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「ミレイユの右へ」33

第三十三回 平成のはじまり



 ……だが、時間は何者にも容赦なく、いつの間にか過ぎていく。
 久埜の身辺に大事件は特に起きず、ひたすら学校や部活での課題をこなすうちに一年半以上が経過した。
 絢の家庭のことはずっと気に掛けていたが、夫婦仲は良くも悪くもならないといった調子らしく、変化はないようだった。
 1989年になった途端、前年から体調が悪化していた昭和天皇が一月七日に崩御した。
 昭和六十四年は、わずか七日間で終わり、平成という時代が始まった……。

 久埜はしかし、相も変わらず家に帰ると店番をしている。
 世の中は恐ろしく好景気らしく、何だか酔っ払いの雑談にも活気がある。また、配達で出て行くビールや酒類の量も明らかに増えており、担当する文太はほとんど日がなそれに手を取られていた。
 久埜は、いつも通りカウンターの間に座るか立つかしているのだが、最近何だか狭苦しく感じてきて、自分の体躯もそれなりに成長してきたのを妙なところで感じさせられた。
 いや、まさか、太った……?
 ギクリとしたが、いやいや大丈夫大丈夫と、二の腕を触りながら自分をなだめた。
 平均身長で平均体重、ついでに成績も平均点なのが自分の長所……なのか、短所なのか分からないが、とにかくそれが特徴なのだから。
「久埜ー」と声がして、ジャージ姿の早紀が店に入ってきた。
「コーラもらうね」
「缶?」
「壜、コーラは壜!」
 ランニングでもしてきたらしく、冬なのにスポーツタオルで汗を拭っている。冷蔵庫を自分で探ると壜コーラを取って、柱に吊してある栓抜きで開け、喉を鳴らして飲んだ。
「イッキか」
「そのうち、ビールでやるようになるな、ありゃあ」
 客がそうボソボソと話していた。
 確かに、何となくだが早紀はお酒の窘める部類の女性の風格が現れてきていた。すっかり背も伸びて、最近はバレーの後輩を扱いているそうで、姉御肌とでも言うのか、一種独特の貫禄めいたものを感じる。
 多分だが、もし流行のワンレンにして、ボディコンを着こなしたら学年では一番似合うのではないか。
 また入り口が開いて、コートを着た男性が店に入ってきた。
「あ、赤星さん」
「ビールをくれ」
「はい」
 しばらく赤星社長は、黙ってビールを飲みながら久埜と早紀の他愛もない話を聞いていたが、
「いつか描いていた絵は出来たかね?」と、話の切れ目でそう訊いてきた。
「え? ああ、出来上がりました」
 それは、しばらく前に美術部の活動製作で「今、一番作りたいもの」を作りなさいと木村先生から無茶振りをされた際に、散々悩んだ末に絞り出したものだった。
 無心に考えると、今一番作りたいものは、手の込んだゴージャスなフルーツ盛りの一皿だった。
 実はカクテル・デコレーションをやりこむうちに、実の大きなフルーツの出番がまるで無いのに気づいたのだった。特にりんごはほとんど使われていない。
 結局、フルーツのデコレーションをもっとやろうと思うと、「盛り合わせ」に行き着いてしまうのだった。
 だが、それは生ものであり美術作品とするのには無理がある。仮に作るとしても、かなりの費用が掛かりそうなので、久埜の財布では手が届かなかった。
 そこで、その架空のスケッチを描くという、謂わば屈折した案を久埜は思い付いた。
 架空なのだから盛り合わせは皿に合わせる必要がない。逆もまた然りで、画面に合わせて大きな銀製のトレイのようなものを想定した。
 この一年、久埜は何度か自分でカットしたフルーツを実際に皿の上に並べてみたが、意外と地味に見えることに気づいていた。
 例えばパイナップル、スイカ、キウイ、オレンジ等をただ盛り込んでみても、どうも色味はくすんでいて際立たないのである。
 一方で、喫茶店のフルーツパフェのそれは実においしそうに見える。
 それには随分前から気づいていて、何故かをずっと考えていた。
 描かなければならない時期になっても、それは分からなかったが、絢にはせっつかれるしで、仕方なしにままよと下絵に掛かった。
 架空のトレイの上に、白磁の四角い皿を置く。
 中央に空白を取り、千枚りんごで一角を覆う。縁取りにレモンとライムのバタフライ。捻ったその外皮(ピール)はアクセントとして散らし、反対側には切り違いにしたバナナと、それに合わせた一口チョコレート。
 一角には整然と並べたイチゴの軍団。水で薄めたジャムでナパージュして艶々としたイチゴ達。寄り添う練乳の小皿。
 ドライフルーツだってフルーツだ。ベリーの類を散らし起き、ここにパイナップルの一群を。……そして中央には「可愛い」姫りんご。
 その下絵は、絵画と言うより設計図じみていて美術部員全員の首を捻らせたが、角度を付けて俯瞰にした二枚目になると、そういうことかと皆を納得させた。
「……しかし、これ頭の中だけで描いたんだよね」
「なんか凄い」
「というか、これ食べたい」
 賞賛なのかどうか微妙だったが、気分良く彩色を始めた久埜の後ろで、絢と木村先生がヒソヒソ話をしているのが漏れ聞こえていた。
「これ、ここまでくると、あれですよね、あれ。……オ・タ・ク」
「フルーツオタク? 聞いたこともないわ。そうなると、かなり高度なオタクね」
 ……お耽美なあんた達に言われたくないわ、と怒鳴ってやりたかったが、腹に収めた。

 そうして絵は水彩画として完成したのだが、その最終の下絵に店で手を入れていたのを赤星社長に以前見られていたのだった。何故だか興味を持ったらしい。
 部屋から下絵用のスケッチブックを持ってきて手渡す。食べ物ばかり描かれているなと思い、何だか恥ずかしくて下を向いた。
「うん」赤星社長は頷いて、
「君、これ作ってくれないかな」と言った。




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