フジツボ

フジツボ(藤壺、富士壺[注 1])は富士山状の石灰質の殻をもつ固着動物である。大きさは数ミリメートルから数センチメートル。甲殻類、フジツボ亜目に分類される。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 外の天気は昼間の浴室のように中途半端に乾ききらない曇りで道行く人の気分は少なからず湿度に影響を受けたが、自室に引きこもって友人を殺すことを計画している岸壁には気候は何の影響ももたらさなかった。
 誰にも罪を問われない殺人の方法は、それが明るみに出ないことに価値があるので探し当てようとして見つけ出すことは不可能に近いが、岸壁は偶然にもそれを知ることができた。

  岸壁は地方大学の図書館で司書をして生計を立てている。彼の勤める大学は全国の大学の中でも教授数はかなり少ないが、それに対して生徒数は少なくはない。その大半が付属高校からエスカレーター式に進学しており、生徒が図書館を利用するのは卒論や期末のレポートを書くときばかりであった。そのため、司書と限られた教授しか入れない地下の書物庫に大げさに保管された古い書物の多くが埃をかぶっている様子は価値のわかるものが見たら失神しそうだと岸壁は常々おもっていた。
 岸壁はそれほど教養があるわけではないが、父親が大学で教授をしており、幼いころから古文書について教え込まれていたため、日本のものであればある程度書かれた内容を理解することができた。
 書物庫に案内や管理の目的で入ったときに書物の中身をある程度見たことはあるが岸壁は歴史に関心がないので特に興味を示さなかった。

 五年前の年末ごろ、保存状態の届を出すために報告書をまとめる仕事をしていると、現代の言葉だと「業」という意味のタイトルの本が目にとまった。それは神社の神主の記録帳のようなものらしかった。
 これまで何度もこの棚の書物を確認したことはあるし目も通したはずだが、岸壁は小学校に入って初めて配られた教科書のようにその記録帳に強く惹きつけられ、機会があれば業務に支障を来さない範囲でそれを盗み見た。
 記録帳には主に、神主が知りうる当時の人間が内密にしている悪行のようなものが書き連ねられていた。岸壁は嫌いな知り合いの陰口を聞くような心持でそれらを眺め、ほぼ全ての内容を滞りなく理解することができたが唯一「藤岬のこと」とだけ書かれた部分は何を意味しているのか見当もつかなかった。

 それから三年が経って、岸壁の従兄が事故で足を滑らせて高所から海に転落し、死亡した。一人を除いて友達がいない岸壁にとって、年に一度親戚に連れられて家を訪れる従兄は唯一同年代の人たちの社会との接点であり、岸壁が普段の生活で得られないような娯楽や情報を与えてくれるので両親も含めて岸壁は親族の中で一番従兄と過ごすことが好きだった。
 従兄は、彼の会社の上司とドライブしており、タバコを吸おうと車から降りて休憩しているときに岬から海に転落死した。入念な捜査がなされたが、岬から道路を挟んで向かいにある老夫婦の家に備え付けてあった監視カメラに彼が足を滑らせる様子が写っていたため、事故として処理された。死体の回収は難しく、親戚は不幸なことだと嘆くばかりであったが、岸壁はそれ以上に背骨が氷柱にとってかわられたような大きなショックを受けていた。従兄が転落した岬の名前は「藤岬」だった。

 従兄の死から二年後、岸壁は思うところがあってひとりで従兄が死亡した藤岬を訪れた。藤岬にたどり着くまでにいくつかの分かれ道があったが、すべての分岐において藤岬に向かう方向はより入り組んでおり、魅力に乏しく、注意をひかず、気分を落ち込ませ、その道を選ぶことは藤岬以外のどこを目指すにしても遠回りになってしまうので従兄がどうしてそんな場所を訪れたのか疑問に思った。そこは、おとなしい野生の獣が人里に降りてこないように、動物が本能的に黄色と黒の縞模様を警戒して避けるように、人を寄せ付けないものを持っており意図的にしろ無意識にしろドライブで訪れるなんてことは考えられない場所だった。
 藤岬はそんな道をしばらく進んだ先にあり、車をやっと四台ほど停められるような狭い空き地が海にせり出しているような場所だった。
岸壁はその角に車を停めると、特に何も考えず海側に雑に張られたロープの方に歩を進めた。従兄が足を滑らせたことをふと思い出し注意深く足元を見ると、一寸先の地面の隙間からチロチロと水が出ており藻や水草のようなものがびっしりと生えていた。
 岸壁は息が止まりそうになった。藻が生えている地面にそっと靴を乗せてみると驚くほど摩擦係数が低く、あと1歩足元を確認するのが遅かったら命を落としていたことは明白だった。
 岸壁は、自分はこの箇所に、偶然が産んだ天然の罠に自分が吸い寄せられたことに気づいた。その岬から見える水平線、波の音、岬の形、地面の歩き心地まで全てがスズメバチが黒い物にひき付けられるように、猫が誰に指示されるでもなく橋の下に住み着くように、目線や足を踏み出す先を誘導して人間を力強く岬の地面に潜む地雷へと引き寄せる力があることを悟った。試しに別の場所に立って水平線へ目を向けると、ほかのどの地点から見ても焦点があっていない人と話しているような気持ち悪い違和感をおぼえた。
岸壁は大学の地下にある書物庫で見た記録帳に「藤岬について」と書かれていたことを思い出した。
 どれほど昔に遡るかは正確には分からないが、その記録が書かれた時からこの地形は変わっておらず、人が寄り付かないこの岬は、都合の悪い人間をこの世から居なくするための装置として一部の人間に使われ続けてきたのではないかという仮説が岸壁の頭に浮かんだ。考えればこんな不便な場所に老夫婦が住んでいて監視カメラが都合よくこの岬を写しているというのも都合のいい話だ。おそらく老夫婦は証人としての役割を持っており、警察や司法関係者の中にもこの岬の事情を知り上手く事を運ぶ役割の人が居るのだろう。
 岸壁は、この岬を利用して幼い頃からの知り合いである不二窪という男を殺害することにした。


 不二窪というのは、小学校からの岸壁の同級生である。不二窪は知的障害と自閉的傾向を持っており満足に意思疎通をすることも難しく、誰とも口を利かなかったが何故か岸壁に付き纏うようになった。不二窪の顔には生まれた時から、硬質化して黒ずんだ数ミリから1.5センチほどのできものが無数にあり、顔の大きさが成長してもできものの大きさは変わらないので不二窪の顔は歪にできものに引っ張られ、口角は不自然に下がり、目尻もいやらしく上に引き上げられていた。その顔は見ていて気分がいいものではなく、できものの形がフジツボによく似ていたため、同級生は気味悪がって不二窪のことをフジツボと呼んで避けた。
  岸壁は集合体恐怖症であり誰よりも不二窪が恐ろしかったが、それを知ってか知らずか不二窪が岸壁に着いてくるので岸壁は嫌でもその顔を目に入れなければならなかった。
 不二窪はどれだけ振り払っても岸壁と一緒に行動したがるので、次第に同級生や先生、親からも岸壁は不二窪の面倒を見ているというように勝手に解釈するようになった。岸壁がほかの同級生と遊ぼうとすると不二窪も着いてくるので、岸壁は一度も他の同級生と遊んだことはなかった。そのことがあまりに苦しかったので岸壁は何度か不二窪を拒絶したことがあったが、その都度親や教師に
「突然そんなふうにはねつけたら不二窪くんが可哀想でしょう、不二窪くんは君のことを頼りにしてるんだからそれに応えてあげなさい」
と怒られた。自分の思いを説明しようとも試みたが小学生の荒い語彙の網ではうまく感情を掬いとることが出来ず、だれにも理解して貰えなかったため岸壁は誰かに救ってもらうことを諦めた。
 他に友人がいるわけでもなく、運動や勉強が特にできるということもない岸壁が周りに褒められることといえば、いつもみんなが避けようとする不二窪の面倒を見てあげていて優しい。ということだけだった。まだ自我が確立されていない少年期において他人から認められるということは何よりも意味を持つことで、岸壁はそれに縋ることでしか地獄のような日々を慰めることは出来なかった。不二窪は自分から何かを話したり積極的に行動を起こすというわけではなかったが、岸壁が欲しいと感じるものや愛着を持っているものに興味を示してそれを持って帰ったり隠したりした。

 小学5年生の時、岸壁は同じクラスの内海という女子に、特に彼女の腕の薄く桃色がかった色に思いを寄せていた、しかし同級生の中で目立つわけでもなくむしろうっすらと嫌悪されている岸壁はその思いを公にするでもなくできるだけ誰からも悟られないように隠した。しかし、不二窪は岸壁が彼女に思いを寄せていることが分かるかのように彼女のほうをじっと見つめるようになり、そのとき顎のほうに引っ張られた口角はほほの筋肉で普段より引き上げられて上下の唇の接線は人間にはあり得ない歪な曲線を描いた。そうすることができないのかそうしないのかは定かではないが、不二窪自身から欲望が生まれるということはなく、不二窪は岸壁が欲望するものを感じて、その対象に強く欲望する性質があった。
 移動教室の時、岸壁は普段と変わらない通りに不二窪に付きまとわれながら体育服で体育館に移動していると前方から女子更衣室で着替えを済ませてきたと思われる内海とその友人が歩いてきた。内海は不二窪がいるのを見て無意識にこちらから目をそらした。岸壁は半そでの体育服からのびる彼女の腕に強く感動して視線を取られたがすぐに目を逸らした。すると、不二窪は重心を引きずるような走り方をしながら内海に飛び掛かって、内海の手を彼女の体に押さえつけて固定し、陰茎を内海の腕にこすりつけだした。これまで不二窪は人に乱暴したことがなかったが、不二窪の力は女子小学生はおろか鍛えていない男子高校生くらいなら容易に押さえつけられるほど強く、内海は壊れた火災報知器のように叫びながら全身で抵抗したが不二窪を振り払うことはできなかった。その光景は岸壁の脳裏にずっと離れないものになっているが、特に不二窪の陰茎が特に強烈に印象に残った。
 フジツボという生き物は隣接する個体と交尾を行って繁殖する生物であるが、岩壁に貼り付いてほとんど移動しない代わりに離れた個体まで届く鞭状の長い雄性生殖器を伸ばして交尾を行う。その長さは自身の体長の約4倍であり、体長と生殖器の長さの比は生物のなかで最も大きいとされる。
 不二窪は小柄ではあったが、彼の陰茎の長さは一番大きいサイズのペットボトルと変わらず、硬くなった状態でも鞭のようにしなっていた。誰もその光景が恐ろしくて止めることができず、不二窪は地面に射精した。
 それから内海は精神的なショックを受けて学校に通わなくなり、不二窪は支援学校に転校させられた。岸壁は不二窪から解放されたがこれまでに人と関わるすべを身につけておらず、自らに誇りとするものがなにひとつなかったため成人するまでほとんど人と関係を持つことができなかった。

 それから岸壁はいまの大学図書館の司書の仕事についた。年を重ねるごとに少しずつ人と関わる努力を重ねて仕事仲間と世間話をするくらいのことはできるようになっていた。岸壁が書庫で神社の記録帳を読んでから一年が経っていた。岸壁は二個下の仕事仲間である氷川が自分に思いを向けているのではないかと思うようになった。
     はじめは随分自分の方を見ているなと思うくらいであった。氷川は自分から岸壁に話しかけたりするような事は特になかったが、積極的に岸壁と同じ業務をしようとしたり、岸壁が遅くまで残っている時は決まって理由をつけて帰らなかったりするなど岸壁に思いを寄せているということは他の仕事仲間から見て本人が思っている以上に明白だった。
 岸壁はこれまでの生涯において異性から好意をむけられるという経験がなかったため、どのようにふるまえばいいかわからなかった。      岸壁は一人でいるときも氷川に対してどのようにふるまうのが適切か、彼女は何を考えているのかなどと氷川が自分に思いを寄せていることは岸壁の脳内で大きな議題になった。特定の他人のことを長時間考えている理由は最終的に脳内で好意として解釈されることが多く、岸壁の場合も彼女が自分に向けているであろうと推察した感情は最終的に自分のものになっていた。
 岸壁はこれまで自分から距離を詰めたいと思う相手に積極的に話しかけたりすることはなかったが、学生が少ない梅雨時の大学図書館のじめっとしたカウンターで、ガラスを割ったことを親に正直に告げる少年のような心持で彼女を夕食に誘った。そこからは流れるように三年の交際を経て、氷川はゆっくりとこれまでの人生になにも大切な、誇れる、美しいものがなかった岸壁にとって唯一の心を眠らせることのできる場所になっていった。岸壁は氷川に求婚し、氷川はそれを承諾した。

 それから岸壁は初めて眼鏡をかけた極度の近視の中学生のように見違えて自分の周りの自分を幸福にさせるものに気づけるようになった。未成年の時に彼を大きく抑圧した不二窪の影響は完全に姿を消し、岸壁はようやく自分の人生と向き合うことができた。
   実家には両親がいるのでこれまでは岸壁が氷川の一人暮らしの家を訪れることが常であったが、大学から近いことや、金銭的な事情から準備ができ次第氷川は岸壁の家に越してくることになった。岸壁は氷川と一緒にホームセンターでささやかな花をつけたノースポールを選んで彼の自宅の庭に植えた。岸壁はこれからの人生を想像しながら、ランドセルを眺める入学準備中の子供のようにその花を愛でた。しかし、一週間もたたないうちにその花は荒らされてしまった。庭で物音がすることに気が付いて見に行くと重心を引きずるような走り方で庭から出ていく不二窪がいた。
 どういうわけか不二窪が遠くからこちらを眺めていることが増えた。追いかけて問い詰めようとすると不格好な走り方で視界から消えて見失ってしまった。不二窪の顔は小学校の時より成長していたため、まえよりも顔面のパーツは大きく歪にフジツボのようなできものに引っ張られていた。庭の花を荒らしていたことから、不二窪の性質はいまだに変わっていないかむしろ悪質になったかどちらかであるとしか考えられなかった。不二窪は今まで出会ったものの中で何よりも氷川に大きな愛着、愛情、欲望を持っていたので不二窪が氷川を見かけたら不二窪は氷川を内海のような目に、あるいはもっとひどい目に合わせるかもわからない。これから氷川とすごすこの場所に不二窪を放っておくわけにはいかないので、岸壁は不二窪を殺すことにした。


 岸壁は不二窪が出没することが多い午後五時過ぎに、タクシーに乗って家の周辺を巡回した。彼は車を持っておらず、両親を巻き込みたいとも思わなかった。不二窪を見かけると岸壁は「彼を拾ってください」と言って不二窪を指さした。遠くから眺めている不二窪も車の速度から逃げ切ることはできないと思ったのか特に逃げるようなことはしなかった。不二窪に近づいて彼の顔を見た運転手は露骨に怪訝そうな顔をしたが、すぐに感情を押し込めてドアを開いた。不二窪はドアが開けられても20秒ほど動かなかったが、岸壁が「乗れよ」というと表情を変えることもなく不二窪は車内に乗り込んできた。
 不二窪は小柄だったが、彼が乗り込んできた後の車内は、一刻も早くこの場を離れたくなるような圧があった。不二窪の顔にできたフジツボが彼の顔の皮膚を引っ張っているように、彼の周りの空間が彼に引っ張る力を受けていることを岸壁も運転手も感じていた。実際には引力など働いておらず、岸壁も運転手も可能な限り岸壁から距離をとっているのだが、どれだけ距離をとってもあまりに近すぎると感じさせる嫌悪感が2人に不二窪への引力を感じさせている原因だった。岸壁は戻しそうになるのを堪えながら運転手に藤岬までの道筋を指示した。藤岬、と言っても運転手でさえその土地を訪れることはほぼありえないような場所にあり知っている可能性は低かったためそうせざるを得なかった。藤岬の人を寄せつけない斥力と不二窪の引力とで車内の空間は歪んだように感じて岸壁は気がおかしくなりそうだった。
  藤岬に差しかかると、岸壁は「少しタバコを吸いに外に出ても構いませんか」と運転手に尋ねて車を止めてもらった。不二窪が降りないと話にならないので、近づきたくない気持ちを抑えて不二窪を押し出すように自分と反対側の窓から降りた。
   2人が完全に降りると、運転手は熱いやかんに触れて手を引っこめるような速さで扉を閉じ、しっぽを踏まれた猫のような速さでその場から離れた。
   あとは不二窪が藻や水草の生えたポイントを踏むのを待つばかりであったが、不二窪は降りた場所から動こうとしなかった。不二窪の顔を見ると、口角は顎に触れようとする程強く下に引っ張られ、上に釣り上げられた目は力の限り大きく見開かれていた。フジツボの引力を差し引いて逆算した時、その表情は恐怖を示していた。
岸壁は藻が生えた地点のすぐ隣に立って不二窪が来るのをタバコを吸いながら待った。記憶の中の不二窪は水や海が怖いということは特になかったのでなぜ脅えているのか分からなかったが、不二窪が普通の人間と違う感覚を持っており、この岬が人を殺すためにあるということを本能で感じ取って恐れているのであれば不二窪を殺す計画は失敗に終わってしまう。事故死として処理するためには不二窪に自分の意思で藻を踏ませなければならない。まだタバコは半分も減っていなかったが不二窪を待つ時間は水の中で溺れている時のように実際より長く感じられた。
 不二窪の顔を見ると、先程見開かれていた目が細くなった代わりに額の中央まで届くかと思われるほど大きく目じりが引き上げられていた。フジツボの引力を差し引いて逆算した時、その表情は怒りだった。不二窪は岸壁の方へゆっくりと歩を進めた。藻を踏む手前で不二窪は岸壁を体の割に太い腕で強く海の方へ突き飛ばした。警戒して体を強ばらせていた事が災いして柔軟さを失った岸壁の体はそれに抗うことが出来ずロープをすり抜けて空中に放り出された。海へ落ちていく短い時間の間に、岸壁は岩に無数のフジツボが張り付いているのが見えた。不二窪の顔にフジツボのような出来物があることや、不二窪がこの岬を警戒していたことは、不二窪が前世でこの岬で殺されたか、あるいはこの岬での殺人に加担し、殺されたものの恨みをかったことが原因なのかもしれないと岸壁は推測した


   海の底には回収し損ねた死体やその骨が沈んでおり、その表面にはフジツボが張り付いていた。藻や苔の混ざった塩辛い海水が気管に流れ込み、冷静さを失った岸壁にはそれらが不二窪と瓜二つに思われ、海の底で無数の不二窪が岸壁を待ち構えているように見えた。

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