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「ミレイユの右へ」58

第五十八回 披露宴



 青森県内のりんごの落果被害は、およそ三十万トンと推定されている。
 地面に落ちたりんごを拾う手間暇は膨大で、その処理先は加工するにも能力が追いつかず、出荷も覚束なかった。
 そして、経済的に耐えられない農家が続出した。
 各地に傷物のりんごをそのまま地面に埋める「りんごの墓場」が現れ、果樹そのものも枝折れや倒木が激しく、辛抱強く踏みとどまっても、園地の回復には十年以上はかかるだろうとまで言われた。
 絢の母親の一族は、何とか経営を維持したが、絹子さんは「出稼ぎ」を決心し、しばらくして地縁のある九州へまた戻ってくることになる。

 「ミレイユ」は、二十八日の八時頃北海道の渡島半島に再上陸し、北東方向へ時速百七十キロという狂ったような猛速で、網走の北方の海上まで、広大な大地を一気に駆け抜けた。
 そして同日十五時頃、千島近海でようやく温帯低気圧となり、徐々に姿を消した……。

 血腫を取り除く手術を受けた源蔵は、二日ほどで意識を取り戻した。
 後日、事故の日は丁度事業の清算が終わったところだったのだが、売却した不動産物件が軒並み大きな被害を受けたことを知って、冷や汗をかいていたそうだ。
 退院後は、また何か小売り業で堅実にやっていくと言っていたのだが、救助に来てくれたのが久埜だと知ると、
「ああ、俺はまた呉服屋をやるぞ」と言い出した。
 何でだと絢が訊くと、
「俺はもうあの子に永遠に頭が上がらん。何も出来んが、せめて、一生着物には不自由をさせんようにしたい」
 と、鼻息荒く決意を語ったのだそうだ。

 翌々月の大安吉日。
 源さんと涼子さんの結婚披露宴が、盛大に執り行われた。
 その日には、両人の達ての要請で、久埜のフルーツデザートが供される予定だった。
 ホテル側は、料理関係者の多い披露宴だとは分かっていたが、部外者に厨房を貸すのには当初難色を示した。
 が、上層部からの許諾があっさり出て、どうも誰か大物の口利きがあったのではないかとの噂が駆け巡った。
 開会前、新郎新婦席の両側には祝福をモチーフにした豪華な剥き物飾りが並べられており、何人かが立って眺めていたが、その中に高齢の人物がいた。
 紋付姿で背も低く目立たない。
 実は飾り物の製作はほとんど真史が手掛けていたのだが、様子を見に来た際にその姿が目に入った。
 かなりの高齢で、何だか立ち姿が覚束ない。よろけでもして、うっかり触られでもすると台無しである。
 さりげなく近づくと、ふと目が合った。
 意外にも鋭い眼光。射すくめられたようになって、立ち尽くしていると、
「こら何かね?」と、問われた。
 大根で作った鶴が幾つも群れている皿である。
「はい? 剥き物ですが」
「こらまだ剥けとらん。切っとる。切るんちゃう、剥くんや」
 と、訳の分からない事を言われた。だが、真史の脳裏には、まるでブルース・リーに、
「考えるんじゃない、感じろ」と直に言われたような衝撃が走った。
 あの迫力は何だろうと思っていたが、式が始まってすぐの来賓挨拶で、
「新郎の師匠であらせられます、京都有職料理宗家、橘嘉門様よりお祝いの言葉を頂きます」と、紹介されたときには、腰が抜けるかと思った。
 意外にも挨拶自体はあっさりしたものだったが、その場にいた料理関係者の拍手は特に熱が籠もっていた。
 格式も伝統もある、日本料理界の最重鎮なのであった。
 挨拶の中で、源さんは最後の弟子だという話だった。
 何か師弟の確執もあった風であったが、それは大したことではないと老人は笑った。
 いろいろな経験の後、技は円熟し、新たな磨きがかかる。
 何もかもこれからだという、その言葉を、源さんを差し置いて真史は胸に刻んだ。
 やがて順次料理が供され、その終盤、ワゴンに乗せられた久埜のフルーツ盛りが各テーブルに運ばれてきた。
 色彩とその見栄えは一際華やかになっており、各テーブルから次々に歓声が湧いた。
 真史は見逃さなかった。
 橘老人が、目を見張って、
「こら驚いた! えろう出来とるわ!」と、叫んだのを。

 お色直しも終わって、新郎新婦席にあの食事会で集まったメンバーが集まってきた。
 すっかり大人びた礼服姿の昭と晴彦。
 振り袖姿の早紀が耕と一緒に来る。
 着慣れない豪華な振り袖を着て、久埜が現れた。
「ぎりぎりまで、果物切ってたんでしょ」涼子さんが笑って言った。
「最近、ご無沙汰だったもので、心ゆくまで切らせてもらいました」
 そこへ菜乃佳さんと真史も来て、
「あとは絢ちゃん?」
「お化粧直して来るって」
 すぐに奥の扉が開いて、大振り袖を着付けた絢が現れた。歩く姿そのものが煌びやかだ。
「うーん、まるで今日の本当の花嫁さんみたい」涼子さんが唸った。
 源さんは緊張が解けたのかニヤニヤしていたが、目の前にホールスタッフがまたワゴンを運んできたのを見て、
「え? 升酒?」と驚いたようだった。
「いつかうちで吟醸酒を美味しそうに飲んでいたでしょ? あの幸せそうな表情が忘れられなくて」
 それは、ガラス製の升に吟醸酒とフルーツをあしらったものだった。
「あの日の『絆』の皆で乾杯してみたいと思いました。あ、未成年の人はこっちのジュース入りですよ」
 手から手に、それは渡され、晴彦の音頭で、皆で口をつけた。
 源さんの表情は、あの日以上に幸せそうだったので、久埜は満足した。




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