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「ミレイユの右へ」46

第四十六回 二人だけのセレモニー



 案内板に沿って歩いて行くと、足元はごつごつとした岩場になり、簡単な脱衣所があった。
 学校の水泳の授業の時などに、散々一緒に着替えをしていたので今更恥ずかしいということもないのだが、ずっと素っ裸というのは思いの外抵抗がある。
 しかし、何だか馬鹿馬鹿しくなって、さっさと浴衣を脱ぐとタオルを引っ掴んで久埜は風呂の方に向かった。
 少し寒いくらいだったが、外気が肌に心地良い。周囲は厚い木立で、視界は隔絶されていた。
 湯気の向こうに何人か女性客がいるようだったが、気にはならなかった。
 置いてあった手桶で体を洗い、湯に浸かる。
「あー」
 間延びした喘ぎ声みたいなものが、腹の底から湧き上がってきた。
 他の二人も次々浸かり、妙な唸り声を上げている。
「これは……凄く気持ちいい」
「ほんとねえ」
 木組みで瓦の乗った屋根が湯船の半分くらいを覆っていて、その柱に打ち付けられた板に温泉の成分表示がしてあった。
「弱酸性単純泉?」
「刺激の少ない初心者向けね」と、絢。
 どうやら、絹子さんからの受け売りのようだ。
「これが弱アルカリ単純泉だと角質を落とす効果があってお肌にいいんだって。『美人の湯』と言われているそうよ」
「あっ、それ早く言ってよ」早紀が反応した。
「絶対そっちを選んだのに」
「でもあと二回は入るでしょ……」

 結構長湯をしてしまって体が火照る。帰り道には額から汗が流れた。
 時間は五時近くとなり、お腹も減ってくる。
「晩ご飯は……」
「六時だったね」
「食べたらまた温泉ね」
「暗くなると風情が増すよね」
 宿に帰ると、絹子さんとやはりどこかで長湯してきたらしく脂の抜けた感じの真史が待っていて、頃合いを見て一緒に広間に行った。
 浴衣姿の真史は、あまり着付けないせいか何だかだらしのない遊び人風に見えて、三人から散々からかわれた。
 他の温泉客も楽しそうに談笑する中、手の込んだ料理を食べ、今までの思い出話に花が咲いた。
 やがて一旦皆部屋に戻って一息ついた頃、八時前に絹子さんが部屋に来た。
 久埜達は次の温泉の候補に、夜の雰囲気が良いと聞き込んだ炭酸水素泉と、例の「美人の湯」で決着が付いていなかったのだが、絹子さんが後者に行くと聞くと、
「あ、あたし一緒に行きます」と、早紀が片手を上げて宣言した。
「え、じゃあ……」久埜が追随しようとすると、
「絢は『美人の湯』は必要ないでしょ。炭酸ナントカに二人で行ったらいいよ」と、早紀は何だか意地の悪いことを言って立ち上がった。
 絹子さんは苦笑しながら、そのまま出て行き、早紀が後を追いかけた。
 置いていかれた形の久埜は首を捻った。
 早紀の奴、何であんなわざとらしいことを……。
 しかし、これで約束通りに絢と二人きりの時間が作れるわけでもあった。

 その露天風呂は、結構宿から離れていた。
 狭い一本道をすれ違う温泉客は何組かいたが、振り向いても後ろからは誰も来ていない。
 絢は横を一緒に歩いていたが、何だか口数が少なかった。
「私、手形を見せてくるね」
 絢が二人分の受付を済ませて、前回のように中に入った。
「へえ……」
 ここも岩風呂だったが、そこここに小灯籠が配置されていて、橙色の明かりが仄かに湯船を照らしていた。
 二人の他には誰もいないようだ。
「何だか幻想的」
「幻想……」
 久埜が湯に浸かると、すぐに入ってきた絢が隣で何故か反復した。
「この時間も、いずれ過ぎ去って幻想になるのかしらね」
 何だかネガティブな感じのする物言いだ。
「そんなことないよ」
「だといいんだけど」
 しばし、首まで浸かり、暑くなって湯船の真ん中にある平たい岩の上に腰掛けた。長く湯で洗われた岩は、すべすべとして心地良い。
 ふと、夜風に誘われて星空を見上げたとき、背中に絢の指を感じた。
「やだ、くすぐっ……」
 電撃のように、あのフレーズが舞い降りてきた。
 ……ねえ……言えない言葉、あなたの背に書いてもいい?
「えっ?」
 指はゆっくりと動き、ただただ単純な平仮名二個を描いた。
 …………す………………き
「えっ?」
 振り向くと、絢は湯の中に頭まで浸かっていた。
 そして、泳ぐようにして移動すると水飛沫を上げて、湯から上半身を出した。
「な、何なの今の?」
 冗談よ、と言うだろうと思っていたが、
「それだけをずっと言いたかったの。言っちゃったらお終いな気がして言えなかったんだけど、これでお別れだし、言わなきゃ言わなきゃって……」
「……絢」
「ごめんね。この事も私の事も忘れてね。こんなの迷惑でしかないのは分かっているんだけど。どうしようもないのよ……」
 暗闇の中、半身を灯籠の明かりに照らされて、さめざめと絢は泣いた。
 久埜は、これだけ一緒にいて実はその少女の半分も理解できていなかったのではないかと思い、悔し涙なのか何なのか、自分でもよく分からない涙を流した。






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