫びと言っては何だが……」
 いきなり財布を取り出して札びらを切る。それも、結構額が多い。
 久埜は成り行きに困惑した。
「そういうのは裸で渡すもんじゃないですよ。……これを」
 連れ立っていたこれも和装の女の人が、懐紙を取り出して手渡すと源蔵はそれに金を包んで、
「……今度、何かお祝いの催しがあるんやろ? 絢の快気祝いなら、それにでも使うてくれ。何、例の壜の製造元から見舞金が出たんで、そもそもはそういうお金や」
「あ、いえ、でも……」
 大きな手でぎゅうっと包まれるように手渡されて、久埜は抵抗できなかった。
「それじゃあ」
 用事が済んで、せいせいしたような感じで源蔵は行ってしまう。
 女の人が後を追いながら振り向いて、唇だけで、
「もろうとき(もらっておけ)」と囁いた。
 久埜は半ば呆然として一礼した。
 見送った後、気がつくと早紀が傍でニヤニヤしていた。
「儲かったな」
「……さすが商売人の発想や」
「くれるもんは貰わんと」
「けど、これじゃあ……」
 会費の中の比重がまた膨らんで、清家家の分が殆どを占めてしまう。
 と、またそっちのことを久埜は考え始めていたが、まだ早紀は思わせぶりに顔を近づけてきてニヤニヤしていた。
「何? その変な笑い、可愛くないっちゃ」
「まだ分かってないな。そのお金は口止め料もコミコミやん」
「口止め料?」
 何を言ってるんだこの中華屋の娘は? と、本気でそういう表情をしていたのだろう。
 早紀は、心底呆れたような溜め息をついた。
 そして、噛んで含めるような言い方でこう言った。
「奥さん以外の女の人と歩いとったのを見られたもんで酷く焦っとったんやろうも」
「はあ? 着物関係の取引先とかなんじゃ?」
「それはまあ確かに、あの女の人は着付け教室の先生なんやけど……」
「知っとうと?」
「結構、この界隈じゃ有名人。美人先生やし」
 歩きながらも、話し声がどんどん密やかになっていく。
「つまり、まあ、要するに……浮気?」
「そこは、不倫(不倫に傍点)と言うてほしいわ」
 近年、テレビドラマから広がった言葉だったが、それの方が罪悪感のニュアンスが半端ない。
「けど、この時間に二人で外を歩いていて、それがおかしいかな?」
 源蔵の肩を持つわけではないが、そう決めつけるのはどうかと思った。
 だが、早紀はそれこそテレビドラマの女刑事風の口調で、
「もし、調べを入れて全然違う取引先とかに行ってることになってたりすると、それはまずいわよね」
「……まずいわね」つられて眉をひそめた。
 それは家庭争議の元としか思えない。
 つまり、絢には源蔵と今日街で会ったなどとは話せないわけだ。
 はっきりとは分からないグレーゾーンではあるのだが、うっかり話したりすると大変なことになるかもしれないので、それは出来ない。
 つまり、あれは文字通りの口止め料なわけだ。
「ようやく納得した?」
「納得した。……けど」
 これでいいのだろうか?
「返すわけにはいかんよ。貰ったときのことがあるし、それは言えない。実は意外と何にも不倫じゃない場合でも、状況が状況だから、どっちみち家族には言えない。言えば……」
「……揉め事の種になる」
「つまり、有り難く使わせて頂くしかない」
「……」
 なるほど、これが揉め事への対処ということか、と久埜は思った。
 実に煮え切らない話しだったが、これが所謂大人の対応と言うことか。
 つまり、大人になると言うことは……口に出せない秘密を抱えていくことになるということなのか、とぼんやりと思う。
「で、棚からぼた餅だけど、ちゃんと会費が出来たね」と、あっけらかんと早紀が言った。
「コースの一番いいのでお願いします」
「……強いな、早紀は」
「何それ、自分が弱っちいみたいやん」
「弱い方だと自負しとるけど?」
「うーん」早紀はちょっと考えて、
「でも、久埜は誰にでも好かれるやん。それって、なかなかな才能なんよ……」

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