エッセイ「記憶スイッチ」

書く筋トレ第4回。

こちらのサイトでランダムに吐き出された3単語を使って、短い小説かエッセイを書きます。今日のお題は、「春分、砂浜、臭い」
※ランダムテーマジェネレータより:http://therianthrope.lv9.org/dai_gene/


エッセイ「記憶スイッチ」


 ある臭いをかぐと、特定の記憶がよみがえる。

 みなさんにそんな経験はないだろうか。実はこれ、科学的に根拠のある現象で、「プルースト現象」という名前まであるらしい。詳しくどんな現象なのかは、僕は説明を四回読んでもよくわからなかったし、五回目を読んだところでわかるとも思えないので、気になる人は調べてみていただきたい。

 例えば僕は、雨のにおいをかぐと、昔行ったある家族旅行の記憶を無条件で思い出してしまう。たしか旅行の途中、何かの神社に向かう道中だ。場所は関東だったか、どこだったか、あやふやだ。しかし、神社に向かう道の濡れたアスファルト、のっそりと頭上を覆う木々の揺れる音、すれ違った人の赤い傘――。そんな断片的な記憶だけが、雨のにおいをトリガーにありありとよみがえってくるのだ。

 そんなプルースト現象が最近なんでもないときに起こった。全くのノーガードの方向から、思いもよらない記憶が飛んできたので、少し混乱してしまうほどだった。

 先日の朝、会社にたどり着くと、社内に見慣れぬ女性がいた。

 僕が務める会社は人の入れ替わりが激しく、新しい人が入ってくること自体は特段珍しいことではない。特に気にすることもなくしばらく業務をこなしていると、その女性が僕の部署にあいさつに来た。

 田中さん(仮名)と名乗る彼女は、業界内転職を果たしてきた活発な方だった。一通りあいさつを終えた彼女が僕の前を通り過ぎていく。

 その瞬間である。

 僕の意識は、太平洋を越えて、さらにそのまた向こう、春先のニューヨークへと飛ばされた。

***

 今からちょうど5年前の話だ。

 大学4年の夏に思い切って大学を休業し、アメリカ・ニューヨークへ飛んだ。差し迫った就職活動からの逃避だったので、文字通り「飛んだ」のだ。

 現地で映画学校に通うつもりだったが英語力が足らずに門前払いされてしまい、仕方なく語学学校で英語を学びながら、ネットで知り合ったアメリカ人の友人たちと自主映画をつくる毎日を送っていた。

 と言っても素人同士の集まり。制作は遅々として進まず、苛立ちの募る日々だった。そんなもやもやを抱えたまま、僕は一人ロケハンのために「レッドフック」という地域を訪れようとしていた。

 レッドフックはブルックリンの南西に位置する小さな倉庫街。お洒落スポットとして「地球の歩き方」に紹介されていた。どうやら臨海公園が景勝地らしい。観光半分、ロケハン半分の気持ちで、電車を乗り継ぎ向かった。

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 最寄りの「Smith-9th Streets」駅で降りる。マンハッタンのダウンタウンが見渡せる美しい駅だった。(写真は筆者撮影、以下同)

 この時点で、少し気持ちが浮ついてきた。このままいけば、お洒落なロケ場所がたくさん見つかり、撮影も順調に進むのではないか、という気がしてきた。まさに根拠のない自信というやつだ。ここから5分ほど足を延ばせば、すぐにレッドフックに着く。お洒落で最先端の観光地を目前に、足取りは軽くなった。

 しかし、ものの5分で異変に気が付く。

 人がいない。道幅が狭い。ゴミだらけの歩道。スニーカーがぶらさがった電線――。

 アメリカで生活するうえで欠かせない「治安の悪い地域を避ける動物的本能」がガンガンに危険を訴えている。

 それでもとさらに進むと、古い団地に行きあたった。そこでは公園の遊具が壊されていたり、フェンスに穴が空いていたり、もうめちゃくちゃだ。これが「治安の悪い地域あるあるビンゴ」だったら、既にトリプルリーチはかかっている。

 しかしせっかく遠出してきた以上、これだけで引き返すのも癪だ。何とか「地球の歩き方」に載っていた臨海公園までは行ってみたい。そのまま街の中心部へと向かう。

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 落書きと呼ぶにはクオリティが高いグラフィティを横目に、歩を進めていく。相変わらず街には誰もいない。僕の地元、長野県のド田舎に匹敵するレベルで人がいない。

 何度か辻を折れるうちに、道がわからなくなった。しかし安易に携帯や地図を取り出して見ていると、どこかの建物から姿を見られ「カモ」だと思われかねない。「ヤバい地域を歩くときは自分もヤバい奴になれ」という自分で編み出した教訓をもとに、フードを深々とかぶってのそのそと歩く。緊張感で胃がひりひりしてきた。

 そのまま小一時間街をさまよい…

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 幸いにも、無事に目的地である臨海公園にたどり着くことができた。

 公園と言っても、数メートル幅の砂浜と、釣りができる桟橋があるだけの小ぶりなものだった。だが傾きつつある太陽が反射する水面は美しく、ここまでの苦労が報われる素晴らしい眺望である。遠くには自由の女神も見える(上の写真右手奥)。周囲を取り囲む建物のグラフィティも魅力的だ。

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 この時ばかりは、人がいないことがありがたかった。僕はしばらくその景色に見とれながら、様々なことに思いを巡らせた。

 うまくいかない自主映画製作。

 初めての海外に戸惑う日々。

 日本で待っている就職活動。

 とりとめのない思考が次々と現れては、波しぶきとともに消えていく。太陽のまぶしさに目を細める。ああ、願わくば煩わしいことはすべて忘れて、ここでずっとぼんやりしていたい。だが、そのとき、

「Hey!」

 後ろから突然声をかけられた。驚いて振り向くと、そこにはアフリカ系の青年が笑顔で立っていた。第一村人発見の瞬間である。

「Let me guess, you're Japanese, right? (きみ、日本人だろ?)」

 フランクに話しかけてくる彼に、Yesと答える。

 この瞬間僕の頭の中で作戦会議が始まる。見知らぬ人間がにこやかに話しかけてくるシチュエーションは、だいたい2つのパターンに分けられる。

 1つはただの世間話。アメリカ人には、見知らぬ人と話したがる社交的な人物が多い。

 そしてもう1つは、カツアゲだ。

 前者の場合、話に付き合えば思わぬ面白い話に出会えることもある。しかし後者の場合は、経験上、相手の話に付き合わず英語がわからないふりをした方が得策だ。

 少し迷った挙句、僕は前者の可能性に賭けてみることにした。そのとき大して現金を持っていなかったこともあり、カツアゲされたらその時はその時だ、と彼の話に付き合う覚悟を決めた。

「日本人が来るなんて珍しくて話しかけちまったよ。なんでこんな辺鄙な所に来たんだい?」

「日本のガイドブックに、ここが載っていたんです。すごくきれいな景色ですね。あなたは地元の方ですか?」

 相手を刺激しないよう、にこやかに応対する。いつ「金出せよ」という言葉が飛び出してきてもいいように心の準備だけしておく。

「ガイドブックに載ってるとは驚きだね。見ての通りこのへんはさびれたエリアなんだ」

(「だから金出せよ」来るか?)

「俺の家族も友人たちも決して裕福じゃない」

(「だから金出せよ」来るか?)

「いい街だが、物騒な奴もいるからきみも気をつけろよ」

(「だから金出せよ」来るか?)

「実はな……」

(来る……!)

「俺の奥さんは日本人なんだ」

 いつカツアゲされてもいいように心の準備をしていたが、思わぬ話が飛び出してきた。そこからその人はポツポツと、彼自身の身の上を話してくれた。

 彼の名前はクリス(仮名)といった。数年前、マンハッタンの大学に留学していた日本人女性と出会い、すぐにデートを始めた。だがすぐに彼女の留学が終わって、彼女は日本へ帰国。それでも彼女のことを忘れられなかったクリスは、お金を貯めて日本へ行き、プロポーズしたそうだ。

「YESをもらってすぐに彼女の両親に会いに行ったが、急な話でうまくいかなかった。俺は日本語をしゃべれないし、彼らも英語がわからないしね。お義父さんはアイチケニーズで、古いタイプだった」

 彼女は名古屋出身とのことだった。クリスが愛知県民をアイチケニーズなんて呼ぶので僕は思わず笑ってしまった。クリスは「僕が考えたんだ」と舌を出して見せた。

「半年頑張って働いて、もう一度日本に行った。彼女はアメリカで就職先が見つかって、そこでやっと結婚を認めてもらえたんだ」

「彼女は今どうしてるんですか?」

 そう聞くと、彼の表情が曇る。まずいことを聞いてしまったのだろうか。

「今は名古屋にいるよ。いろいろあったんだ」

 彼が話したくなさそうだったので、それ以上は聞かないでおく。だが、どんな事情であれ彼は奥さんに会いたいのだろう。それで日本人の僕を見つけて、思わず話しかけてしまったのだと合点がいった。

 日も傾ききっていた。そろそろお暇する旨をクリスに告げ、握手をしようと右手を差し出す。彼は僕の手を握ると、そのまま力強くハグをしてきた。柑橘系の爽やかな香水とタバコのにおいが混じった香りが鼻腔を通り抜けた。

***

 田中さんが僕の前を通り抜けたその瞬間、柑橘系の爽やかな香水とタバコのにおいが混じった香りが僕のほほを撫でた。

 会社のデスクにいながら、僕の眼前にはレッドフックの臨海公園とクリスの寂しげな顔が瞬く間に表れた。同時に、当時感じていた将来への漠然な不安や、未知の日々へのワクワクなどが一度によみがえり、なんだか足元がおぼつかないような心地がした。

 後日のことだ。

 たまたまエレベーターで田中さんに行き会い、それとなく出身地を聞いてみた。

「出身ですか?生まれも育ちも東京ですよ」

 少し「名古屋」という答えを期待していた僕はがっかりする。年のころを考えれば、クリスも田中さんも同じくらいのはずだったのだ。

「もうひとつ、変なこと聞いてもいいですか?いやだったら答えなくていいんで」

「なんでしょう」

「付けてらっしゃる香水、僕の知人と同じものかもしれません。ひょっとして、良いブランドのものだったりします?」

 どう聞いても不審な質問だったので、精いっぱい言葉を選んで尋ねると、彼女は破顔して言った。

「ああ、これですか。たしいたものじゃないですよ。実は去年、海外旅行したときに買ったんです。ニューヨークのブルックリンで」

 拝啓、クリス様。

 あなたの香水、僕の同僚とかぶってます。

(おわり)

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