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君は何を恐れているのか?

ある天気のいい日のこと。
このまま家にいてもつまらない、どこかへ行ってしまいたい。
その時、ふと思い浮かんだのが、成田山新勝寺だった。

いきなり寺に思い至るのは珍しいかもしれない。

その時の私は、なんというか、行き詰まりを感じていたのだ。

コロナ禍で仕事にありつけたは良いが、本当は別のことがしたい。
だが辞める踏ん切りもつかない。後が怖い。

安易な考えではあるが、山奥の寺に行けば、何かわかるような気がした。

実をいえば、成田山には一度だけ行ったことがあった。
賑わう参道、古い建物と恐ろしい形相の明王が醸し出す凄み、鬱蒼と生い茂る森。
そこにはえも言われぬ魅力があった。
そこには何かヒントが転がっていそうだった。

成田山へ

総武線と成田線を乗り継いで、成田に到着したのは昼過ぎ。
午前中に思い立って、2時間ほどで来れてしまうのは、なんだか奇妙である。
狐に摘まれたような感覚に陥る。

駅を出るとパラパラと雨が降っている。
天気は悪くなかったはずだ。
狐の嫁入りである。

どうも狐に呪われているようだ。

雨宿りがてら参道でリーズナブルな鰻を食べ、いよいよ新勝寺に向かう。
その頃には雨も上がり、すっかり蒸し暑くなっていた。

成田山参道

門を潜ってしばらくすると、急な階段がある。
階段の近くは木々が生い茂り、目つきの鋭い狛犬や刀もある。
ここまでくると、「成田山に来たぞ」という気分になる。

階段を登っていると、本堂の方から「ドーン、ドーン」と地鳴りのような低く力強い太鼓の音が聞こえてきた。
何かが始まるらしい。
私は階段を急ぎ、登った。

声明を聴く

階段を登り切ると、いわゆる伽藍がある。
本堂、三重塔、六角堂、釈迦堂が整然と並ぶ広場のような空間だ。

奥に見えるのが本堂

太鼓の音の出どころは、一番大きな建物である本堂のようだった。
本堂の中に至る階段を登ると、ガラスで仕切られた中で何か儀式を取り行っているのが見えた。

祭壇では炎が上がり、僧侶たちが不思議な節回しで読経している。
だがただの加持祈祷ではなさそうだ。
時折、鐘や太鼓など打楽器の音が聞こえてくる。
仏教の宗教音楽として知られる「声明」を披露しているようだった。

声明という仏教の伝統音楽がある、ということは聞いたことがあった。
だが、声明そのものを聴いたことはなかった。
これは是非とも中で聴きたいものである。
ガラスの向こう側の音はスピーカーを通じて外に流れており、生音の迫力に欠ける。
だが特に「ご自由にどうぞ」とも書かれておらず、私は遠巻きに眺める他なかった。

すると、後から来たサラリーマン風の(つまり、檀家信者ではなさそうな)二人組が「入ってみようよ」という感じで中へ入っていった。
これは……入って良いやつかもしれない。
私は二人組のすぐ後で、ガラス戸を開けて中に入った。

天井の高い本堂には音が満ち溢れていた。
カーンという乾いた楽器、ドーンという低い太鼓、そして読経の声。
読経も単に経典を読んでいるのではない。
「ハモりパート」付きで多声的なのである。

音が塊となってこちらに押し寄せてくる。
教会音楽の、悔い改め、心洗われる感じとはまた違う。
なにやら、美しくも泥臭くもある浄土の姿を見せられるかのような音に包まれる。

まさか思いつきで成田山まで来て、こんな体験ができるとは思わなかった。
これ以上ない体験だ。

稲荷の風

声明の勢いそのままに、私は前回は行かなかった、小高い丘の上にある稲荷神社に向かった。
明治時代に神仏分離令が出るまで、寺と神社はほとんどの場合一体化していた。
新勝寺のすぐそばに神社があるのは、きっとその名残だろう。

稲荷神社から見下ろした成田山新勝寺

稲荷神社の前に、露店が二軒建っていた。
お土産物かお守りの類だろうか、と思いつつ、前を通り過ぎると、
「お供えものいかかですか?」と声をかけられた。
通り過ぎるつもりで歩き出していた手前、そのまま神社の入り口に着いてしまったが、神社への「お供物」というのが気になった。
あまり、見たごとがなかったからだ。

するとすぐ後ろを歩いていた若い男性が露店に寄っているのが見えた。
どうやら、お供物とは油揚げと蝋燭らしい。
「買ってみるか」
私は引き返して、油揚げと蝋燭を買った。

店主のおばさんは、私が前を通り過ぎていった不信心者と知りながらも、優しく頭上で鐘を鳴らし、
「お願い事が叶いますように」と唱えてくれた。
私は油揚げと蝋燭と気恥ずかしさを携えて神社へと向かった。

蝋燭に火を灯し、油揚げを神前に供える。
油揚げの上には5円を乗っけるのが慣わしのようだ。
礼拝を済ませると、スーッと気持ちの良い風が吹いた。

君は一体何を恐れているのか?

帰り道、ふと考えたことがある。
今回、成田山にきて、声明を聴いたり、供物を捧げたりと、遠巻きから見るのとは違った経験ができた。

だが、声明の時は初めは文字通り遠巻きからスピーカー越しに聞いていたわけだし、油揚げだって買わずに通り過ぎた。
心惹かれても、なんだかんだ理由をつけたり、なんだかんだ惰性に引きずられてその場から遠ざかる。

それはきっとひとえに、遠巻きから眺めている方が楽だからだろう。
何かに積極的に参加することそのものに、漠とした怖さを感じているのだ。

だけど、一体何を恐れているのだろう。
声明も本堂の中で聞いたから、体感できた。
稲荷へのお参りも、供物あってこそ、体験できた。
他にもそういったことはごまんとあるのである。

だから、自分で一歩踏み出してみよう。
いや、自力でなくとも、今回みたい、誰かの後をどさくさに紛れて歩んでみるのも悪くないのかもしれない。
いずれにせよ、ヒントはそこに転がっていた。

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