クアラルンプールの下町
クアラルンプールは、ゴンバッ川とクラン川という二つの川が街の中心で合流している。
そのため、Y字に流れる川に隔てられて、東・西・北の3区画に分かれている。
二つの川に囲まれた北の区画は下町とでも言えるような雰囲気があり、観光やビジネスの街としてではない、庶民の街としてのクアラルンプールが見える。
北の区画のメインストリートは、南北を貫くトゥアンク・アブドゥル・ラフマン通りだ。
北から南まで賑やかな通りではあるが、大きく分けて南北二つセクションに分けることができる。
北側には市場があり、その周辺が「チョウキット」と呼ばれる下町が広がる。
南側にはマスジッド・インディアとマスジッド・ジャメッという二つのモスクがあり、特にマスジッド・インディアの周辺はリトルインディアとなっている。
庶民のパワー、チョウキット
チョウキットの中心は、メインストリートであるトゥアンク・アブドゥル・ラフマン通りから東に一本入ったところにある市場である。
肉、魚、野菜といった生鮮食品がならぶ屋内市場の周りに、食べ物を売る露店が立ち並んでいる。
ブキッビンタンやツインタワーといった「都会」のクアラルンプールを歩いた後に、ここの界隈に来ると、衝撃を受ける。
もちろんいい意味で、だ。
溢れる買い物客、濁声の呼び込み…クアラルンプールはやはりアジアなのだ。
市場の隣にはモスクではなく、グルドワラと呼ばれるシーク教の寺院があるから、ひょっとするとこの辺りは、北インドからの移民が多い地区なのかもしれない。
マレーシアやシンガポールは南インドからの移民が多いから、少し異質な雰囲気がある。
フルーツの王様との謁見
小腹が空いていたのと、糖分が欲しかったので、ドリアンチェンドルなるものを露店で買った。
というのも、ドリアンなるものをきちんと食べたことがなく、チェンドルも食べたことがなかったからだ。
クアラルンプールを歩くと、そこら中にドリアンやチェンドルを売っているのだから、試す他ない。
13リンギッ(450円弱)なので、食事を毎度10リンギッ前後で食べている私にとっては贅沢な軽食だ。
見ていると、ドリアンを乗せると大抵は値が跳ね上がるので、日本のシャインマスカット的な高級フルーツの位置付けなのだろう。
チェンドルとは、米粉でできた、ぷるんとした麺のようなもので、パンダンの葉で色をつけているので大抵は緑色である。
これをココナッツミルク、かき氷、甘く煮た小豆などと合わせる。
日本風にいえば、冷やしぜんざいという感じだ。
ドリアンチェンドルは、このぜんざいの上に大きなドリアンをのせる。
ドリアンといえば、「フルーツの王様」という評価と「臭い」という評価の毀誉褒貶があるが、この国に来てからかなり頻繁に目にするので、少なくともマレーシアでは人気のようだ。
チェンドル自体に味があるわけではない。
だが甘いココナッツミルクやかき氷にはよく合う。
ドリアンは、真ん中に大きな種があり、その周りにある実の部分を削いで食べる。
初めこれを知らずにかぶり付いたら、思いの外種も硬くなく、そのまま食べられてしまった。
ナッツのような食感と風味で悪くなかったのだが、周りの誰も食べていなかった。
もしや、毒があるのでは、と不安に思って調べたら(遅いのだが)、毒はなく、煎ってたべることもあるらしい。
マレーシアの人はあまり好まないのだろうか。
実の方は、アボカドのようなこってりとした味わいでありながら、メロンの種の近くのような甘味の強さもある。
香りは食べている分には「臭い」と思うことはない。
高価なのでその後ドリアンに手を出すことはなかったが、あの濃厚な味わいは他に変え難い。
人気なのも頷ける。
チョウキット、市場交渉修行
転じてメインストリートのトゥアンク・アブドゥル・ラフマン通りの周辺には服屋が並ぶ。
古着屋と思われる露店の店や、インドネシアからの移民と思われる人たちが売っている民族衣装の店、「ハリハリ」(日々、的な意味だろうか)という大手の服屋…。
日本ではあまり見かけないのは、ムスリマ(イスラームを信仰する女性)が身につけるヒジャブというスカーフをさまざまな店で売っていることだ。
以前訪れたトルコでもそうだったが、彼女たちにとってヒジャブは信仰上のアイテムであるとともに、ファッションでもあるようだ。
ちょうどどこかでシャツでも買おうかと思っていたので、色々と物色しながら見て回った。
マレーシアで買うのだから、マレーシアの人が来ているようなものが欲しい。
とはいえ、プラナカンの人々が着るような「バティッ」と呼ばれる服は少々値がはる。
価格交渉に慣れていないので、大手のハリハリに行くと、日本の「いらっしゃいませー」のように「スラマッ・ダターン」という声が次々とかかる。
値札を見ていると、店の人がやってきて、何が欲しいか、こういうのはあるぞ、と営業が始まる。
静かに見たいなと思い、
「見ているだけなんです」
と言っても、しばらく隣から離れない。
かと言って説明もしてこない。
なんとなく居心地が悪く、出てしまった。
だが、服の相場は分かった。
最安でも29リンギッ(1,000円ほど)はするようだ。
また、マレー人が被るソンコッという帽子も、安ければ買おうと見てみたが、20リンギッ(700円ほど)だった。
店を出ると、大通りの向かいに大規模な露店街が見えた。
道を渡って中を覗くと、全て服の露店だ。
ここならもう少し安く買えるかもしれない。
眺めながら歩くと、かなり賑わっている。
「これいくら?」
「50リンギッだよ」
「そいつはちょっと高いね。安くしてくんない?」
「いくらなら買えるんだい?」
マレー語がわかるわけではないが、そんな会話が聞こえてくるようだ。
ソンコッなど帽子を売る店を見ていると、マレー語で話しかけられた。
仕方なく英語で試着できるか聞くと、その店員は英語がわからなかったらしく、魔女のような見た目のお婆さんが連れてこられた。
「試着ならしていいよ」
私はいくつか試して、お婆さんに勧められた帽子を手に取り、
「いくら?」と聞いた。
「12リンギッ(450円ほど)。値下げはできないよ」とお婆さんはきっぱりいう。
いきなり値下げの話をするということは、この婆さんはなかなか手強そうだ。
そんなに高くもないし、言い値で購入すると、お婆さんはご満悦そうだ。
「姐さん、いくらで売ったの?」
「12よ」
「12⁈」
という仕事仲間との笑い声が聞こえる。マレー語の数字を多少学んだから少し聞き取れる。
こいつはやられたな、と思った。
あとでモスクの中の売店で見たら、7リンギッ。大体倍以上取られたわけだ。
その後、シャツを売る店に入った。
入ったとは言っても露店である。
派手ではあるが、伝統服のバティッのようないいデザインのものがあったので、眺めていたら、マレー語で何やら話しかけられた。
どうも私はマレーシア人に見えるらしい。
店主のお兄さんは英語に切り替え、別のサイズもあるという。
「お兄さんはSサイズだな」と勝手に話が進む。
「ブラプ(いくら)?」と今度はマレー語で聞くと、35リンギット(1,260円ほど)だという。
これじゃあハリハリの方が安い。
「ちょっと高いな、やめておこうかな」と比較的本心で言うと、30ならいいと言う。こちらも下心が出てきて、
「もう少し安いといいな」と言ったら、28まで下がった。大体1,000円だ。手の打ちどころである。
一勝一敗。
あまりこういう市場での買い物は得意ではないのだが、悪くない。
それに、今までとは違い、価格交渉が楽しくなっている自分がいた。
今ならあのお婆さんにも勝てるかもな、と調子に乗りつつ、あのお婆さんのおかげで強くなったのかなとも思った。
色とりどりの街並みをゆく
トゥアンク・アブドゥル・ラフマン通りを南に下ると、街の姿が目まぐるしく変わる。
雑多なチョウキットを越えると、日系のそごうを中心とした、ちょっとハイソなショッピングストリートが現れる。
服屋は服屋でもチョウキットのような店ではなく、ブティックのようなものもちらほら見える。
屋台のようなものも立っているがどこか小綺麗である。
大通りから一本逸れると、今度はリトルインディアの露店街が現れる。
こちらも服屋が多いが、売られているのはクルタやサリー、インド風のドレスなどである。
リトルインディアの中心部にはマスジッド・インディアというモスクがあり、近代的ではあるが、東屋の建築などインド風の見た目をしている。
本当は中に入りたかったが、ちょうどお祈りの時間だったため控えた。
外は時を告げるアザーンが鳴り響いている。
クアラルンプールのリトルインディアは二つある。
マスジッド・インディアの周辺と、さらに南の方にあるクアラルンプール中央駅周辺だ。
南の方が大規模らしく、通常リトルインディアと言えばそちらを指すという。
とはいえ、下町エリアのマスジッド・インディア周辺の方が歴史があるようだ。
なお、今回は駅周辺の方には行くことができなかったので紹介はできない。
クアラルンプール最古の通り
リトルインディアを抜けると、アーケード商店街がある。
服はもちろん、お土産物も売っている。
夕方のお祈りの時間にしては賑わっている。
商店街の通りは「ムラユ通り」という。
ムラユとは、マレーのことだ。
表示によると、この通りこそ、クアラルンプール最初の通りだという。
クアラルンプールは、今でこそマレーシアの首都、東南アジア第三の都市だが、マラッカやシンガポール、ペナンと比べると古くもないし、成立経緯も異なる。
マラッカ海峡交易で栄えた街々とは異なり、この街はスズ鉱山の街だった。
スズはブリキの材料であり、もともと英国の特産品だった。
だが、19世紀半ば以降の需要の拡大で英国だけでは賄いきれず、植民地であるマレー半島での採掘が始まった。
スランゴルという場所で鉱脈が発見されると、川沿いに労働者の拠点が築かれるようになった。
これがのちのクアラルンプールであり、ムラユ通りもこの時にマレー人が多く住み着いた場所だったらしい。
ムラユ通りはゴンバッ川とクラン川の合流地点にほど近い。
クアラルンプールとは「泥の川の合流地点」を意味する。
「泥」とはスズを洗った後に出た汚れのことらしい。
まさに、この街の原風景は、ムラユ通りの周辺にあるのだ。
マスジッド・ジャメッ
この辺りの地区のランドマークは、二つの川の合流地点を望むモスク、マスジッド・ジャメッ(Masjid Jamek)である。
合流地点クアラルンプールのまさに原点、ゼロポイントに位置するモスクだ。
マスジッド・ジャメッやジャマア・マスジドといった名前のモスクは各地にあるが、あえて日本語に訳すなら「集団礼拝のモスク」である。
ちなみに、東京の「東京ジャーミイ」も同じ概念である。
イスラームでは、金曜日の昼に男性信徒が集まり、「集団礼拝」と呼ばれる、いつもよりも長く、多くの人が集まる礼拝が行われる。
「集団礼拝のモスク」というのは、言ってしまえば、この日集まってくる人々を収容できる大きなモスクということになる。
ムラユ通りが拓かれた時から、マレー人のためのモスクはあったらしいが、現在のマスジッド・ジャメッは20世紀の初頭に、英国人建築家によって建設された。
その姿は、マラッカにあるようなマレー伝統の建築ではなく、世界最大の帝国英国が世界中で得たイスラーム建築の知見を集約させつつ、優美な姿をしている。
このモスクはほとんど平家式で、玉ねぎ型の三つのドームといくつかの尖塔が生えた屋根の下は、平たく広い礼拝所となっている。
ドームの下の空間は壁で仕切られ、メインの礼拝所となっていて、絨毯も敷かれている。
礼拝の時間以外は、観光客に対応するガイドが二、三人いて、イスラームのこと、建築のことなどを解説している。
メインの礼拝所の外にも屋根はあるが、絨毯はなく、まるで巨大な東屋のようである。
ずらりと並ぶ柱は圧巻で、アルハンブラ宮殿を思わせるが、実際に同様の様式で建てられている。
そんな空間では多くの人が昼寝をしたり、読書をしたり、昼ごはんを食べたりしている。
これは世界中の宗教施設でもモスク独特で、モスクはまさに生活の一部なのだ。
私も暑い日差しを避けて、モスクの端っこに座り、あれこれ考え事をしたり、本を読んだりしていた。
***
クアラルンプールの北側の界隈は、この街の歴史の原点だ。
だが、この街のもう一つの主人公、華人たちの街は東岸の南側にある。
また別の雰囲気の、また別のエネルギーがあふれる街である。
だが華人街についてはまた次回。