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「ミレイユの右へ」39

第三十九回 悲しみ



 長い間、薄々恐れていたことが現実になってしまった。
「悲しいわよ。ひょっとしたら、今までで一番悲しい」
「肉親の死よりも?」
「爺ちゃんと婆ちゃんの時は、物心ついてなかったし。……何でそんな話」
「あ、えっと、私は何というのか……悲しすぎて悲しさがどうも実感できないというか、少しおかしくなっちゃってるのかも」
「何言ってるのよ……」
 確かに、見た目はいつもの聡明な絢なのだが、何だか口ぶりが奇妙な印象を受ける。
「まあ、随分な距離で離ればなれになるわけだけれど、会おうと思えば会えるわけだし、私は絶望しているわけではないわ」
「……」
「私のことは心配いらない。私はどこへ行っても、きっとうまくやっていける。だから、久埜は安心していていいよ」
「……」
「本当だから」
「嘘だなんて言ってないでしょ」
「本当だから」
 堰を切ったように絢の目から涙が溢れた。
 そのまま絢が膝から崩れ落ちそうな気がして抱いて支えた。
「絢……」
「私は悲しい」
「分かったよ」
「本当に悲しい」
「分かったから……」
 久埜の肩口で何度も絢は「悲しい」と繰り返したが、背中を擦ってやるうちに次第に落ち着いてきたようだった。
「涙を拭かなきゃ……」
 ハンカチは鞄の中にあった。
「……このままでいたい」
「動けないでしょ。……重いし」
「ちぇっ」と、言って顔を上げた絢は、表面上は普段の様子に戻っていた。
「でも」と、またすぐに、ぶり返したように昏い目をする。
「結局、久埜は何も分かってないよ」
 何だか酔っ払いの相手をしている気分になってきて、久埜は何も言い返さなかった。

 絢は帰り道には打って変わって「急に恥ずかしくなってきた」と言い、久埜が家まで送ると申し出たのをやたらと拒否した。
 だが、
「おかしくなっちゃってる人を一人で帰せないでしょ」と、強引に家までついて行った。
 清家呉服店よりもやや遠いが、住宅街の一角にある普通の二階建てアパートだった
「ここでいいから」と、絢は言ったが、その二階の連絡通路まで上がり、表札を確認して絢がドアを開けるまで久埜は帰らなかった。
「えー、どうもご迷惑をおかけしました」
 そう言って絢がドアの隙間に身を滑り込ませようとしたとき、甘い香りが入れ替わりに中から漂い出てきた。
「あ、りんご煮の匂い」と、思わず声に出た。
 すると、奥から、
「あ、久埜ちゃんでしょ? お久しぶり。よかったら、りんご煮、食べて行かない?」と、絢の母親の絹子さんの声がした。
「あ、はい」丁度、空腹だったので抗えない。りんご煮は、随分の間食べていなかった。
「頂きます」
「うわー」と、聞いていた絢が何故か絶叫した。

 こじんまりとしたキッチンのテーブルに付いていると、いつか味わった、シンプルそのもののりんご煮のお皿が出された。
「ああ、変わっていない」
「でしょう?」絹子さんは笑って、
「変わり映えがしないんだけど、一定品質を保っている農家の気心がこもっていると考えるとなかなか味わい深いわよ」
「青森に帰られる件、伺いました」
「あら、そう?」
「りんご園で働かれるんですか?」
「うちの兄弟が、先代が大きくした園をずっと守っているんだけど、うちは出戻ったらそこの手伝いをするのが家風なんで」
「そうなんですか……」
 すると、前例があるわけだ……。肩身が狭い思いはしなくていいらしいな、と思う。
 一安心して、久埜はフオークで切り分けて、りんご煮を口に運んだ。
「美味しい」
「ありがとう」
 大慶商事の厨房で、いろいろな品種のりんごをつまみ食いしたり、久埜はフルーツに関しての造詣はじわじわと深めてきていたが、今のところこれがベストワンだなと思った。
「あたしももらう」
 部屋着に着替えた絢が顔を出した。
「ジャムか何か付ける?」
「そのままでいいよ」
「あら?」
 甘いだけと言って、いつもはそのまま食べないのに、という心の声が聞こえた。
 絢は出されたそれを黙々と食べていたが、
「三月にお母さんと温泉に行くんだけど」と、ぼそりと言った。
「へえ」
「こっちの温泉が好きなんだけど、入り納めね」と絹子さん。
「別府は随分行ったし、熊本の方がいいかと思っているんだけど」
 焦れたようにして、絢が言った。
「一緒に行かない?」
「え?」
「お別れだし、お願い」






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