見出し画像

臆病者の僕が知らない人に取材を頼むという一歩にもならない一歩を踏み出してみた話

国立府中を抜けると中央道の車が空いてきた。ペーパードライバーをようやく脱した程度の僕の頭に思考する余裕が出てくる。僕は新しいウェブサービスを立ち上げるために山梨にある行きつけの珈琲店に向かっていた。
僕は新卒から10年間務めた会社から転職したばかりだった。正直に言って、新しい会社ではうまくやれていなかった。中途社員が非常に少ない会社で、年功序列を前提とした同期や知り合いで各部署が繋がっている職場。各部署との仕事もこうした人間関係で成り立っている。ここに中途の社員として入った僕は、各部署とうまくやり取りができず、自分にコミュニケーション能力が不足していることを痛感し、ひどく落ち込んだ。また、年上が年下にゴミのような仕事を投げつけることも多く、僕は会議用のA3の資料をひたすら100部三つ折りにする作業をしながら、前の会社では中堅のリーダー的存在として様々なプロジェクトに携わっていたことを思い出したりしていた。
何より、「経営企画」や「事業開発」の仕事ができると聞いて入社したのに、「経営企画」は役員の雑務、「事業開発」は証券会社の持ってきたM&A案件を検討するだけだった。多くの会社もこの程度とも思うが、もう少し能動的に動いてみたかった。
そんなある日、新しい会社で経営の企画も事業の開発もできないなら、自分でやってみれば良い、と思うに至った。いくつか事業の候補を練って、珈琲豆に関するウェブサービスを立ち上げてみようと思ってしまったのだ。珈琲豆のウェブサービスには、リアルな珈琲店の紹介記事とそこで販売されているオリジナルの珈琲豆が欠かせない。そう考えて、僕は山梨の珈琲店に向かっていたのだ。
中央道から見える山々を眺めながらそんな経緯を振り返りつつ、まさか自分が車を借りて記事の取材のために珈琲店に向かっているなんて、と思った。新規事業の立ち上げだの起業だの全くしたことがない。広報の仕事をしたこともなければ、取材したこともない、まして記事執筆もしたことがないのである。珈琲店の店主に打ったメール1本でこんなにも物事が動いてしまった。夢が急に実現して夢のような現実のようなよくわからない感覚。
何か新しいことを始めてみると自分の得意なこと、苦手なことがわかってくる。自分の人生を使ってこれをやるんだという信念。誰もやっていないことに挑戦しようとする勇気。知らない人に連絡してアポイントを取るだけでビビりまくり、電話でのアポは断念、帰宅電車の中で勢いでなんとかメールが打てたという自分にはどちらも欠如しているように思えた。それでも一歩を踏み出せば、何かが始まる

助手席で寝ていた妻は珈琲店に着くと同時に起きた。朝5時に起きてから車で約3時間半寝たまま、一番オイシイところをきちっと持っていく良い性格である。本人も幸運の星のもとに生まれていると言うが、絶妙に当たっていて悔しい。
開店前の駐車場で待っていると、奇しくも同型のコンパクトカーがやってきた。店主の顔を見たことはないが、きっと乗っているのは店主だろう。あいさつしてお礼を丁重伝える。快く開店前からお店に入れてくれた。
朝の静かな珈琲店。外から入る光が木目をベースした店内を明るく照らしている。窓からは高い山々がその穂を連ねている。お客さんがいない間に記事で使用する店内写真を撮影する。妻は自然と店主とおしゃべりを始め盛り上がっている。僕はそこになかなか入れず余計な写真を撮ってごまかす。
お店オリジナルのブレンドコーヒーを頼むことでようやく僕は店主と話し始めるきっかけを得た。だが、今までの仕事上、会計という数字と法律という言葉しか持ち得なかった僕には、何を聞いたらどのような魅力的な記事が書けるかさっぱり分からない。人と人とをつなぐ言葉を持ち合わせていないことに気づく。目の前で珈琲をドリップしてくれている店主に、とにかく質問をしてみる。
「珈琲店をやる前は何をされていたんですか?」
一体何を言っているんだ、俺は。いくつか質問も準備してきていたのに、口から出た質問はこれだった。わざわざ休日に山梨まで来て、初対面の人にこんなことを尋ねて、それで何になる?記事を執筆してウェブで公開して、珈琲豆のオンライン販売ができたら・・・って自分は何をしているんだろう。何がしたいのか。自分を自分の外から眺めているような所在ない感覚で、そんなことが頭の中をぐるぐる回る。
それでも珈琲店の主人は昔の仕事のことを話してくれた。最初の仕事は排水管の職人だったそうだ。それで、今の珈琲店を開店するとき、できる限り自分で設計して店を建てた。建物そのものだけでなく、店内のウッディなテイスト、それにあった机や椅子といった内装まで、とにかく自分で何もかもやる性質だと言う。他にも、ビンゴの番号の玉を出すような、大きな取手でグルグル廻す焙煎機。生の豆を自分の手でこれを廻して焙煎するというが、その焙煎機を自分で作ってしまったのだ。また、珈琲は、紙ではなく、布でできたネルで淹れるのだが、そのネルも生地を裁縫店で探して自作したものである。
壁に描かれた印象的なイラストについて尋ねると、お客さんの作品だと返ってきた。あるときお客さんから「店内の壁に絵を描きたい」と言われたそうだ。それに対して「じゃあ、やってみていいよ」と。その絵は、緑とオレンジの色でお店にワンポイントのインパクトと鮮やかな空間を創り出している。そして「お店に似合うんじゃない」と言ってお客さんが持って来てくれた花が、ドライフラワーとしてそのまま入り口に飾られている。
個人のお店と言えばある種の頑固な店主が様々な決断をして作り上げて行くものだと思い込んでいた。だが、ここでは自然にお客さんと交流が生まれそのお客さんがお店を作り上げている。それは会社員しかやってこなかった自分には想像がつかないことだった
僕は帰りの車の中で自問した。一体僕は自分の意思でいくつ挑戦してきたのだろう。いくつ勇気を持って一歩を踏み出したと言えるのだろう。いくつ信念を持って推し進めたものがあっただろう。誰かと共に創り上げてきたと言えるものはあっただろうか。「やってみてダメだったら、そのとき考えればいい」。僕は珈琲店の店主の言葉を思い返していた。

スクリーンショット 2019-10-28 22.52.11


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?