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「ミレイユの右へ」18

第十八回 春巻き



 ……だが、そうは思ってみても、何しろまだ小学生なので家の手伝いくらいしか稼ぎ口などはありはしない。
 普段は当たり前のこととしてやっているし、それにこの間夜中に抜け出して迷惑を掛けているので、親に小遣いの増額も言い出しにくかった。
「まあ、何とかするから」
 耕や晴彦はそう言うが、シーズンオフとは言え元々野球に時間を取られていて、特にバイトで潤っているわけではない。なので、そんなに財布として頼りになるというわけではなかった。
 ずっと意識をしていると、どんどん卒業式が近づいてくるような気がした。
 日曜日、悩む以外にすることもないので店番に立っていると、戸口が開いて早紀が顔を出した。
「春巻き作ってみたんよ。店番中やろ? 持ってきた」
「わ、ありがとう」
 中華屋としては必修なのであろう。多分、試作品なのだろうが、カラリと二度揚げされたそれは商品としても大丈夫そうであった。
 小皿を持ってきて酢醤油を垂らし、辛子を少し付ける。
 口に含むと肉汁が溢れ出す。海老の風味もあり、皮と筍の食感が相まって歯応えが楽しい。
「んー、おいしい」
「そうかー」早紀は満足そうだった。
 店の中には常連の徳重さんがいて、ずっと新聞を読みながら静かに飲んでいたが、久埜達の様子を見て、
「皮がパリッとして、餡がトロリとしとるなあ。その加減が難しいんだ」と、珍しく口を挟んだ。
「餡は昨日作って一晩寝かせました」と、早紀。
「ちゃんと仕事しとるんだなあ。感心だ。食い物屋は手を抜いたら味が落ちるから難しいんだよな。……全く、その辺が怖ろしい」
 言葉の最後の辺りに妙に深刻味があったので、久埜は疑問に思った。
「でも、徳重さんは製鉄……」
 言いかけた途中で気がついた。
 徳重……? この辺りでは多い名字なので気に掛けなかったが、そう言えば連れ立ってくることもあるから、源さんの友人なのかもしれない。
「だ、誰か家族の中に飲食関係の方でも?」
「下の息子が男のくせに小さい時から料理が好きで、とうとう将来店を持ちたいなどと言い出してな」
「……ええ」
 ……やっぱり、そうか。
「料理の学校の入学手続きまでしてしまって、どうしたものかと思っている」
 あれっ? 板前修業の為に源さんを紹介したんじゃなかったの?
 それなら、応援をしているような気がしていたんだけど?
「だから、特別に厳しいところにしばらく使ってみてくれと頼んである。世間知らずがどこまで保つことか……」
 ……いやいや、あれはそれで根を上げるようなタマでは……。
「お、お父さん」
「お父さん?」
「いやいや、徳重のおじさん。春巻き一ついかがです?」
「いや、君達のおやつだろうそれは」
「どうぞどうぞ」と、何故か阿吽の呼吸で早紀。
「……なら、頂くか」
 徳重さんはそれを頬張ると「うん、ちゃんと旨い」と言い、咀嚼して酒で流し込んだ。

 徳重さんが帰った後、富美が買い物から戻って来て店番を代わった。
 せっかく解放されたのだが、特別することもなく、家の中でダラダラしているのも気が引けた。
 結局、早紀の提案で外に出ることになり、連れだって散歩することになった。
 これも「自分の為に使う時間」に「何をするのか」が決まっていないからだろうな、と少し自己嫌悪を覚えた。
 これが誰かさんだったら、何かの飾り切りの練習でも嬉々として始めるのに違いない。
「……何か、久埜元気ないなあ」
 早紀にそう言われたが、うまく説明できなかった。
「卒業式が終わったら、いつか話しとった食事会するんやろ?」
「うん」
 それも少し悩みの種なのだが、今その金策の件を話し合っても埒があかない気がした。
 ……やっぱり会費制? けれど、全額を等分に割り勘というのは、どうもしっくりこない。
 絢のお小遣いがあったが、そちらに重量を掛けるというのも何か違うのではないか。
 皆に心置きなく楽しんでもらうには、どうすればいいのか。
「卒業式が終わって、春になったら中学生かあ」早紀が言った。
「中学……」
 そうか、その先があるんだ。と、当たり前のことに気がつく。
 いっそ、先々を見込んで出世払いでどこかから借財するというのはどうか。
 だが、そんな借金の当てなどありはしないのだった。
「春かあ」久埜はそう言ってから、ふいに「春巻きならもう食べたな」と思った。
「……あれっ? そう言えば春巻きって、何で春巻きって言うんだっけ?」
「それはな」早紀はニヤリと笑った。
「春に食べるからや」
「うっそー」
「本当ちゃ。筍とか椎茸とか、春が旬の野菜が入っとろうもん」
 どうも本当らしい。
 ならば、一足先に自分には春がもう来ていたわけだ。そう思うと、久埜は少し愉快になった。
 気がつくと、「割烹 かまのと」の看板の前に来ていた。
 早紀のペースで歩いていたつもりだったのだが、どうもそうではなかったらしい。
「ここでやるんだよね?」
 思わず苦笑いをして、視線を移すと、絢の父親の源蔵が見知らぬ女性と連れだって、こちらへ歩いてくるのが早紀の肩越しに見えた。

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