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「ミレイユの右へ」56

第五十六回 箱




 ホテルを出て、しばらく走ったが、道路脇は正に不穏な様相で人気はまるで消えていた。
 雨量は思ったほどではないのだが、風を巻いて雨滴が吹き付けるので視界が効かない。
 時々、突風で車体が揺すられた。
「……こりゃあ、なかなかだな」
 源さんが唸るように言った。
「そこから右だぞ」
 電源が落ちたのか真っ暗な信号しかない交差点を恐る恐る曲がり、山間部に向かう。
 少し行くと交番があり、乗り入れて雨合羽姿の警官に事故等無かったか尋ねたが、今のところ近くでの車輌事故の連絡は無いとの返事だった。
 取り敢えずは安心したが、やはりどこかで立ち往生しているのではないかと久埜は思った。
 交番から離れて、短時間吹きっさらしの開けた場所を走り、両側に竹藪が増えたかと思うと、すぐに勾配が急になった。
 たまにすれ違う下り車線の対向車には、車体やフロントガラスの一面に笹の葉がびっしりとくっついていた。
 まるで夕方のように暗く、車に乗っていても風の唸る音が物凄い。
 ライトで照らされているはずの行く手も、路面の他は竹や木の枝が波打っているようで気味が悪かった。
 急に乾いた甲高い音がして、その度にギクリとする。
「古い竹が破断して倒れているんだな……」
「塞がれちゃうと通れなくなりますね」
「よく土砂崩れが起きるんだよな。この道」
 皆がだんだんと弱気になるくらい大荒れの天候だったが、真史のステーションワゴンは曲がりくねった坂道を登り切り、峠越えの頂上部にあるトンネルに入った。
「この先から下りですね。麓まで降りてみますか?」
 わざと徐行しながら、真史が訊いた。
「もう、行くしかあんめえ」
「ゆっくり行って」
 久埜は、それらしき車輌が停まっていないかずっと見張っていたが、今までの道は両側は竹藪か茂みで、何かそこにいれば把握できたはずだった。
 が、この先は確か……。
「崖になっているところがあるんで慎重に行きます」
 車は相変わらず揺さぶられ、高い崖のある部分は肝が冷えた。
 久埜は、まさかガードレールを突き破って落ちることはないだろうがと思いながら、しかし嫌な思いをしながらも、じっと慎重に車外を観察していた。
 やがて、その部分を通り過ぎ、カーブがまた連続し出す辺りになってから、一カ所ガードレールの隙間を見つけた。
 古い事故の後を補修した跡のようだが、施行がいい加減だったようだ。
 だが、あのくらいの幅では車一台が通れるとは思えないが……と考えて、ふと道路上に目を落とした時に、長細い紙の箱が落ちているのに気づいた。
「停めて!」反射的にそう叫んでいた。
「何か落ちている!」
「いや、そっちのドアを開けるな。俺が出るから」
 源さんがそう言って外へ出た。
 久埜の指さす箱を取って戻ってくる。ほんの数秒の作業だったが、ずぶ濡れになって車内へ戻り、それを開けてみた。
 ――新品のペティナイフが入っていた。
 三人で顔を見合わせ、真史が何も言わずにバックギアを入れた。
「ここで何かあったのなら、この後ろ側ですよね」
「よく見たら、砕けたガラスも周囲にあったぞ」
「あそこに、ガードレールの隙間があるのよ」
 そう言いながら、久埜は急激に血の気が引くのを覚えた。
 まさか……下へ落ちた?

 源蔵の車に屋根瓦が直撃して通り抜けた時に、車内にあった紙袋が破れた窓から吸い出され、中にあったものが道に散乱した。
 しかし、軽い物は吹き飛ばされ、絢が久埜に手渡そうと考えていたペティナイフだけがそこに残っていたのだった。
 絢は吹き込んで来る雨風のせいで低体温症気味になり、気分が悪かった。
 外に出ても、足場も悪く、雨に濡れたこの急斜面を登れるとも思えなかった。
 それ以前に突風に煽られて転落しそうだし、じっとして体力を温存し、救助を待つほうを選んだ。
 それに間違いは無かったはずだが、折も折だ。この嵐の中でいつまで耐えることが出来るのか……。
 蒼白くなってきた源蔵の横顔を見ながら、半分諦めかけていた時、久埜の声が聞こえた気がした。
 思わず笑ってしまった。
 素敵な幻聴だ、と。
 ……だが、風に乗って、届いてくるそれは……。
「絢! いるよね! 顔を見せて!」
 はっとして、斜面の上が見える場所へと必死に体を捩らせて移動した。
 見上げると、路面に這いつくばった久埜が、ガードレールの下面からこちらを覗いていた。
「久埜!」
「絢!」
 くしゃくしゃと泣き顔になる。
「良かった! 無事だった!」
 ああ、いつか私が目の上を切った時と同じ表情だ。久埜は変わらないなあ、と思う。
「お父さんが、大怪我をしているの!」
「分かった! 助けを呼んでくるから! 助けを呼んでくるから、じっとしていて!」
 久埜が顔を引っ込めた。が、すぐにまた顔を見せて、
「今度は、ちゃんと伝えてくるから!」と、そう言って姿が消えた。
 ……今度は?
 ……いや、あなた、あの時もちゃんと伝えてくれたじゃない?
 今度は怒られることもないでしょうけど……。
 そう考えると、妙に可笑しくなって、座席に戻ったが、安心すると逆に酷く涙が流れた。




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