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友達がいない人

今回は「友達がいない人」について書きます。かなり長いです。本文はすべて無料。

1.「友達」の定義

【1】「友達か否か」という判断基準は本当に人それぞれで、明確な定義が存在するものではありませんが、多くの方は「友達」と聞くと「一緒に遊びに行ったりする人」のことを想起すると思います。私も「友達」と聞いてパッと思い浮かべるのは大体そんな感じの人なので、そこに違和感は無いんですが、もう少し考えてみると「最近よく遊んでいる人」だけでなく「過去に遊んでいた人」や「遊んだりはしてないけど誘ったら来そうな人」も「友達」に含まれているなと思います。

更に「過去に遊んでいた人」の中にも「今は友達じゃないと思う人」が含まれていたりしますし、逆に接触回数は少ないけど明確に「友達」と思えるようなケースも存在していたり、自分の中でも「友達か否か」の判断基準はそこそこ分岐があるみたいです。

【2】なのでまずは「友達がいない人」について考える前に「友達とはどんな関係か?」について自分なりに整理してみます。

図1

自分の中で「友達」かどうかは「遊び」と密接な関係があって、フローチャートにしてみると大体こんな感じです。

「遊び」が成立しない相手に対しては間違いなく「友達だと思わない」ですし、逆に何らかの「遊び」がある程度成立しそうだな~っていう段階にいる相手に対しては微妙なラインを経て、友達認定したりしなかったりする感じなんだと思います。

ちなみに私にとっての「遊び」は結構範囲が広くて、「飯食いに行こう」は勿論のこと、「釣りに行こう」とか「麻雀やろう」とか「飛行機を見に行こう」とかのわかりやすい「遊び」も含まれていますし、Twitterでやり取りを交わすことも「遊び」として認識していたりします。そして、それらによって「双方が楽しく(有意義に)過ごせる」のであれば、「遊びとして成立した」と認識します。

【3】これらを「遊びが成立するか否か」という視点からグループ化してみるとこんな感じです。

図2

こうやって整理してみると、私は「遊び成立(見込み)」も含んで「まあいけるっしょ」くらいのフランクさで友達認定しているような感じですが、人によっては「実際に遊んだことのある人」しか友達として認めなかったりするでしょうし、冒頭に「判断基準は人それぞれ」とは書きましたが、各分岐におけるレベル感が違うだけで分岐自体についてはこのフローくらいで意外と説明できる気がします。

【4】その他の視点について考慮してみると、「利害関係の有無」とか「嗜好の類似性」とかなのかもしれませんが、「双方が楽しく(有意義に)過ごせる」という条件を満たすのであれば、個人的には利害関係があっても別に良いと思いますし、嗜好は別に異なっていても良いと思います。勿論、世の中には「仕事関係の人と友達にはなれない」という方も多くて、その理由として「変に気を遣う」とか「趣味が合わない」とかが挙げられます。

ただ、それも上記の図で言うところの「その遊びが自分にとって面白いか」という分岐においてNOになるケースを指しているだけであって、利害関係のある相手や趣味の異なる相手であっても一緒に楽しめるのであれば、それは友達になれる可能性があるということなのかなと思います。

このように整理してみると「友達か否か」の判断基準の個人差は、恐らく上記の図における「遊び成立(見込み)」のゾーンにおけるレベル感の違いから生まれていると考えられます。さすがに「最近よく遊んでる人」や「昔よく遊んでたし、今でも遊べる人」という実績アリの人は誰にとっても「友達」だと思いますが、「仲良くなれそう予感がする人」をどうカテゴライズするかには個人差があるというか。

【5】また「友達」から更に一歩踏み込んだ「親友」についての個人的な定義は「遊び成立の実績が複数回あり、遊ぶことに対して『こいつと遊ぶのは価値のある時間だ』という相互の信頼が成立している関係」くらいだと思っていて、具体的には「二人での旅行に誘って(誘われて)も一緒に行ける(結果的に行けなくても最低限検討や調整はする)し、楽しんで帰ってこられる」みたいな感じです。

学生の方は「なんだそんなことか」と思うかもしれませんが、社会人になってこれを満たせるような友達って絶対にそんなに多くないですし、結婚とかしてライフステージが変わっても尚その関係性が維持できるような人は本当に稀です。

【6】私の場合は「遊び」という言葉を用いて説明しましたが、もう少し要素だけを抽出すると「二人で同じ時間や物事を楽しく(有意義に)共有できること」が「友達」の条件と言えると思います。これを「二人で同じ時間や物事を楽しく(有意義に)共有できることができる相手は(少なくとも)友達である」と言い換えても齟齬は無いと思いますし、皆さんの中でもその条件を満たす人は大体友達と呼べるかなと思います。

今回は「友達」を「同じ時間や物事を楽しく(有意義に)共有できる相手」と定義した上で話を進めていきます。

2.「友達」になるプロセス

【1】前章において、「友達」を「同じ時間や物事を楽しく(有意義に)共有できる相手」と定義しましたが、その「友達」も最初から友達だった訳ではなく、いくつかの段階を経て「友達になった」はずです。本章では「どんなプロセスを経て友達になっていくのか」について考えていきます。

【2】人間関係のスタートは「赤の他人(互いに認識していない)」であって、そこから何らかのプロセスを経て関係性を変化させていくものだと思いますが、幼少の頃から付き合いのあるような友達のことを思い出してみても、なんかいつの間にか一緒にいた感じなので「そもそもなんで仲良くなったか?」は全然思い出せません。

ただ、一定の物心がついてからの友達、大体小学校以降くらいに仲良くなった友達のことを思い出してみると、「趣味が合う」とか以前に「一番近くにいた人」だったような気がします。それは例えば同じ学校の同級生だったり、同じ習い事をしていたり、近所に住んでいたりという感じで、「日常的に接点を持っている人=近くにいる人」の中から「友達」になっていったんだと思います。

そして、その距離の近さと「友達になりやすさ」は比例していて、例えば同じ学年でも別のクラスの知らんやつと仲良くなる確率よりは、隣の席のやつと仲良くなる確率のほうが圧倒的に高いでしょうし、同じクラスの中でもスクールカースト的に離れた人よりは似たようなカーストに所属する者同士のほうが仲良くなりやすいです。大人になってからで言うと「同期入社」とかもそうですね。

インターネットが発達した昨今においては、物理的距離を無視して多数の人と接点を持てるようになったことから、この「近くにいる人」の範囲が無尽蔵に広がっていますが、やはりインターネットにおいても同一または近しいコミュニティに所属しているような「近くにいる人」が「友達」の最も大きな母集団になるというのは変わらないと思います。

【3】最初の母集団が「近くにいる人」だとすると次のステップは「認識している人」かなと思います。顔や名前を知っているだけでなく「なんか面白そうなやつがいる」みたいに何らかの形で認識することではじめて、その存在という概念が自分の中にも発生しますし、当然ながらそれに対して興味や関心を持てるか持てないかが次のステップに進むかどうかの基準になります。

また、これも当然ながら相互認識が成立していないと単なる片思いで終わってしまうため、自己の立ち位置から考えると「どうやって認識してもらうか」というハードルも出てきます。

「赤の他人」から「近くにいる人」への移行は環境的要因に大きく依存するものですが、この辺りはその人の能動性に多少は左右されるのかなと思いますし、実際に所謂「目立たない(認識されにくい)人」は一般的に「目立つ(認識されやすい)人」より友達が少ないです。「見た目」とか「ステータス」みたいな外的にわかりやすい要素で判断されるのは、主にこのステップですね。

【4】「近くにいる人」から「認識している人」の次は「興味のある人」でしょうか。自分の中に発生した存在(認識できた他者)に対して興味を持っている状態、つまり「あの人と仲良くなりたい」と思う段階です。

ここでは双方向性が重要で、お互いの興味レベルが釣り合っていないと関係性が破綻しがちです。例えば一方の興味が先行しすぎて質問攻めにしてしまうような感じだと、多分その先の関係性には発展しません。

ここでも前項と同様、外的にわかりやすい「興味を持ってもらえる要素」は一定重要で、特徴が無いというか「会話のとっかかりが見当たらない人」は興味を持たれにくいです。とはいえ、その人を認識した上で注意深く観察していると何らかの特徴を発見することは可能なので、外的にわかりやすい要素が必須かと言われると「あったほうが良い」くらいですね。

逆に双方が「この人に興味があるな」と思えると次のステップに進みます。

【5】「興味のある人」の次は「安心できる人」かなと思います。それは「安らぎを感じる」という意味ではなく、自分の興味レベルに対して相応のアウトプットが期待できるという意味で、ある意味「信頼」に近いのかなと思います。

この段階においては、相手からの興味や期待に対して適切に応対することができるかどうかが基準になっていて、「やっぱりこの人は自分の期待に応えてくれる人なんだな」と確認できることが安心につながる感じです。「この店は自分の期待を裏切らないから安心して通える」みたいな感覚ですね。

そして、このあたりになると「友達」と認識する人がほとんどだと思います。

【6】「安心できる人」の次は「関係性を継続できる人」かなと思います。ここはこれまで構築した関係性を振り返って、自分の人生にとって「その関係性を継続するべきか」を考えたときに、Goサインを出せる相手であるかどうかという判断をするフェーズだと思っていて、双方向性とは真逆の「個人としての判断」が重要視されるところだと思います。

例えば、ライフスタイルの違いや文化的背景の違い、仕事や家庭に対する向き合い方など、多角的な視点から「その人と関係性を継続することはお互いの人生にとってどんな影響を及ぼすか?そして、それは好ましいものか?」ということを考慮した上で、「継続的に付き合える人」だと判断できない限りは関係性が続くことは無いです。

そして、このフェーズにおいて「友達」じゃなくなる、というのは大人になるとそれなりに経験するもので、所謂「昔の友人と疎遠になる」は完全にこの段階の話だと思いますし、大人になってから長く続く友達ができにくいのもここでの判断が環境要因によってシビアになっていくからだと思います。

【7】図にするとこうです。

とも

こうやって見ると「友達を作る」または「友達であり続ける」というのは結構たくさんのハードルを超える必要があって、どの段階で躓いているのかを明確にすることで「友達がいない人」の特徴をもう少し詳細に捉えることができるような気がします。

余談ですが、「友達をつくる」という観点においてコロナ禍で一番割りを食っているのは、この図でいうところの「赤の他人⇒知り合い」のステップにいる新入生や新入社員のような「これから人間関係を広げていこうとしていた人」だと思います。逆に既に安定した関係性があり、これから人間関係を広げていく必要性が低い人にとっては「まあ会うのはアレだけど連絡はちょいちょいできるし」みたいな感じでそんなにダメージが無いです。

多分ここが人間関係を広げる段階にある若年層と人間関係を維持する段階にある中高年の「自粛」に対する温度感の差を生んだ要因の一つだと思いますし、そう考えると若い人の「貴重な1年を失った」みたいな発言に対しても「まあ、確かにそうだよな」と思います。

3.「友達」にならない理由

【1】ここでは前章で整理した「友達になるプロセス」を参考に、それぞれのフェーズにおいてどういうことをすれば失敗するのか=友達にならないか、について考えていきます。

【2】まず最初の「近くにいる」フェーズにおいて躓いている場合ですが、これは単純に社会との接点が少なすぎることに尽きると思います。

そして、もう少し細分化すると①何らかのコミュニティにアクセスする方法を知らない②何らかのコミュニティにアクセスする方法はわかるが勇気が無い③接点を作る気が無い、くらいに分けられるのかなと思います。

①については、限られたコミュニティしか存在しない超ド田舎で孤立しているような感じで、そこから飛び出そうにも「村の外」という発想が無いパターンです。文字通りの超ド田舎はコミュニティ的に閉鎖的な性質が強いですが、家族が外界との接点をコントロールしている場合にも同様のことが起きるでしょうし、「ガラスの蓋があるコップで育てたノミは蓋の高さまでしか飛べない」みたいな感じなんでしょう。ノミの話はガセらしいですが。

②については「村の外」を認識しているか否かの差があるだけで、根底には村の大人によって植え付けられた「村の外は魔物がいっぱいだから出てはいけない」という精神的な鉄格子が存在していて、「窓の無い座敷牢で育った」か「小窓がある座敷牢で育ったか」の違いでしか無いと思います。

逆に言うとそこから「オラこんな村嫌だ」と抜け出すことが友達を作るための第一歩であり、「(一定の自由意志を持って)何らかのコミュニティに属する」というのが大事なのかなと思います。

ちなみに③みたいなロンリーウルフは稀に存在しますし、大人になると対人関係に割かれる時間的/経済的/精神的リソースのことを考慮して「あえて新規のコミュニティには参加しない」という選択肢がリアルに出てきます。この辺が若者とおじさん/おばさんの「ノリ」の違いなのかなと思います。

【3】次の「認識している」フェーズにおいて躓いている場合、所属するコミュニティ自体が適切でないことがほとんどです。

学校や地域といった、子供の頃は能動的に選択することが難しいコミュニティは仕方無いとしても、職場や趣味のコミュニティはある程度能動的に所属先を選択できると思いますし、それらにおいて認識されにくいのは、そのコミュニティにおいて注目されやすい属性や能力を持っていないということであって、つまりは「そこでは相手にされない」んでしょう。そのまま残留しても心が苦しくなるだけだと思うので、早く下部リーグに移籍するか、多少努力してでもそのコミュニティにおいて求められる資質を身につけるのがおすすめです。

一方で「人」を認識する能力が著しく低い人も存在していて、そういう人の場合もここで相互関係が成立しないことによって「友達ができない」という結果を招くことになります。「変に目立つから近寄ってくる人はいるけど、ちょっと話すだけで友達にはならない」みたいなパターンが多い人は、「絶望的に面白くない」というのもあるかもしれませんが、本能的に「あっ、こいつヤバいな」と見抜かれてフェードアウトされてるんだと思います。

【4】「興味がある」フェーズにおいても同様に「他者から興味を持ってもらえない」と「他者に興味を示せない」というパターンが存在します。

他者から興味を持ってもらえないパターンとしては、シンプルに「個性的でない」と言うこともできますが、もう少し噛み砕いて言うと「とっかかりが無い」ということだと思います。ただ、意外とこのパターンは少ない気がしていて、なんだかんだ大多数の人は互いに認識しており、その中でも接点が多い人物に対してはそれなりに個性や魅力を見出すことができるので、「自分は無個性だから友達ができない」と思ってる人は別のところで躓いてるパターンが多い気がします。

そして、もう一つの他者に興味を持てないパターンこそ、上記の「自分は無個性だから」と思ってる人に友達ができない真因であることが多い気がしています。

「他者に興味無さそう」という態度は、相手の視点に立つと「自分に興味を持ってもらえないかもしれない」ということであり、そんな可能性のある相手に対してわざわざ話しかけるのはマイペースな人かよっぽどの自信家だけです。自覚の有無に関わらず「なんか話しかけにくい雰囲気がある」みたいな指摘は「他者に興味無さそう」と思われてるってことだと思いますし、もし興味があるんならちゃんと態度で示さないと相手には伝わりません。

また「自分が特別じゃないこと」や「何者でもないこと」を嘆くような人の場合は、相手にも「特別であること」「何者かであること」を求めるケースが多くて、そういう人は往々にして「普通の人」を下に見ていたりするんですが、その結果「自分と釣り合う特別な友達」を選り好みする傾向があります。しかし、「本当に特別な人」とは興味の双方向性が成立しないため片思いで終わるパターンが多く、結果的に「友達がいない」に陥ることになります。

【5】「安心できる」フェーズにおいては、双方が「相手の期待に応えるもの」を提供できる関係性であって、信頼関係が必要とされる段階です。

ここで振り落とされるのは「実態の伴わない人」で、適当に調子を合わせてるだけの人や口先だけでなんとかしようする人、言動が一致しない人です。「こいつ調子良いこと言ってるけど、どうせあんまりわかってないだろうな」みたいな相手に対して「こいつは信頼できる」という安心感を抱くことは無いと思いますし、やはり「こいつはどんなことがあっても期待を裏切らない」という安心感を持てる相手でないと深い関係性を構築することは難しいです。

一方でこの「裏切らない」という安心感は一種の依存を生み出す原因にもなっていて、「こいつにならどんなことをしても許される」とか「どんな自分でも受け入れてくれる」みたいな感じになってしまうことがあります。

そして、双方に依存関係が発生している状態が「共依存」であり、どちらかの依存心が強くなり過ぎてバランスを崩していると起こるのが「束縛」とかなのかなと思います。その結果として、友人関係が解消されたりすることを考えると依存心が強すぎる人はここで脱落します。

また、別の視点として相手への興味が態度や行動に表れにくい人もここで躓きます。具体的にはリアクションが薄かったり、全然連絡してこなかったりと、意図せず「あれ?仲良いつもりだったけど、もしかして俺のことキライな(興味無い)のかな?」と感じさせる態度をとってしまう人は結構いて、そういう人は付き合っていくうちに徐々にフェードアウトされることがあります。もちろん「そういう人」と理解してくれる相手がいれば全然問題無いんですが、やはり数は少なくなるので確率的な意味では難しくなると思います。

【6】安心できる人⇒継続できる人という段階においては、長期的に関係性を持ち続ける上での様々な安定感が重視されます。

これはある意味で「打算」とも言える要素だと思っていて、例えば「結婚式に呼べるかどうか」みたいなよくあるジャッジメントから「面倒ごとに巻き込まれないか」みたいな、自らやその家族を守る為の判断まで多岐に及ぶと思いますが、とにかく「自分の人生にとってプラスの存在であるか?リスクにならないか?」という自己保身的な意味合いの強い判断が下される段階だと思います。

この段階で脱落するのは「リスクを抱えている人」です。金銭感覚がイカレていたり、酒癖が悪かったりというのは、歳を重ねるほどに「ついていけんわ」となりやすいんですが、それ以外にも気分の浮き沈みが激しかったり、社会的に年齢相応の振る舞いができなかったり、損得勘定をしたときに「こいつと付き合い続けてもリスクが大きい」と判断されるとアウトです。

まあ、そんなヤバい人とは遅かれ早かれフェードアウトしていくのは当然として、例えば「異性であること」も既婚者にとっては「不適切な関係を持ってしまう(無いとしても疑われる)」というリスクになりえますし、反対に「個人的には仲良くしたいけど奥さんに悪いから遠慮しとこう」みたいな配慮を想定させるコストも同様の「リスク」を認識しているからこその判断だと思います。

他にも「個人的には仲良くしたいけど、社会的格差がありすぎて惨めな気分にさせるかもしれない」「あいつと会うと惨めな気分になるから会いたくない」みたいなパターンもあるでしょうし、これまでの関係性があるが故に発生する様々な配慮を「リスク」と捉えられた上で、付き合い続けるメリットよりそのリスクが大きいとこの段階で脱落します。

逆に「就職や結婚で以前より疎遠にはなったけど、節々でのやり取りが続いている人」はそういったリスク・リターンのバランスが取れている人だと思いますし、そういう関係性が持続できる相手とは「友達」であり続けることができます。

【7】こうして考えてみると、最後の段階こそ、ため息をつきたくなるような世知辛い現実ではありますが、それ以外については一定まともに生きてきてたら「まあそりゃそうでしょ」と納得できるようなハードルであって、「友達にならない理由」は以下のようにまとめることができます。

とも2

こうして見てみると「友達になる」ためには相互バランスが取れていることが極めて重要ではあるものの、どこかのタイミングで個々が自立した存在にならないと関係性を継続できないんだろうなと思います。逆に互いに自立した存在であれば、ある程度ライフステージに違いがあったり、物理的な距離が離れていたとしても友達で居続けられるんでしょう。

とも910

1章で作成した「友達かどうか判断フロー」に当てはめるとこんな感じになります。「遊びが成立する(しそう)か否か」というのはあくまでも「関係構築が可能か」という視点でしかなくて、「関係を継続できるか」というのは別の視点であると考えるとイメージしやすいですね。

4.各フェーズでの対策

【1】前章では各フェーズにおける躓きの原因について整理しましたが、本章ではそれらに対する対策について記述します。

【2】社会との接点が少ないがために友達ができない人は、そもそもの環境が変わらない限りは朝起きて牛連れて2時間ちょっとの散歩道を延々と歩くことになるので、とにかくTOKYOに行くべきだと思います。

ここでのTOKYOとは都道府県としての東京都を指すのではなく「他者と肩をぶつけあいながら生きていかざるを得ない環境」であって、それは物理的に移住するだけでなく、Twitterアカウントを作って日常を綴りながら同じ趣味の人を探してみることであったり、Vtuberの配信に投げ銭してファン同士の骨肉の争いを演出してみることであったり、他者との接点を持つのであれば本当になんでもいいと思います。

上京にあたっては様々な不安が付き物ですし「誰か誘ってくれれば行きやすいのにな」とか思ったりしますが、この一歩を自ら踏み出せるかどうかで大きく変わることはめちゃくちゃ多いので、この段階で「自力でなんとかできた」という成功体験を得ることは極めて重要だと思います。

【3】社会との接点を一定に持った上で「認識されない」というのは、学校生活における「陰キャ」などと呼ばれる存在をイメージされるかもしれませんが、「陰キャ」に友達がいないかというと全くそうではなく、でかい石をめくった時に出てくるダンゴムシの大群のように「陰キャには陰キャのコミュニティがあるし友達もいる」というのが実態です。

本当に認識されない人は「運動系の部活なのに余裕で帰宅部に負けるやつ」とか「草野球には参加するけど打ち上げにはいないやつ」みたいな、あまりにも哀れで少し目を背けたくなるような対象となる存在であることがほとんどで、言い換えれば「意図的に無視されてる」パターンが多いです。

このパターンに陥って切羽詰まった人が衆目を集めるために取る行動は大体奇行に寄っていって、結果的にドン引きされたりするんですが、なんだかんだあっても最終的にダンゴムシコミュニティはそれらを優しく包み込んでくれるので、結果オーライみたいな感じになります。

そして、そのプロセスはどうあれ、そうやって「なんか居心地の良い場所を見つける」というのが、この段階において能動的に取り組める対策だと思いますし、その中で他者との関わり方や自分の立ち位置を認識していくことが大切なのかなと思います。

スクールカーストに限らず、そのコミュニティにおける不文律のカーストはこの段階で刻み込まれるもので、ある意味では「この段階からやり直さないとカーストは変わらない」と思います。高校デビューとか大学デビューはこのやり直しそのものですね。

【4】その上で「相手に興味を持ってもらい、自分も相手に興味を持つ」という双方向性を成立させるためには、「興味を持ってもらえるような素晴らしい肩書や外見を身につけること」を重視するのではなく「物事に深く興味を持つこと」が必要だと思います。

前述の通り、毎日顔を合わせるような人に対して多少興味を持って接していれば、どんな人物であろうともどこかのタイミングで何らかの個性や魅力(欠点)を見出すことは可能ですし、一見何の特徴も無い人同士で構成される友人関係やカップルが世の中の大半を締めていることを考えると、まあまあ多くの人がそれを当たり前にやってることが推測されます。

その多くの人が当たり前にやってることができてないというか「興味の持ち方が浅い」とか「表面的に物事を判断してしまう」みたいな感じの人の場合は、目の前の人物や事象から得られるインプット量の少なさに比例してアウトプットされるものもつまらなくなった結果、「おもしろくない人」と思われて興味を持たれないというループが発生します。

ただ、「興味の持ち方の『浅さ』」が似たレベルにある人同士であれば、相手に対して相互に興味が浅いという「双方向性」が成立するので、そういう人が集まるコミュニティであれば、それで良いのかもしれません。前項における「なんか居心地のいい場所」というのは、この興味の持ち方が近いレベルにあることに起因する「居心地の良さ」を感じる場所のことを指すのかもしれませんね。

余談ですが、「わかりやすい肩書や謳い文句に唆されやすい人が集まる=表面的に物事を判断する」という意味で「そういう人」が集まりやすいオンラインサロン的なところは「そういう人」にとっての友達を作りやすい場所なのかなと思いました。

あと、この辺は気付く人はすぐ気付くし、わからない人には一生わからないと思うんですが、「こいつは俺を『友達としてキープしておきたいだけ』で、俺自身に興味は無いんだな」と感じたりすると一気に冷めます。トロフィーフレンドというか「こんな人とも友達の自分」を演出する為に興味のあるポーズをしていることを看破されると、そこから友達になろうとする人は少ないと思いますし、そういう下心をうまくパッケージできるようになるのもかなり重要でしょう。

とはいえ、そういうテクニックだけでなんとかできるような詐欺師の才能に溢れた人はそんなにいないので、基本的には「物事に深く興味を持つ」というのが必要だと思います。まあ、それはできない人にとってそんな簡単なことではないと思いますし、そもそもそこに課題があるということを認識することすら難しいのかもしれません。

それに、その課題を認識した上で「どうすればええねん」と問われても、まずは「物事に深く興味を持つとはどういうことか」「なぜ自分は物事に深く興味を持つことができないか」というテーマに対して興味を持つことから始めるしかないでしょうし、それができないからと言って「そういう人」が集まるコミュニティに所属できれば友達ができなくて困ることでもないので、そんなに悩むことではないのかなと思います。

【5】こうやって「興味の双方向性が成立した相手」との関係を更に構築していくために必要なのは「一貫していること」でしょうか。

見限るとか突き放すというニュアンスではなく「この人は『こういう人』だから」と笑って付き合っていられるためには、相手の中に『こういう人』という人物像を確立できるだけの一貫性と、それに対する信頼が必要だと思いますし、信頼できるからこそリスペクトをもって付き合うことができるのかと思います。

ただ、この段階における「安心(信頼)感がある」というのは「ちゃんとしてるか」ではなく「キャラとして成立してるか」という点に向けられるものであって、「モラトリアムの中でブレ続ける」というのも一過性のものではありますが「若さ」特有のキャラクター性だと思いますし、その延長として「あいつは相変わらずバカなことやってるな~(笑)」というのも一貫性といえるでしょう。

言動や態度についてはブレていても、芯となる部分の「在り方」についてブレないものが存在しているか、更にそれを理解してもらえるかどうかが重要であって、逆にその「在り方」すらブレてる人は軽薄な印象を受けます。「つかみどころが見えない」というのはミステリアスな魅力として成立するかもしれませんが、「そもそもつかみどころが存在してない」ということが露呈すると大体の人は「こいつとの会話は虚しい気持ちになるな」と感じるので離れていきます。いわゆる「薄っぺらさ」ですね。

これは高校生とか大学くらいまでの友人関係を振り返ってみると強く感じるところではありますが、それくらいの年代においては多く人が程度の差こそあれど「特別な存在であろう(何者かになろう)」という焦燥感に苛まれていて、そのブレブレの状態を相互補完して安心感を得るために「俺らってホント『濃い』よな」的なことを言っていたりします。大人が若者に対してむず痒さを感じるのはこういったところだと思いますし、大抵の人が経験してるからこそ自分の記憶と結びつけて「こっ恥ずかしい」と感じるんでしょう。

逆に言うと、そういうお互いがブレブレな時代の補完関係をリアルタイムに構築したからこそ育まれる『絆』みたいなものは確かに存在していて、多分それが青春時代に得られる「かけがえのないもの」の正体なんだと思いますし、その年代におけるそれは決して薄ら寒いだけのものではないのですが、結構いい年になってもその補完関係を求めてくる人は正直キツいです。

では、どうすれば一貫性を持てるかというと、恐らくは「他人の目を気にせず、自分の心に正直になること」だと思います。ブレブレの人には共通して「他人から~~と思われたい」という気持ちが強すぎる傾向があって、他者の言葉に影響されたり、他者承認を得られないとすぐに方向転換してしまうので、傍から見てると全然言動に一貫性が無いし、他人の目を気にしすぎて自分でも何がしたいのかよくわかってないパターンが多々あります。

「モテたいのでダイエットします!」に対して「モテなかったのでダイエットやめます!」とか「ツラいのでダイエットやめます!」とか言い出すと「モテたい」という点における一貫性が成立しません。ここで「モテたい」という自分の心の基づいた一貫性のある行動は「痩せたので次は髪型変えます!」とかになるはずですが、ブレブレの人は自分の心が所在不明なので、他者承認を得られなかったという表面的な事象を判断材料として「やめます!」になりますし、そういったムーブは「芯の無い人」という印象を強めるだけで、誰かと深い関係を構築していく上ではマイナスにしか作用しないです。

そして、少し戻って「他人の目を気にせず、自分の心に正直になる」ためにはどうすれば良いのかと考えてみましたが、正直答えが見つかりません。座禅とかでしょうか。っていうか自分の心が所在不明な人って案外多いと思いますが、そのままでも十分に幸せな人生は過ごせると思いますし、上述のような相互補完の関係性を構築できるコミュニティは大人になっても多数存在しているので「そういうところにいけば良い」と思います。

また、相手への興味が態度や言動に表れにくい人については「結婚生活では毎日愛を囁くのが大事」みたいなのと同じで、意図的に「自分が相手に興味を持っていること」を伝えるのが重要だと思います。「あなたの~~なところがおもしろいと感じている」ということを自分の言葉や態度で明確に伝えるだけのことではありますが、奥ゆかしい日本人には苦手な人が多いです。ただ、最初こそ恥ずかしいかもしれませんが慣れると楽勝ですし、自分の言葉で考えたり、それを言葉や態度として実際に示すことで相手に対する愛着も増すので、「この人とは良い友人関係を続けていきたいな」と思う相手にはちゃんとリアクションしたほうが良いです。

「自分から誘うのが苦手」という人のほとんどが「自分から誘っても来てくれないんじゃないか」とか「忙しいだろうし迷惑なんじゃないか」という懸念を抱いてるパターンだと思いますが、すでに一定以上の関係性が構築されている場合は、その程度で崩れるようなものではないので安心してガンガン誘っていけばいいと思います。そうやって躊躇して関係性をメンテナンスをしなかったせいで、気付いたら誰も友達がいなくなっていたというのは大人あるあるです。

【6】最後は一定メンテナンス可能な関係性が存在している上で「今後も維持するべきかどうか」という判断に晒される段階ですが、ここにおいては「精神的/経済的/生活的に自立していること」「お互いのライフステージを理解してそれを尊重できること」の2点さえ押さえておけばあとはなんとでもなります。

逆に「精神的/経済的/生活的に自立できていない」「相手のライフステージを理解/尊重できない」というのは、ものすごくざっくり言うと「大人としてちょっとヤバい」に等しいと思っていて、20代ならまだしも30代でこれだと「この先こいつと友達のままでいいのかな?」と思われても仕方ないです。

具体的なエピソードとしては「深夜に泣きながら電話してくる」「カネを借りにくる」「いきなり自宅に遊びに来る」「学生時代のノリで朝まで遊ぼうとする」みたいな感じでいくらでも出てくると思いますが、お互いに独身で一人暮らしなら一定は許される範囲ではあっても、家庭を持つ相手にとっては基本的に全てNG行為です。

未婚/既婚や育児だけでなく仕事における役割の変化、親の介護など、そういったライフステージの変化に伴う生活様式の違いが直接的なきっかけとなって疎遠になるパターンというのも少なからず存在するとは思いますが、個人的にはお互いに自立していて、ライフステージを理解/尊重した上で「これからも付き合っていきたい」と思っていれば、会う機会は減っても細く長く続いていくし、またどこかで交差することもあって、そうやって交差するタイミングこそ「こいつと友達で良かったな」と痛感するときだと思っていて、これまでの人生において疎遠になっていった人達は、どちらかが「付き合い続ける必要無し」とジャッジしたからこそ疎遠になったと考えるのが妥当だと考えています。

白木屋コピペはまさにこの「ジャッジメント」を描いた作品だと思っていて、「これくらいの年齢ならもっと良い店に行けるはずなのに貧乏でいけないこと」に悲しみが存在しているのではなく「この関係性はもう維持できないだろうと思い始めていること」にこそ悲しみが存在していると思います。

この悲しいジャッジメントは恐らく生涯に渡って続いていくことだとは思いますが、このコピペにもあるように学生時代から続く友人との関係性を精算するような文脈において行われることが多いと思いますし、「もう年賀状送らなくていいか」みたいな温度感も含めると、ほぼ全ての人がそれを考えた経験があるでしょう。最近話題になってたこの増田とかも完全にこのジャッジメントの話ですし、大体の人が高校か大学くらいまでは行ける現代社会において、真の社会的分断が起こるタイミングは働きだしてからなんだろうなと思います。

そして、同世代の友人からそういった「ジャッジメント」を喰らい続けて友達がいなくなった結果、若い人たちのコミュニティにすりよってきた存在が「年齢不相応なコミュニティに出入りして先輩ヅラしてるおじさん」であって、最初は博識ぶりや物珍しさから歓迎されたとしても、次第に何らかの「欠落」が露呈してキモがられるというのが王道です。

多分この段階においても明確な対策は無くて「ちゃんとする(精神的/経済的/生活的に自立して、相手の暮らしを尊重する)」としか言えません。まあ、それができれば世話無いんですが。

【7】ステップごとの対策をまとめるとこんな感じです。

とも3

こうして眺めてみると、大抵のことは「適切なコミュニティに属していればなんとなくクリア可能」な気がしますが、これは前稿"何者かになろうとする人"で少し触れた「シェルター」に逃げ込むという意味合いでしかなくて、あまり本質的な解決方法ではないと思います。

とも11

もう少し抽象度を上げて、各ステップ毎で求められる対策と割合を整理してみるとわかりやすくなります。友達を作る=人間関係を「構築」し「維持」していくためには、そのステップを進めるにつれて技術論的なもの(適切なコミュニティ選択やコミュニケーション)が通用しなくなって、最終的には「人としてどう在るか」みたいなところだけが問われるようになっていくんだと思います。

とも12

ちなみに「依存」というのは、この図で不足している部分=紫を他者に頼って埋めさせようとすることであって、そこが大きければ大きいほど躓くタイミングが早まっていくんでしょう。精神的/経済的/生活的に自立していないというのは勿論NGですし、いわゆる「コミュ力」を「適切にコミュニケーションする能力」と定義した場合、自分の意志を汲み取らせることや相手に説明させることに頼り切ってしまう=依存しすぎると、どこかのタイミングで三行半を突きつけられるでしょう。また、「適切なコミュニティに所属する」ということにおいては、白馬の王子様願望的な「いつか誰かが迎えに来てくれるはず」と夢想することが「依存」と言えるでしょう。

勿論、他者との関係構築においては、共依存的とまではいかずとも互助的な動きがあったほうが関係が深まりやすいというのはあるでしょうし、他者への完全に依存を断つのは非現実的だとは思いますが、関係性が深まるにつれて強くなる「依存したくなる気持ち」をコントロールできない人は「友だちができないわけではないけど長続きしない」という状態に陥ります。

5.モデルケースを用いた検証

【1】ここからは更に具体的にイメージしやすいようにモデルケースに当てはめて考えてみましょう。

とも5

大学デビューに成功したパターンですが、地方出身者においてこれはかなり王道だと思います。地元に大して仲の良い友達はいなかった(そもそも同世代がいない=①で躓くorコミュニティの属性に合わない=②で躓く)けど、TOKYOでは同好の士を見つけられて交友関係が広がっていくみたいなパターンは容易に想像できますし、思い当たる方も多いのではないでしょうか。

また、MLMやオンラインサロン的なところで「覚醒」する人も大体このパターンで、それまで居心地の悪さを感じ続けてきた人にとっては「やっと自分の居場所を見つけることができた」という安堵感があると思います。

ただ、このパターンにおいては⑤継続できるかという点において不安要素を残していて、大学卒業というタイムリミットは勿論、30歳過ぎてMLMとかオンラインサロンに入れ込んでニコニコしてるだけなのは「そろそろ結果出せよ」って感じなので、どこかで依存関係を精算=ちゃんとしないと時間経過とともに友達が減っていくことになります。

【2】そこでちゃんとできなかった人が陥りやすいパターンが次のモデルです。

とも6

①~④については先程の成功パターンを踏襲していますが、⑤周辺でドロップアウトする感じですね。とっくの昔に卒業したのにやたらサークルに顔を出したがるOBとかがイメージしやすいと思いますが、大体そういう人は同世代から相手にされてないとか何らかの後ろめたさがあるので、自分を受け入れてくれそう=依存できそうなコミュニティに逃げ込んで来るんだと思います。

勿論そこにもタイムリミットはあって、最初は良くても続けていくうちに確実にウザがられますし、多分どこかでハブられ出します。

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かってに改蔵で「逆セリエA」という話がありましたが、そうやってハブられて、自分を受け入れてくれそうな居心地の良いコミュニティを探し求めた結果、「SSWおじさん」「芸大おじさん」みたいな強い瘴気を纏った妖怪が誕生するのかなと思います。

おじさんの正解が「沈黙」であるというのは、近年まことしやかに語られていることで、その「語りたさ」の源泉となる承認欲求みたいなものを理性でコントロールするのが如何に重要かというのは、いわゆるハラスメントに関する講習会で必ず言及されていると思います。

この作品においては、ディストピアの象徴として「おじさんの声かけはギルティ」と明確に描写されていますが、実状もこれに近いものがあると思いますし、刑事罰の対象となるかならないかだけで「不快」の対象となることは間違いないです。

「なにかに依存しようとする」という行為や態度には、それ自体が「可愛さ」として捉えられる側面が存在していて、「守ってあげたい」みたいな気持ちを想起させる要因にもなり得るとは思うのですが、それは子供や女性といった「庇護されてしかるべき存在」という前提が社会一般にあるから成立するものであって、そこから対極に存在する「おじさん」が「依存しようとしてくる」というのを不快と感じる人は少なくないでしょう。

ここが所謂KKO問題における「性的役割の強要(男ならちゃんとせえ)」みたいな話の核だとは思いますが、残念ながら現状として「依存しようとするおじさんを不快に思う人が多い」というのは事実でしょうし、それによって人が遠ざかっていくことは多々あると思います。

【3】ちょっと悲惨すぎるので、別のケースにいきます。

とも7

世の中において「コミュ障」と呼ばれる人は②~④で躓いているパターンに分類できます。その中でも「発信が弱すぎて認識されない」「興味の示し方が適切でない」「そもそも興味が持てない」に分類可能ですが、体感としては「興味の示し方が適切でない」が7割を占めていて、「興味が持てない」が2割で「発信が弱すぎて認識されない」が残り1割みたいな感じだと思います。

なので、ここに分類される友達ができない人に対しての「もっと積極的に前に出ていこう!」というアドバイスはあんまり有効ではなくて、それよりは「目の前の人にちゃんと素直な気持ちを伝えましょう」のほうが有効だと思います。多分、話しかけてきてくれる人は多少なりとも興味を持って話しかけてきているので、うまく伝わるかどうかは別としても真摯に対応するのが良いと思います。

それを乗り越えてやっと「伝え方≒コミュニケーション能力」が原因なのか、そもそも人としてキビしいのかを切り分けることが可能です。

【4】一定の社交性はあり、色んなコニュニティに顔を出すけど、その実どのコミュニティでもうっすら嫌われてたり、相手にされてないというモデルケースはこうです。

とも8

ここから辿る道は「先輩ヅラおじさん」とほぼ同じではありますが、違いを挙げるとしたら「同世代から取り残されていった結果として、逆セリエAを繰り返しているわけではなく、若い頃からすでに『薄っぺらさ』を看破されて、相手にされてこなかった」という点でしょうか。

「コミュ障」を自称する人の中には「自分が薄っぺらいと思われたくないから素直な気持ちを外に出せない」というパターンと、逆に「自分に友達ができないのは薄っぺらいからではなくコミュニケーション能力が不足しているからだ」と主張するために「コミュ障」を自称しているパターンがあると思っていて、前者の場合は「とりあえずがんばれ」なんですが、後者の場合は現実逃避に見えます。

「コミュ障」を自称する一部の人に対して、心のどこかでチリチリと感じる「痛々しさ」の正体はそこにあって、「お前の課題はそこじゃないよ」と言いたい気持ちを抑えながら「コミュニケーションって難しいよね」とか言いながら後退りした経験は何度もありますが、多分このモデルケースにあてはまるような「客観的に見て一貫性が無く、人物としての薄っぺらさを感じる人」は、薄っぺらさ故の不整合をありがちな能力問題に当てはめてみようとするように、自己の課題と正面から向き合えないからこそ薄っぺらいままなんだと思います。

【5】ついでにひきこもりモデルも作ってみました。

とも9

これだけ見ると「先輩ヅラおじさん」や「薄っぺらい人」みたいなリアリティを伴った「キツさ」は無いんですが、ここから更に乗り越えなければならないステップが複数存在していることを考えると、「一刻も早くそこから出たほうがいい」とは思います。まあ、その先のステップが見えているからこそビビって出てこないんだとは思いますが、基本的に待ってても事態は好転しないので現状に対して「ヤバいな」と思うのであれば、自分から少しでも動いたほうが良いと思います。

まとめ

【1】ここまで整理してみて、「そもそも『物事に深く興味を持つ』とか『一貫性を持つ』とか『ちゃんとする』って誰にでもできることなのか?」という疑問が生まれました。そして、多分それは無理な人には無理だと思いますし、結局は「(自分に優しくしてくれる)適切なコミュニティに所属する=シェルターに逃げ込む」ことで孤独という寒さを凌ぐのが精一杯なんじゃないかと。

そう考えると、MLMや詐欺まがいのオンラインサロンであったり、カルトチックな新興宗教/スピリチュアルのような「怪しい界隈」は「友達がいない人」にとって非公共性の社会福祉機能を持っていて、何らかの団体がホームレス対象に炊き出しやってたりするのとほとんど同じ役割を果たしているのかなと思います。

【2】炊き出しに対して「民間団体の好意に頼らずに公共福祉として整備すべきでは?」という論点は存在しますし、「孤独」というテーマに関しても「国は非モテ男に女をあてがうべき」みたいな力強い話が存在していることを考えると、「怪しい界隈」に突っ込んでしまう人も公共福祉のネットワークによって庇護されるべきでは?とも思ったのですが、確実に「女あてがえ論」みたいな感じになるでしょうし、基本的には現状維持で良いのかなと思います。炊き出しに関しては「死」が現実味を持って存在していますが、別に友達や恋人がいなくても死にはしないですし、シェルターの中の人は案外楽しそうに見えます。

【3】とはいえ、個人的に引っかかる部分はあります。それは「生きる難易度、いつのまにか上がってない?」という点であって、友達を作ってその関係性を維持するという当たり前っぽいことですら、それを細かく分解してみると、やれ「興味を持て」だの「ちゃんとしろ」だのそれなりに難しい気がしますし、決して万人が当たり前にできることではないと思います。

「友達を作る」という行為も就職活動と同様に数十年前と比べたら確実に要求水準が高くなっていて、仕事する中でも目標設定だKPIだと「成長」を求められることが多いですが、そういうのって一部のエリートにのみ厳しく求められるものであって「全員がそうあるべき」なのかと考えると、非現実的な理想論に思えます。

自意識過剰な無能、いわゆる「意識高い系」が生まれた背景には、そういった「成長し続けること」を万人に求める世の中の風潮があったような気がしますし、社会において求められる「あるべき像」の高度化はそこの構成員にとっての恒常的なプレッシャーになって、メンタルを蝕んでいくんだろうなと考えると、「もっと適当で良いんじゃない?」と思ったりします。

この辺について、実は経営者層とか偉い人の方が理解してるケースが多くて、社訓みたいなので掲げられてる理想の社員像については「2-6-2の法則」よろしく2割いれば十分で、6割は言われたことを確実にこなしてくれればいいし、できない2割はもう仕方ないと割り切ってるような人は結構います。(それこそがリアルな「エリート意識」の正体だと思いますし、そこから生まれる弊害も少なからずあるとは思いますが、その是非についてここでは問いません。)

とはいえ、企業としては対外的なスローガンとかCSP(Corporate Social Performance)的な意味合いで意識高い文言を掲げておいた方が良いですし、「こうだったらいいな」という理想像を掲げておくことで人材育成の目標が設定しやすくなるなど、メリットのほうが圧倒的に大きいので大体どこの企業でもそういうのを持ってるという感じです。

逆に言うと、ここを割り切ってなくて全従業員に全力で理想像を押し付けてくる経営者が企業を黒く染めていくんだと思いますし、経営者はある程度理解していても、それら意識高い文言を愚直に受け取った個々のメンバーが自発的に黒く染めていくパターンもあると思います。

【4】ここで言いたいのは「求められる能力水準は明らかに高くなってきているし、しんどければ『降りる』という選択をすればいいのでは?」ということであって、そこから「降りる」という選択自体は尊重されるべきものだと思いますし、勿論後ろめたさを感じるようなものではないです。そして、それは個人において「降り方がわからない」という課題も存在するとは思いますが、それ以上に「安心して降りられる場所が無い」というのが最大の要因だと思います。

そしてまた"真説・ミヤハヤ夜話"と同じようなところに帰結してしまうんですが、「(友達や恋人ができなかったり、仕事がうまくいかなかったりで)現代社会に馴染めなかった人」の生き方については(それらを綺麗に社会からパージすることも含めて)まだまだ考える余地があると思います。

【5】「友達がいない人」に話を戻すと、もし友達のいない孤独に耐えかねるのでれば、求められる能力水準の低い世界に降りたら良いということで、そういうときに役立つコミュニティは沢山存在するということです。

ただ、自助努力で何とかなる部分も大いにありますし、そうした努力や自己研鑽こそが「人としての魅力」を作り出す最大の要素であるとは思うので、元気があるならそうした方が良いとは思います。「やれるとこまでやってみて、無理だったとしても何とかなる」くらいの心持ちでいるのがちょうど良いと思いますが。

【6】「できないものはできない」と割り切ることは「(その分野において)自ら成長を止めること」に他ならないと思いますが、「成長し続けることが人として在るべき姿である」みたいな信仰をベースに、現状に満足してある意味で緩慢な死を受け入れるような選択を否定してしまうと、「生き辛さ」を感じる人はこれからもどんどん出てくると思います。

池田先生の仰る「まだ東京で消耗してるの?」は、そういう成長信仰に対するアンチテーゼ的なポジションをとった上でのプロモーションだと理解していますが、「そのままのあなたで良いんだよ」という優しい言葉と「大衆は愚かなままのほうが都合が良い」みたいな支配階級的な目論見はかなり深くリンクしています。

そのへんの「世の中の風潮にノせられて変に無理する=消耗する必要は無いと言って安心させた上で、低きに流れてくる人達からカネを巻き上げている」という構図こそが池田先生がEvilと批判される理由だとは思いますが、一方で自分にとって居心地の良いコミュニティが見つからずに「友達のいない人」が、そこで同志と出会い、目を輝かせながら生きていけるとを考えると、多少小銭を巻き上げられる程度で済んでるのはめちゃくちゃ良心的な気がします。

私はオンラインサロンのようなコミュニティを「シェルター」と表現しましたが、こちらの記事の要旨である「オンラインサロンは『参加者を気持ちよくさせるサービス』を提供している場所」というのは正鵠を射ていて、その対価としての料金を払っていると考えれば、ガールズバーと何ら変わらないですし、ガールズバーに通うのはその人の趣味の範囲なので全く問題無いと思います。更にそこからキャストに入れ込んで借金まみれになるのも自己責任の範囲ですし、池田先生が「俺の言うことを真に受けて身持ちを崩そうが知るか」と仰るのも当然ですね。

【5】こう考えると、友達を作り、その関係性を継続していくことに一定高度な能力や成長が求められる現代において、がんばっても友達ができない人には「世の中にはそういうサービスがあるからどんどん活用していこう!」と案内するのが最も適切な気がします。

「金を使う」という行為は経済活動そのものであって、その為に働いて稼ぐのであれば、それは完全に経済の担い手ですし、税制的にも貧乏人からちょっとずつ集めるより一処に集まってる方が効率が良いので、マジで誰も損してないですね。

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「税」は偉大です。

【6】そろそろまとめます。「カネで満足を買う」というソリューションの有効性は改めて痛感したんですが、とはいえオンラインサロン的なコミュニティであろうが、ガールズバーであろうが「自分を気持ちよくしてくれるコミュニティ」にお金払ってまでズブズブになっているのは間違いなく「過度に依存(しようと)している状態」です。

「依存=悪」ではありませんが「依存してくるやつと積極的に友達になりたいか?」と問われると、個人的にはNOですし、一定大人になるとそういう人と付き合い続けるのはリスクになるというのは前述の通りです。

とはいえ現代社会においては、他者に依存したままその生涯を幸せに終えることは不可能ではないと思いますし、一般的に「依存関係は危険」とされますが、本人にとって幸せならそれでいいのかもしれません。

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一方でポコの姉ちゃんの言うように「大人になってもひとりじゃなんにもできない方がこわい」と感じる人はできる限り他者への依存を断ち切ろうとするでしょうし、そういう「ちゃんとした人」が大多数だからこそ世の中は今日も平和に回っているんだと思います。

こうやって「現代において依存せずに生きていくためには『ちゃんとする』必要がある」と考えてしまったり「依存するのはダサい」と認識してしまうのは、ある意味では成長信仰の呪いから逃れられていないということだと思いますが、友達に対して「尊敬しあえる相手とともに成長したいねん」と思うことは別に悪いことではないので、それが無理そうな相手との関係性を断ち切るのは非難されるようなことではないです。

ここで改めて「友達」の価値について考えたとき、「同時代性をもって経験を共有することで実在への安心感が生まれる」とか「他者と深く交流することで人間的に成長できる」みたいなのが色々出てくると思うのですが、最大の価値は「他者に過度に依存してしまいそう(例:カネ払って気持ちよくしてもらうことにズブズブになってしてしまう)なとき、ストッパーになってくれる」ことなのかもしれません。

そして、友達のいない=ストッパーのない人たちがそれぞれの「居心地の良い世界」を見つけて定住していった結果、社会の分断が進んでいくんだろうと思いますが、それが自己選択的なものである以上は「それで良い」と思います。反対に一人でも依存しすぎない=ダサくならないような自律的な人の場合は友達がいなくても問題無いんでしょう。

【7】他者に依存したい気持ちを責めることは誰にもできません。そして、そういう人達がそれぞれの「居心地の良い世界」に散らばった結果、社会的な分断が生まれたとしてもそれはそれで良いんでしょうし、そこに存在する「誰かにとっての居心地の良い世界」に対して「不快だから」という理由で攻撃を仕掛ける権利は誰にもありません。

反面、自分の世界を侵害するほどに依存的な姿勢をとってくる輩に関しては顔面に焼きゴテを押し付けて永久追放すればいいと思います。どんなに付き合いが長かろうが、ズルズルと依存的な関係を続けるよりもきっぱりとジャッジメントするほうが、結果的にお互いにとっての幸福度が高くなるので、「あ、こいつ無理だな」と思ったらどんどん斬首していったほうが良いです。

【8】どこからどこまでを「友達」と考えるのかは人それぞれですが、「一生モノの友達=親友」というのは、そういう大淘汰の果てに生き残った存在です。もし、誰かと「この人とは友達として一生付き合っていきたいな」と思うのであれば、自分がその淘汰の先に立っていられるような存在であるかをしっかりと考えることが重要ですし、それが無理そうなら別のコミュニティでやり直せばいいと思います。

そういう焼畑農業を繰り返した果てに、奇跡の果実を実らせるのか、死の大地だけが広がるのかは結局自分次第だとは思いますし、未だに奇跡の果実を手にした人を見たことはありませんが。


以下、好きな乾麺の話を書きます。

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