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「ミレイユの右へ」23

第二十三回 ライムと少女漫画




 月が変わり、入学式を迎えた。真新しい制服を着て心機一転した気分だったが、皆地元の中学校にそのまま進んだので、お別れをするような友人はまだいない。
 なので、思ったより大きな節目だという感じは薄かった。
 ただ、早紀は好きなバレーボールを本格的にやるんだと意気込んでいて、既に知り合いになっていた先輩達とも仲良くなっている。
 腕の振りが早く、ジャンプ力もあるので以前から目を付けられていたらしい。
 じわりと、それぞれが道を分岐して、それぞれの何かを目指しているような気配はあった。
 久埜はと言えば、ペティナイフを買った日からずっと、何かに取り憑かれたようにして目についた食材を切り刻む日々を送っていた。
 自動的に毎日の料理を手伝うことになるので富美は最初喜んでいたが、久埜が店番をしていても暇があれば自分で買ってきた大根で桂剥きの練習を始めるので、だんだん気味が悪くなってきたようだった。
「どうしちゃったんだい?」と真顔で訊いてみたが、
「自分でも分からない……」との答えだった。
 実際、久埜本人にしてみても殊更な理由はないのだった。食材ごとの包丁使いのコツが一旦掴めると、ただ闇雲にその先をやってみたくて堪らなくなるだけなのだった。
 もしかしたら真史と同じ心理なのかもしれないと思ってみたりもしたが、しかし真史には一人前の料理人になるという確とした目標があるのに対して、久埜の心中には別にそういう道に進もうなどという気持ちは湧いてこないのだった。
 ただ、今までに感じたことのないような手作業での単純な面白味が持続していた。
 富美にしてみれば、すっかり真史に影響されて、調理とか、日本料理とかのそちらの世界へ気持ちが誘われているんだろうと思い込んでいた。
 まあ、実際悪いことではないので咎める筋合いではない。
 他の家族もそう思っていた。
 だが実は、久埜の関心の方向性は、和食の領域へは向かっていなかった。
 包丁使いに入れ込んだそもそもの切っ掛けは、無論りんごの皮剥きが出来ないことが引っ掛かっていたことだったのだが、第二の切っ掛けは、たまたまテレビで見た外国映画の一シーンだった。
 脇役のバーテンダーがカクテルを作る短いカットなのだが、ライムの皮を小さなナイフでくるくると切って、螺旋状の飾りを作り、それをグラスに取り付ける。
 具体的にどう切ってどうグラスに装着したのかは、さっぱり分からなかった。が、「ああ、こういう世界もあるんだな」と妙に新しいものを感じてしまった。
 日が経つうちにだんだんと分かってきていたのだが、久埜は野菜よりもりんごや他のフルーツを切る方に心が浮き立つのである。
 例の飾り切りの世界にも依然惹かれるものがあったが、こちらも、より意外な感があって面白そうだ。
 そう思って図書館に行って調べたりもした。テレビで見たのは、カクテルデコレーションと言うものだとは分かったが、さっぱり肝心の文献がない。
 お酒としてのカクテルの作り方についての本は多いのだが、その飾りについての文章は何故かどの本もおざなりなのだった。
 ただ、類書としてフルーツの盛りつけ方の本があったので、折角なのでそれを借りてきた。
 ライムの切り方も載っていた。が、こちらはお皿へ盛るのが前提なので知りたいものとはやや違っている。
 櫛形に切ったライムを、更に斜め切りにする木の葉ライム。薄切りにしたものに切れ目を入れて花弁様に見せるもの。皮目を使った細工も、少しだが載っていた。
 貪るようにして読んで、自身で出した結論は「これの応用で出来るんじゃないだろうか?」というものだった。

 その日は学校の帰りに何軒かスーパーを巡って、ライムを探すつもりだった。
 レモンなら大抵どこの店にでもあるのだが、ライムは需要がないのか、なかなか目につかない。
 商店街の知り合いの八百屋さんに頼めば確実に手に入るのだが、ほんの何個かでいいので、そんな少量をわざわざ仕入れてもらうのは気が引けた。
 英文法だったが、その日の最後の授業が終わり、帰り支度を皆が始める。
 各学年五組まであるのに、当然のように絢と早紀は同じクラスになっていた。
 絢は、予想通りセーラー服の立ち姿が決まっていて、相変わらず物凄く目立つ。共学なので、いろいろ男子がうるさかった。
 その絢が、男どもの視線を引き摺りながら一番後ろの席の久埜のところにやって来て、
「部活決めた? もう締め切りだよ」と、言った。何だか、お小言風である。
「え、そうだっけ?」
「……最近ボーッとしてない? やりたいことないの?」
「料理部……は、ない……よねえ」
「私立のどこかにはあるって聞いたけど、もう手遅れね」
「料理部目当てに私立行く人なんて」
「いるんじゃないの? 料理コンクールだってあるんだし」
「……そうなんだ」
 何だか、やっぱり相当出遅れているんじゃないか、と思って久埜はがっかりした。
「体育系行くの?」
「いや、それはないない」
 自慢ではないが、運動は苦手だった。
「決められないのなら……」絢は急にニコリとして、
「私と一緒に美術部に入ろうか」
「美術部? あの、顎が立派なギリシャ彫刻とかの素描とかやらされる……」
「マルクス・ウィプサニウス・アグリッパはローマ帝国の軍人です」
 憤然としてそう言うと、急に声を潜めて、
「実は顧問の先生が少女漫画にとても理解のある人でね……」
「え?」
「今や実質漫画部と化しているという……さる筋からの情報が」
 本当なのか? 話半分ではないのか?
「相当な数の蔵書もあるという……」
 それは素敵だ。
「……いや、でも、私、絵なんて描けないし」
「でも、ベタくらいなら塗れるでしょ?」
「え?」
「私、今、漫画描いてるんだ」




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