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「ミレイユの右へ」37

第三十七回 マネ



 厨房施設のある一階の反対側から外に出ると、集合看板の掲示されたビルの共用部があり、午前中と変化のない、どんよりとした冬空が望めた。
 そこから踊り場付きの階段が二階に伸び、上がっていくと片階段型のフロアとなっている。その一番手前の扉のノブに菜乃佳さんは手を掛け、ここだと言った。
 扉に嵌め込まれた金文字の看板には、「会員制バー マネ」とある。
 内開きになっているそれを、ゆっくりと開ける。
「マネ?」
「画家のマネに因んでいるらしいんだけど」
 久埜はモネなら知っていた。クロード・モネ、睡蓮の絵を沢山描いた人だ。
「マネーにも因んでいるのよ。一杯入ってきてもらいたいのよねえ。マネー」
 中からそう声がした。涼子さんだった。
「どうぞ。うちはカウンターの方が食べやすいからこっちへ」
「お邪魔します」
 恐る恐る入っていく。よく考えたら、こういう酒場に来るのは二人とも初めてだった。
 入り口から見える反対側の壁、一番目立つ場所に額に入った洋画が飾られていた。
 女性の肖像画のように見えるが、雰囲気が外国の酒場のようだ。
 カウンターに座りながら、
「あれが、マネの絵ですか?」と、久埜は訊いた。
「『フォリー・ベルジェールのバー』っていうタイトル。昔からこの絵だけに、妙に心惹かれるのよね。複製画を買うのが夢だったんだけど」
 店内には他に絵は一切飾られていない。マネと言っても、かなりのピンポイントらしい。
「まあ、まさか自分でお店出すなんて思わなかったけど、バーからの連想でこの絵を思い出してね。……だからマネ」
「『ベルジェール』の方は候補に挙がらなかったんですか?」と、早紀。
「そっちの方が、カッコイイ気がするけど」
 それでは、耽美コミックの主人公の名前みたいだと久埜は思ったが、黙っておいた。
「生憎『フォリー・ベルジェール』は、有名なミュージック・ホールで、昔からパリにあるのよ。その中にあるバーの絵がこれ。……あと、飲み屋経営は初めてなので、真似事ということで自戒をこめてマネ」
 二人で納得したところで、店屋物の注文を訊かれた。
「カツ丼お願いします」と早紀が即答した。
「えっと、同じで」と、久埜。
 だが、何を頼んでも取り敢えずの今日のギャラだと聞かされて、二人とも、うな重に急遽変更となった。
 要するに赤星社長の奢りなのだった。苦笑いをしながら、新藤姉妹も同じ物を頼む。
 待ち時間、久埜は何度もマネの絵の方に気を取られた。
 不思議な絵だった。
 中央に、おそらく注文した飲み物を作ってくれる、黒いドレス姿の女性が立っている。 普通なら絵のヒロインのはずなのだが、その目にはいまひとつ覇気が無い。
 また、背景が最初分からなかったのだが全面の鏡張りで、実は絵の前景が映り込んでいるのだった。
 これは……何というのか、異常に凝った絵なのではないのか?
「変な絵でしょ」と、お茶を淹れながら涼子さん。
「鏡に映っているものと現実が合っていないのよ」
 確かに、中央に立っているドレスの女性は鏡の中では右の位置に寄っているように見える。また、前景にいない男性と会話をしているようでもある。
「うーん?」
 だが、そうなのだろうか、と久埜は思う。いつか見たセザンヌなら、主題を描くために絵の中に現実を歪めてでも世界を作る。ゴッホは、ゴッホの精神が感受した歪んだ現実を描いたのだろうと思う。
 けれど、このマネの絵は?
「歪めてないんじゃないかな?」
「え?」
「これって、現実そのまんまなんじゃ……」
「現実……」涼子さんが口籠もったまま、絵を見つめた。少し置いて、
「確かに、中央に立っているバーメイドは、この時代のパリの現実の象徴みたいなものなのよね」
「バーメイド……」
「身分は低く、収入も不安定で、バーメイドは時には自分も商品にしないといけなかったのよ」
「自分を商品?」
「お姉ちゃん……」菜乃佳さんが、中学生相手にと窘めたが、
「ああ、そういうマンガ、腐るほど読みましたのでお気遣いなく」と早紀。
「あっ、そうなの?」
 菜乃佳さんを、逆に恐縮させてしまったようで申し訳なかった。
「でも、そういう意味深な絵を飾っているお姉ちゃんの店も相当なものね」
「いや、うちは商品はお酒だけだから」
「女の子は?」
「今はバンケットが二人だけ」
 話が意味深になりすぎた頃、丁度うなぎが届いた。

 美味を堪能して満腹になり、
「ソフアで休憩したら?」と言われて、二人でボックス席の高級そうな革張りのソファで手足を伸ばした。
「疲れたー」と、一声言った直後、ふと見ると早紀は明らかに寝入っていた。
 体育会系は相当神経も鍛えられているんだなと呆れていると、涼子さんが小さく手招きをしているのが見えた。
 姉妹で何かカウンターで話していたのだが、菜乃佳さんはお手洗いに行ったようだった。
 カウンターに座り直すと、
「……これだけはちょっと言っておきたかったんだけど、絢ちゃんのお父さんのこと」
「え?」
「菜乃佳も知らないので、伝えるの今しかないのよ。大人の話なので、どうかとは思うんだけど、確かに以前あなた達に会ったときには、あの人とお付き合いしていたのよね」
「……」
「でも、とっくに切れていますので……。今、あそこが揉めている原因は私じゃないわ」
「えっ? 揉めているんですか?」
「……というか、とうとう離婚したらしいわよ?」




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