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「そう、キャベツ」

 青果担当の藤岡は酷くむくんだ顔で、私に問いかけた。

「誰が陳列したの」
「そういわれても、昨日は覚えてないですし」

 私はつけていたスーパー支給のエプロンの端をいじりながら、藤岡から視線を外して調味料の棚の一番下の棚に大きなソースのボトルを置いていく。

 そっと置いているつもりだが、2Lもある大きなボトルだから薄っぺらい金属の棚板が嫌がってガツンガツンと声を上げてしまう。

 その棚の声に藤岡はますますいらだったようで、腕組みをしたり、腰に手をやったりとせわしない様子だった。

「底の方にあるキャベツが当たり腐りしてんの。誰かが投げて陳列したにちがいない」
 藤岡はかがんで、やれやれといった顔で私の顔を覗き込んでくる。
「ちょっと、裏行こうよ」

 全くの見当違いだ。
 藤岡の性格や普段の態度など知ったことではないが、冷静さをかいている女の話など聞くには及ばない。

「そんなの、見てませんから。私、食料品の棚の担当なので。青果の方は知りません」
「嘘、袋補充してたじゃない」
「それはこちらの担当ですよ」

 袋の補充は元から食料品の担当だ。
 袋はパートが持ち帰ってしまうため、担当箇所が食料品に固定されている。この店の治安はさほど良くない、ということならこのあたりに住んでいる人間であれば気が付くはずだ。
 ここで働く人間のほとんども商品の扱い自体が手荒なのだ。
 藤岡の物言いからその系統だろうというのは容易に察しがついた。
 売り場責任者から何かを言われたのだろうか、私のほうに責任を押し付けてくるのは筋違いだ。

「いいから、こっち来なさいよ」

 藤岡は私の肩を持って、強く引っ張ってきた。もう我慢はならなかった。
 私は手に取っていたケチャップを箱に戻すと、彼女の手をものともせず立ち上がった。
 言い返してやろうとすごんだ。
 藤岡と目があった。
 顔面蒼白だった。
 一瞬、目から涙が流れているのかと思ったが、額から滝のように落ちてくる汗だった。

 思ってもいない様子に、言葉が出ずに、短く、あ、と声を漏らした。
 藤岡はぬっと震える手を出して、私の口に手を置いた。

 少し様子がおかしい。
 藤岡をそのまま凝視し続けたが、藤岡も自分を見返し――いや、焦点は自分に合っていない。両目の瞳は私の後ろの方に焦点を合わせていた。
 後ろでなにか起こっているのだろうか。
 今思えば、客が少ない時間帯とはいえ、人の気配を感じないが、いや、耳を澄ませば、何かずるずると引きずる音が聞こえてくる。
 最初はビニール袋だろうかと思ったが、もっと重量のある柔らかいものだと判断した。かといって、酷く重たいものではない。
それにぴちゃぴちゃという水を含んだ音と一緒に、スィースィーという小さな金物がリノリウムのようななめらかな床を擦る音も聞こえてくる。
 なめらかな床……?
 私は店内の床を思い出してみようと、足元を見る。床はざらざらしていた。あの音はどうやって出しているのだろうか。
 店内の安っぽい音源のジェネリックなBGMがうすら寒く聞こえてきた。
「あ、トマト」
 藤岡が聞こえるか聞こえないか分からない声量でささやいた。
 私の背後で一体何が起こっているのだろうか。
 硬直しきった私に藤岡はちらりと店の奥のほうに視線を動かして、バックヤードまでの扉を暗に示す。そこまできて私は藤岡のことをすっかりと勘違いしていることに気が付いた。藤岡はエプロンを身に着けず、慌ててバックヤードから出てきたらしかった。

 藤岡は息を漏らすまいと口を真一文字に結んだまま、私の後ろの状況を探っていた。
 そして、よし、と唇を動かした。

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