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自分は特別だって話?


映画館で『正欲』を観てきました。

私は原作を読んだ上で見ましたがかなり端折られていて、本を映画化するって難しいんだなぁととても感じました。
良い意味で言うと、映画を観た後に原作を読めば、「え!?この人死んでたの!?」レベルの驚きがたくさんあって逆に楽しいかもしれません。

私がなぜこの映画をわざわざ見に行きたかったかというと、最後の悲しく苦しい結末を、人が実際に演じるとどのようになるかを見てみたかったからです。

本で読んだ時、私は正直マイノリティということがこれほど人の性格や人生に影響してしまうということに疑問というか、そんなに?という気持ちになりました。
確かに共感できる人は少ないかもしれないけど、でも他人に迷惑をかけることでもないし、別に篭らなくてもいいじゃないか、と。
でも映画を観た後、内容を軽く自分のことに置き換えて考えてみたら、感じ方が少し変わりました。

私は基本的に、物語などの作品に対して持つ感想が正解じゃないことが多いです。例を挙げると、国語の授業でテストに使われる問題になる前の物語を読んでこの感想を書きましょうの時間。あの時私が持った感想が教師が目指す正解に当てはまったことって多分ほとんどありません。

真面目な私は正解に辿り着けないことが悲しくて、持つ感想は自由だと言いながらも点数をつけてくる先生に対して、軽く苛立ちのような感情すら持っていました。そう感じてからはより授業で発言する回数は減ったし、その時間がとても苦しく感じるようになりました。
もしかしたらこれが正欲のあの現象と近いことなのかもしれない、そう思ったんです。

思春期に多くの人が通るであろう、好きの対象が人間であることが当たり前の概念として捉えられている恋バナ、それができないこと。他人からはそうでもないと思われても、本人たちからしたら自分を塞ぎ込んでしまうほどのことで、疎外感、孤独感、その類のものをたくさん感じてしまうこと。自分に事を当てはめたら少し理解できました。

他人とは異なる感想を持つことが多くてたまに寂しくなる、そう妹に話をした時、妹は、自分を特別な存在だと思ってるの?そんなふうに考える私かっこいいって思ってるんでしょ?と訴えるような顔を向けてきました。仕方ないけどやっぱりそう捉えられるんだなぁとその時は少し悲しかったのですが、この映画をたくさん咀嚼していくと、むしろこれはあるべき悩みで、それでも生きていけてる自分は強いのかもしれないとまで考えられるようになりました。

映画で見た最後の結末は本で読んだよりもとても重たくて冷たい空気が流れていました。ガッキーの諦めと主張の2つの顔がしっかり見えて、グッと心が掴まれました。その先の描写はなかったからわからないけど、やっぱり夏月と佳道には自分の思う幸せを抱ける、好きな暮らし方をできていてほしいな。生きて向き合っていてほしいです。

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