「ミレイユの右へ」51
第五十一回 ミレイユ
文通は更に続いた。
お互いに使い捨てカメラを買って、折々の写真を送ったり、時には吃驚するような密画の手製絵葉書が届いたりして飽きることは無かった。
絹子さんの手紙にあった、絢が父親に会いに来るという話は、どうも何かの事情で延び延びになっているようだった。
それなら、会いに行かなければならないがと煩悶するうちに、受験時期に差し掛かったり、忙しい日々が続いて、気がつけば平成三年になっていた……。
久埜は地元の公立校に進学していた。普通科である。
大学進学を見据えて、偏差値の高い私学を目指そうかなともチラと考えたが、どうもそこまでの使命感を覚える職種がイメージできずに、モラトリアムをすることにした。
かと言って、猛勉強して滑り込んだ感覚だったので、分相応でこれで良かったという思いもあった。上出来の部類だと。
早紀は、所在場所は近いのだが別の商業高校へ進学した。近所付き合いは相変わらずなので、日常的にはあまり変化は無い。
部活は……これが実は、心を動かされて志望校にした理由の一つだったのだが、料理の出来る部活に入った。
「それが、料理部ではなくて、食物部だったんです」と、絢宛ての手紙にも書いた。
「しかも、この読みって、た・べ・も・の・部なのよ。信じられる? ダサくない?」
返信が来て、
「こちらの高校には『りんご科』っていうミラクルなネーミングがあるので、あんまり違和感覚えません」とのことだった。
りんご科? それは凄いと思ったが、まあ、食べる方ではなくて、りんごの木の栽培等を勉強するんだろうとは、さすがに察した。
真史は、最初大阪辺りの料亭に修行に行くつもりだったようなのだが、あのステーション・ワゴンのローン代を稼ぐために「かまのと」で働き始め、結局今でも勤めていた。
剥きものにかける情熱は不動のようで、最近では砥石に凝りだしたらしく、久埜にも熱心に勧めて自分のコレクションから何個かくれた。
おかげで食物部の包丁全部が異様に切れ味が上がって、結果料理がおいしくなった。
この年の夏休みを利用して、いよいよ絢が九州に帰ってくることがほぼ本決まりになっていた。
だが、父親の都合が悪くなったとのことで、また急に見送られてしまった。
「どうも、事業の方がうまくいかなくなっているみたいです」と、手紙にあった。
福岡市に不動産関係の事務所を持っていたようだったのだが、それが熊本市に変わったりしているらしい。
「詳しいことは、もう分からない」とのことだった。
九月の十六日、月曜日の夜。
久埜は、茶の間で父母とニュース番組を見ていた。
市井のレポートで、ブラウン管には東京の芝浦にあるという、巨大ディスコでの狂乱ぶりが映し出されている。
お立ち台の上で大勢の女性が、羽根付きの扇を振りかざし、極限まで切り詰めたようなボディコン姿で踊りまくっていた。
「何だこりゃ、ほとんど下着じゃねえか」
文太が驚いたように言った。
「これがバブルっていうもの?」富美も煎餅を咥えたまま、さすがに目を見張った。
「いや、これがペチコートって奴か?」
「バブルっていうのは目に見えないし、ペチコートはもっとフリフリしてるよ」
久埜は適当に解説した。昔ならすかさず突っ込みを入れてくる上の兄達二人は独立してしまい、耕は熊本の寮にいたが、格段に家の中に活気は無くなった。
ふと寂しく思ったその時、電話が鳴った。
テレビに食いついている二人を横目で見て、店の方へ行き電話を取った。
「はい。池尻です」
彼方で、息を飲むような気配がした。
「……もしもし?」
「……久埜?」
「あ、絢?」
「……久しぶり」
「……久しぶり」
何でだろう、ただ会話を交わす……これだけのために二年近くがかかっている。だが、あれからいろいろ考えて、久埜は自分からは電話を掛けないことにしていた。
「あのね」
「うん」
「急に決まったんだけど……この週末に父と会うの」
「え? 本当?」
「うん。だから、そちらにも寄るね。父が車で送ってくれるから」
「……絶対来てね」
「うん、絶対行くから」
名残を惜しむような沈黙が続いて、どちらともなく電話を切った。
何だか夢心地というのか、会話を反芻しながら茶の間に戻ると、テレビは気象解説に変わっていた。
「今年は台風の当たり年ですね」というキャスターの声が乾いた調子で耳に入ってきた。
「直近でも十四号が静岡県、そして十七号が長崎市に被害を与えたばかりですね」
「こっちも結構、風が酷かったな」と文太。
つい二日前に十七号は長崎市を通過し、北九州市も掠めて日本海に抜けていったばかりだった。
解説委員らしき人が話を継いだ。
「本日九時に、マーシャル諸島の東の海上にあった熱帯低気圧が発達し、台風十九号になりました」
「また来るのかよ」
画面に台風のデータが書かれたフリップが映し出された。
隅の方に、解説はされなかったが「国際名/Mireille」と書かれていた。
久埜は台風にも名前があるんだと面白く思った。
「ミレイユ?」
「まあ、昔はジェーン台風なんてあったからな。今でも名前があるんだな」
正確には英語読みで「ミレーレ」であったが……この台風は「ミレイユ」として、久埜の心に生涯残ることになる。
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