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「ミレイユの右へ」59

第五十九回 可愛い梨




 高校三年の夏休み。
 久埜は、山の斜面に広がる、ある観光りんご園の手伝いをしていた。
 りんご園と言っても、ここは地元の福岡県である。県の中央部の山間の地域では、出荷量こそ細々としたものだったが、りんご農家が点在していた。
 九州には温暖なイメージがあるが、この地域では地形の起伏が豊かで寒暖差があるため色づきも良く、糖度の高い甘いりんごが取れているのだった。
 実は絹子さんは、請われてこの地で働いていた。
 出稼ぎ先を探していたところ、青森で修行していたそこの園主に、知識のある絹子さんに是非来てもらいたいと誘われたのである。
 麓にある空き家も格安で貸してもらえ、そういう好条件だったためにすんなりと話はまとまった。
 青森から絢も来ていた。高校卒業後も青森にいるつもりだったのだが、
「卒業したら、やっぱり、こっちに来ようかなあ」と、再三口にするようになった。
 台風被害の影響で、経済的には厳しいとのことで、進学はせずに就職するつもりだという。
 りんごの樹の間を廻りながら、やはり同じ事を言うのだが、具体的な計画はまだ決まっていないようだった。
 久埜も同様で、進学か就職かいい加減決めないといけないと思っていたところに、絢から誘いがあり、環境を変えてじっくり考えようと思って、家の許しを得てやって来た。
 絢の家での間借りだが、農家の時間で一日が動くし、絢が当たり前のように作業に出て行くので、一緒にいつの間にか手伝いをやるようになってしまった。
 園には二十種類ほどの品種が植えてあり、収穫時期がずれているので数ヶ月にわたって、りんご狩りが楽しめるようになっている。
 八月の下旬からは「つがる」が収穫できる。完熟に向けて、つる回しを行った。

 園に隣接したところに梨農家があり、園でも販売している縁で「親水」が旬だから取りに来るなら家族分どうぞと声かけがあった。
 絹子さんが軽トラックを運転し、園で売る分をコンテナでもらうついでに、お呼ばれ分十個余りを頂いた。
 梨の入ったビニール袋を抱いて荷台に二人で座り、トラックは林道めいた田舎道をのんびりと走っていく。
 久埜は揺れるコンテナの中に形の幾分悪い梨を見つけ、その蔕がこちらに向いているのに気づいた。
「あ、『可愛い梨』だ」と、思わず声に出す。
「何それ?」
「何って、可愛いでしょ? それだけ」
「ヘンなの」
 自分の感覚だけの概念なので何とも説明しがたい。苦笑いしていると、絢が荷台の柵に引っ掛けてあるラジカセのスイッチを入れた。
 あの「ミレイユ」が正に発生した同月同日に発売された「ガンズ・アンド・ローゼズ」のアルバム。その中に入っている「 Bad Apples 」という曲で、絢のお気に入りだった。
 何でも青森に帰った際に、落果の処理作業の現場でラジオからその曲が流れており、悪い冗談かと思ったそうだが、何かのツボに嵌まったらしく、以後そのバンドのファンになってしまったそうだ。
「メタル最高だよね」
 多くの中に一個悪いりんごがあると、周囲にある他の果実を腐らせたり、良くない影響を与える。
 久埜は、その例えは知っていた。
 自分は、出来ればむしろ良い影響を与える良いりんごでありたいと思ったが、
「あ、それってつまり『可愛いりんご』のことか」と、一人で合点した。
 良いりんごは形は歪で見栄えは悪いが、愛嬌があって、きっと甘くて可愛いんだ……。

 梨は夕飯の後で、久埜が持参のペティナイフでさっくり切って、食卓に出した。
 絢から貰ったあの時のナイフだが、高級品で切れ味が良かった。
 果肉もそのため舌触りが良い。瑞々しいその味を楽しんだ。
「甘いね」
「やっぱり梨は独特だね」
「ここまで完熟させる苦労は、りんごと同じだろうね」
 自然にその梨農家の話になったが、
「あそこの一番下の息子さんがいるんだけど、生まれつきアレルギーが酷いそうよ」と絹子さんが言った。
「アレルギー?」
「それが、小麦とか卵とか、確か乳製品も駄目で、だから近々七歳の誕生日なんだけど、いつもケーキが出せないもので家の人が不憫だって話してたのよ」
「ふーん」
 絢がそう気のない返事をしたが、頭の中では何か考えを巡らせているようだった。
「……でも、今年は幸いなことに、ここに久埜がいるじゃないの」
「え?」
 不意に振られて、爪楊枝で刺していた梨が零れた。
「何のこと?」
「小麦も卵も使わないケーキを作ればいいのよ。フルーツならアレルギーは関係ないでしょう?」
「あ、そうか」
 ナイスアイデアだということで、三人で楽しい鳩首凝議が始まった。
 頂いた梨のお礼としても最高だと思えた。
 久埜がレシピとフルーツケーキの設計図を早速書き、絹子さんが梨農家に連絡し、許諾を得て提供が決まった。
「お誕生日は?」
「それが、明後日なんですって」
「それじゃあ急がないとね」
 翌日は久埜と絢の二人で材料の買い出しをすることになり、絹子さんも仕事の合間に知り合いを当たってみることになった。





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