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「ミレイユの右へ」38

第三十八回 転校



「ええっ?」
 そうすると、親権の問題が発生するが、元より絢はお母さんと生活する方を選んでいる。
 これから先の暮らし向き等、どうしていくのか……。絢と話をしておかなければいけないと思うのだが、今まで絢本人からはそういう相談はなかった。
 ひょっとして母親の地元に帰ってしまうのではと、以前早紀が話していたことを思い出して、久埜は腹の底から不安になった。
「こういう風に私が話すのも、おかしいんだけど」
 涼子さんは、以前絢の父親と一緒に歩いているのを見られた時、
「ああ、この子達は絢ちゃんの家庭がもし壊れてしまった場合、私が原因だと記憶するんだろうな」と思ったという。それが、どうにも気になっていたと。
 実際には源蔵の旺盛な投機癖に、安寧を得られない絢の母親が苦言を呈したことから、話が拗れだしたのだそうだ。
「それがまた、悉くうまくいってしまったもので、源蔵さんは過度にのめり込んじゃったんだよね」
 リスクはあるが、今は好景気で絶好の時期だ。もう二度と金の波が唸るようなこういう好況は来ないかもしれない。店と絢の将来のために、財産を大きくするのが何で悪いと立腹し仲違いは大きくなった。しかし、話し合いの末しばらく冷却期間を置こうということになったのだそうだ。
 涼子さんは、その時期に着付け教室の関係で源蔵と知り合ったので、順番としてはまあそういうことだと話した。
「あの人は、本当に絢ちゃんのことは心配しているのよ。ああ見えて、実際は甘々」
 あのコーラ爆発事件の時の、血相を変えた源蔵の様子を思い出して、久埜は微苦笑して納得した。
「でも、手元に絢ちゃんを置いておくことは、きっとうまくいかないことは分かっていて……それもあの人なりの優しさだと思ってあげてね。……まあ、あちらこちらで優しすぎて女性問題を起こすのが同時に欠点だけどね」
「……分かりました」
 本当に分かったのは、複雑な思いの錯綜する大人の人間関係の中で、それでも絢は気遣われているということだった。
 早紀を揺り起こして、改めて涼子さんと菜乃佳さんにお礼を言い、その日は帰宅した。
 帰り際に、壁に掛かった「フォリー・ベルジェールのバー」をもう一度見て、木村先生ならこの絵の見方を知っているかもしれないな、と思った。

 登校日、絢はいつもと全く雰囲気は変わっておらず、やはり自分からは家庭環境の変化のことは話してこなかった。
 わざと黙っているのだろうか? 
 授業中、後ろの席にいる絢が気に掛かって、つい何度も振り向いてしまった。
 その度に目が合い、
「何?」と絢が目顔で訊いてくるのだが、自分でもどうしていいのか分からないので、曖昧に笑って正面に向き直った。
 ……はっきりと話をしておこう、と決意が出来たのが最後の時限で、放課後部室へ二人で廊下を歩いているときに、ようやく切り出せた。
「絢のご両親って……」
「あ、どこで聞いたの? 木村先生?」
「うーん……いや、それは」
「まあ、どうしたって、いずれ分かっちゃうんだけどね。何しろ姓が変わるから」
 その事については、帰り際にゆっくり話そうよ、と絢は続けて、
「今日は、面白いものを描いてきたのよ」と、脇に持ったスケッチブックをポンと叩いた。
 何だろう、とつい関心はそちらに移った。
 ……が、巧みに隠してはいるが、絢の本当に言いたいことは別にあるのではないかと、長い間の付き合いから生まれる勘がそう囁いていた。

 絢がスケッチブックに描いていたのは、所謂ラフ画だった。頁を捲るにつれて、アニメの設定画に近い詳細なものに変化していく。
 自身のタッチというものが確立してきたのか、生気に満ちていて、その絵はかなり魅力的だった。
 コスチュームのデザインにも重きを置いているらしく、文字による設定やメモの書き込みも多かった。
「これって……」
 題材は「女性バーテンダー」だった。アニメ画調ではあるが、キャラクターのモデルが久埜であることは明かだった。
「あれから、ずっと考えていたの……?」
 入学したての頃、スーパーでライムを買って一緒に歩きながら、話をした女性バーテンダーの設定……。
「だって、魅力的な題材じゃない」
 いつも辛口の、木村先生の講評でもなかなか評価は高かった。
「この衣裳だと、実用性も高そうだしねえ」
 女性バーテンダーからの連想で「フォリー・ベルジェールのバー」の、バーメイドのことを思い出した。その事を言うと、
「ああ、バーメイド。……あれは女性のサガの象徴だけど、確かにバーメイドから、それを引いたらこのバーテンダーになりそうね」
 と、木村先生はそこまで言って急に押し黙った。
「今度マネの画集を持ってくるので、その件はその時話しましょうね」
 そして、いつものように各々の製作に取りかかって、その日の部活の時間は終わった。
 皆が引き揚げた後の部室に、久埜と絢はぎこちない感じで居残っていた。
 少し離れて、木の椅子に座っている。
「……ご両親、離婚したんでしょう?」と、覚悟を決めて久埜は口火を切った。
「うん。十日くらいになるかな」
「お母さんの方に?」
「うん。その件に関しては私にもどうしようもないよ」
「で……」
「だから、お母さんは実家の手伝いで生計を立てることになる。私もだけど」
「青森に行くの?」
「行かないといけない。今学期末で転居、転校だね」
「……」
「悲しい?」
「当たり前じゃない!」





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