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「ミレイユの右へ」28

第二十八回 ゴッホと耽美



 日曜日になった。
 早くも初夏の陽気で、待ち合わせ場所では二人とも今年初めての半袖姿で出会った。
 本を借りられると聞いていたので、久埜は肩掛けのスポーツバッグを持参していたが、絢は目新しい赤いデイパックを背負っている。
「両手を使えるから便利よ」
「あたしも買おうかな」
 話しながら路面電車の停留所へ行くと、すぐに一眼ライトが特徴の老朽化した車体が走ってきた。
 暗いマゼンダ色に塗装された車体は、二人共が幼い頃から幾度となく乗ったお馴染みのものである。
 入り口の機械から整理券を取り、空いている青いベンチシートに腰掛けた。
 モーターの唸る音がして車体が加速していく。時々ブレーキの掠れた金属音が被さるが、もはや誰も耳障りだとは思わない。
 むしろ、それらの雑音も込みで、いつも乗り込むとこの車体の動揺と振動が眠気を誘ってくるのだが、今日はそれらを楽しんでいる時間は無かった。
 絢と美術部での話をしていると、以前保険会社が五十三億円でゴッホの「ひまわり」を買ったと聞いたが、その後どうなったんだろう、という話題になった。
「いずれ美術館で展示されるとか。保管中なんじゃ」
「しかし、絵一枚にとんでもないよね」
 美術品の価値とは何なのか、さっぱり分からない。
「ゴッホは、日本人には何故か人気があるんだよ」
「ふぅん」
 価値とは人気のことなのか? でも、何がそんなに人を惹きつけるんだろう?
「……そういえば、ゴッホも確かりんごの絵を描いているはずよ」
「本当?」
「あんまり静物画は描かなかったみたいだけどね。先生の家に、多分画集があるんじゃないかなあ」
 興味が湧いてきたので、是非見せてもらおう、と思ったところで電車の連続ブレーキが掛かり、反動で絢の体が横からのし掛かってきた。
「絢ちゃん、もう、重いっちゃ!」
「ごめんごめん」

 目指す停留所で降りた。
 そこの周辺には雑多な商店が建ち並んでいたが、線路を越えて少し歩くと緑が増え、閑静な住宅地の様子になった。
 それぞれの家の敷地が広く、久埜はこんな所に住んでみたいな等と他愛もない妄想を膨らませていた。
 いや、それよりも、先に一人暮らしに憧れるべきなのか、とも思う。
 昭が独立して幾分楽になったが、まだまだ今の家での個人スペースは手狭だった。
 この家もいいなあ、とかこっちも新しくてきれいだなどと値踏みしながら歩く。
 やがて、どうも母屋は和風だが玄関周りは洋風に作られた、不思議な感じの古い家が見えてきた。それこそ、少女漫画にでも出てきそうな……。
 思わず、異質だ、と呟きそうになった。
「あそこよ」
「ああ……そんな気がしましたです」
 白いつるバラがフェンスに誘引されて見事に咲いており、植え込みも何だか見慣れない植物ばかりだ。
 玄関のチャイムボタンを押して、声を掛ける。脇にある雨水を逃す竪樋(たてどい)もピンクのつるバラで覆われていた。
「ごめん下さい」
「……ああ、開いているから入って」と、すぐ近くで先生の声がした。
「お邪魔します」
 恐る恐るドアを開けて中に入ると、玄関からすぐ続く場所がガランとしたアトリエみたいな作りになっていて、メタルのイーゼルや大小のキャンバス、雑多な画材が置かれていた。
 イーゼルには描きかけの油絵が乗ったままになっていたが、先生は部屋の一番奥にある机に向かっていて、ケント紙にガリガリと丸ペンを走らせている最中だった。
「このコマだけ終わらせるから、ちょっと待ってね」
「あ、お気遣いなく……」
「本、見せて頂いてますからごゆっくり……」
「あ、なら、自由にやってて」
 許可が出たので、楽しみにしていた漫画書庫を覗かせてもらうことにした。
 絢について廊下を歩いて行くと、普通の家ならおそらく仏間のあると思われる位置に、廊下側まで襖で閉め切られた和室があった。それを開けると三面全部が長押まで本棚になっており、大量のコミックスの類いがぎっしりと背表紙を向けて収まっていた。
「……凄い」
「ここは漫画だけなんだって。小説なんかは二階に置いてあるそうよ」
 読み損ねた古い漫画や、まだ読んでいないシリーズもあった。
 ずっと気になっていたが、終盤だけまだ読んでいないものがあったので思わず手にとって立ち読みを始める。
「座って読んでいいのよ」
 炬燵机と座布団まであったので、言われたままにそれに座って耽読した。
 一冊を読み終えた頃、先生に呼ばれたので先ほどの部屋へ行くと、応接間にお茶の用意をしてあると言われた。
 大きなテーブルにティーポットとカップが並び、本格的なセットである。テーブルと椅子も本物の英国アンティークのようだった。
「茶葉はいい奴だけど、お菓子は買い忘れたので普通のカステラ」
「いえいえ、充分です」
 恐縮してお茶を頂いていると、先生が席を立ってケント紙の束を持ってきた。
「これ、今描いている奴の完成分なんだけど、どうかしらねえ?」
「拝見します」絢が言った。
 その一枚目が順繰りですぐに久埜に廻ってきた。
 表紙である。タイトル文字は後で入れるのか鉛筆書きだ。「天使の絆」とある。
 だが……絵の方は主人公らしい金髪の少年と、同い年くらいの黒髪の少年が、上半身裸で抱き合っているものだった。
「……これって……所謂、お耽美な」
「そうそう」絢が表情も変えずに言った。
「美術部全員、こんな感じ。……知らなかった?」




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