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「ミレイユの右へ」35

第三十五回 菜乃佳さん



「私はここで働いている新藤菜乃佳(しんどう なのか)といいます。よろしくね」
 慌てて二人で各々自己紹介すると、菜乃佳さんは嬉しそうに微笑んだ。
 とても優しそうな人で、それはよかったのだが、やはり久埜はどこかで会っているような気がした。
 二十代の半ばか、たぶんそのくらいの感じだ。
 けれども、その年代の女性とは思い返してみても、今まで接点というものが無かった。
 だんだんと、勘違いのようにも思えてくる。
 厨房施設なので、履き物替えと前掛けをするように言われ、案内されて早紀と二人でいそいそと準備をした。
 手を洗うために移動した際、
「新藤さんか……、たぶんやけど」早紀が耳打ちした。
「着付け教室の先生の妹さんやな」
 着付け教室? ……ああ、いつか絢のお父さんと一緒に歩いていた……。
「そうか。そっくりなんや」
 あの、振り向いて微笑していた女の人の立ち姿を思い出して、久埜は納得した。二人とも髪はアップにしていて、印象がさらに近いものになっていたのだろう。
 ご近所とは言え、いろいろなことが起きるな……、と思う。
 業務用の機器が並ぶ厨房の一角で、菜乃佳さんは待っていた。
「スケッチに描かれていた食材は全部用意しました。……なかなか斬新な盛り付けで吃驚したわ」
 ステンレスの作業台の上には、トレイに入れられたフルーツ類がずらりと並んでいた。
 目の前には、清潔なプラスチック製の大きな俎板。
 久埜は、何だか本当に大仰なことになってきたことを、今頃実感してきて緊張を覚えた。
「私は今日は助手なので、手伝うことがあったら何でも言って下さい」
「私も助手なんで」と、早紀。
「お料理は? 大丈夫?」
「家が中華料理屋なので」
「ああ、それなら……」と笑って、早紀の家の話になり、
「金星軒は、炒飯が美味しくて何度か行きました」と打ち解けだした。
 作業自体は二人でやってみると言うことになり、菜乃佳さんは見られているとやりにくいだろうと思ったのか、離れた場所で別の作業をすることになった。
「午後の三時頃から仕込みのスタッフが出勤してくるので、それまでにお願いします」

 久埜は包丁ケースに入れてきた自分のペティナイフを取り出すと、俎板の上にりんごを一個置いてじっと眺めていた。
「どうしたん?」
「いや、これって実際には手順を結構考えないと……。りんごは色止めをしないといけないし」
「なるほど」
「塩はこっちの入れ物の中にあるわよ」
 会話が聞こえたのか、菜乃佳さんが声を掛けてきた。
「塩水作る?」と、早紀が動こうとする。
 だが、久埜はしばらく返事をせず、菜乃佳さんの方を見て言った。
「すみません。スポーツドリンクってありますか?」
「えっ? 確かあるにはあるけど……喉でも渇いた?」
「いえ、それで変色を防ごうかと」
 菜乃佳さんは驚いた様子で小走りに冷蔵庫の方へ行くと、大型のペットボトルのそれを抱えてきた。
「初耳なんだけど、そういう方法があるの?」
「前に思いつきでやってみたんですけど、ちゃんと変色防止になって、味もしょっぱくないんです」
「……あなた、凄いわね」
 ボウルに、スポーツドリンクを注いでもらった。
 芯抜きがあったので、早紀にその係をしてもらい、久埜はくり抜かれたりんごを薄くスライスしていく。
 出来上がったそれをボウルの中に浸す。
 バナナも、やはり変色の嫌いがあるので切るのは後回しだ。ライムとレモンの輪切りを作ったり、飾りの類いを作る。
 レモン汁は、後でバナナの色止めに使うので取っておいた。
 イチゴのナパージュは菜乃佳さんに相談した。ジャムだと多少甘みが果肉に移るので、洋菓子の手法で粉ゼラチンと砂糖で塗布液を作ることにした。
 早紀がまた係になって、菜乃佳さんに指導されながら作成する。
 盛り込み用の皿は、概ね構想通りの大きな白磁の角皿だった。頭の中で盛り込んだ後の姿を想像してみたが、些か実際にはスペースが空いて彩りが寂しく感じるのではないかと思った。
「うーん」
「どうしたの?」と、菜乃佳さん。
「少し、変更してもいいですか?」
「それは自由よ」
「ワイングラスって、あります?」
「……何個いるの?」
「取り敢えず、四個お願いします」
 菜乃佳さんは棚を調べていたが、
「今、置いていないようだから、上の階のバーから借りましょう」と言って、電話をするために厨房を出て行った。
「ワイングラス?」
「喫茶店のフルーツパフェって、とてもおいしそうに見えるじゃない」
「うん」
「ずっと考えてたんだけど、ああいうガラスの器が一番フルーツに合うんじゃないかなって……。中に盛り込んでみたかったのよねえ。けど、グラス高いじゃない」
「へえ。……盛り込みの高さも稼げるしね」
 その時、厨房のドアが開いて、和装の女性が入ってきた。ワイングラスの入ったビニール袋を両手に提げている。
「菜乃佳。持ってきたわよ」
「あっ」久埜と早紀は、同時に思わず声を上げた。



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