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真説・ミヤハヤ夜話

むちゃくちゃ長いです。本文はすべて無料。

用語解説:宮森勇人(ミヤハヤ)

1986年6月11日生、石川県出身の男性。地元の高校を卒業後、龍谷大学へ進学するも1年半で中退。その後、東京の服飾専門学校に進学するが、こちらも1年で中退。フリーター生活を続ける中で「どうやら会社勤めには向いてない」と気付き、「誰かに喜んでもらえるようなことをしたい」という思いから、社会活動家を名乗り始める(27歳)。

この辺りから「家入一真さんの講演会」「ホームレス小谷さんの結婚式」といったイベントの企画や運営を通じて、ソーシャルビジネス界隈におけるプレゼンスを獲得していく中で、渋谷区会議員を目指して政治活動を開始(28歳)。

政治活動を行っていた証跡(政治団体としての収支報告書):

図1

しかし、区会議員選挙を直前に「やっぱり政治家は向いてない」と思い立って実家に帰省。引きこもり同然の生活をしていたところ、友人に背中を押される形で、ブログ「ミヤモ the media」を開始(29歳)。

その後、再び上京しブログ仲間とシェアハウス「ハイパーリバ邸」を立ち上げるためのクラウドファンディングを実施。「50円依頼」などで注目を集めプロジェクトを達成に導くも、炎上のストレスや、自分自身の志向と進もうとしている道との葛藤からアルコール依存状態になり、二度目の帰省(30歳)。

アルコール依存状態から回復し、三度目の上京とともに「ラッパー」を名乗るも、2ヶ月で断念。その後、現在の画家としての活動を開始(31歳)。

画家としての活動を本格化。初の個展を開催。画家としての活動の傍ら「写真家」を名乗るも2ヶ月で断念(32歳)。

個展及びクラウドファンディングにて工面した資金によってルワンダ旅行を実施。画家としての活動の傍ら、ボクシングプロテスト合格を目指すも2ヶ月で断念。京都、東京にて、それぞれ個展を実施(33歳)。

用語解説:ネットウォッチ(ヲチ)とは

主にインターネット上のアカウントやコンテンツなどを遠巻きに観察しながら「何いってんだこいつ」と嘲笑する行為。当然2ch由来の文化で、現在ほどインターネットが普及していない時代においては、主に「個人ホームページを運営する人」や「チャットルームにいる人」が対象となっていたが、MMORPGの出現により特定のプレイヤーを対象とした問題行動を指摘する「晒し」が増え、SNSの隆盛以降は個人のSNSアカウントを対象とした「晒し」の意味合いが多くなっている。

2chのネットWatch板においては「おさわり厳禁(観察対象への干渉をしない)」という暗黙のルールが存在していたが、現在ではSNSにおいて(ほぼ匿名のまま)直接やり取りをできるようになったことや、そもそもそのルールの存在を知らない世代が増えたことによって、単純に観察するだけでなく対象に対する直接的な批判・中傷・揶揄といった「炎上」につながるケースも多い。

序文:これまでの経緯

政治家を目指されてる時(約5年前)に存在を認識して以来、定期的に炎上されてるのを見ていました。度々炎上する様子を見ながら「この人、いつか死ぬんじゃないかな」と思ったりしながらも基本的には静観してたんですが、写真家を名乗りだされた2018年末頃からTwitterで発表されていた写真作品のクオリティに堪えきれず言及するようになりました。それからも様々な言動をネタにしたり、意図が理解できないツイートに対する指摘等をしていたら、2019年2月16日にブロックされました。

そして、その前後から質問箱(匿名で開設者に向けて質問ができるサービス)に「画家ミヤハヤ」に関する意見を求める投稿や「こんなこと言ってましたぜ」的なタレコミ、ミヤハヤ氏の言動に対する苦言などが大量に送られてくるようになったため、彼と彼を取り巻く環境に関する自分なりの考察をまとめて回答するようになりました(その「ミヤハヤ夜話」が本稿の基礎となっています)。ちなみに、個人的には「同じような質問する前に読んでくれ」というつもりで書き始めたんですが、そんなのは往々にして読まれないもんですね。

個人的には「ミヤハヤ夜話」を最初に投稿した段階くらいで彼の言動に対する「(ネタとしての)面白さ」みたいなものはもう大分希薄になっていて、それよりは「この人の炎上メカニズムをちゃんと理解できれば、ネット上におけるトラブルの根底にあるものが理解できるかもしれない」という予感と、「この人、このままだと死ぬな」という懸念が存在していました。

「ミヤハヤ夜話」を続けていく中で、寄せられる質問についても少し変化が見られるようになり、彼の言動に対する否定的な意見だけではなく、「こういうことを言いたいのでは?」と理解を試みる人や「彼はどうしてこうなっているのか?」というメカニズムに興味を持つ人、「自分はなぜミヤハヤに対してそう感じてしまうのか?」と彼の言動を通じて自分を深く知ろうとする人など、かなり多様性が増していった気がします。

こういう多様な反応を見ていると、彼が「アンチ」と認識している人たちの中には嘲笑や罵倒だけでなく「自分の中でなんかモヤモヤする感情の正体を知りたい」「そのためにミヤハヤ氏への理解を深めたい」という視点が沢山存在していることが認識できましたし、彼が何らかの炎上の中心にいる際に第三者からのフォローがあまりにも少ない、もしくはあっても「炎上に負けないでください」といった激励の言葉ばかりであることを見ていると、そもそも彼自身に対する「理解度」という切り口においては「アンチ」どころか好意的に捉えている「ファン」ですらも、その実態を正確に理解している人は少ないのかなと感じました。

その一方で、ミヤハヤ氏がご自身に関して否定的な(に見える)言説に対して深く心を傷められたり、それらを過度に拒絶されているのを見ていると「このままだと(社会的、精神的に)死ぬのでは」という懸念は一層強まりましたし、そんな状況の中で「そもそも理解者が少ないのでは?」と考えてみると、死の危険性はますます高まるばかりで「これは冗談抜きで一回言っといたほうが良いな」という風に思うようになりました。この個人的な懸念については、クラウドファンディングへの支援とその後のメッセージのやり取りを通じて、概ね伝えることが出来たので、こちらとしては一旦「やることはやった」という感じではありましたが、やり取りの中でミヤハヤ氏から会談のご提案を頂き、ご厚意に甘えさせていただく形で2019/11/1に直接の対話が実現した次第です。

そして、これまで推測で回答していた「ミヤハヤ夜話」についても、ご本人との対話を通じて、推測から確信に変わったことや想定の範囲外だったことがありますので、「真説・ミヤハヤ夜話」として再度ここにまとめていきたいと思います。

1.人柄について

【1】彼をよく知るご友人からは「誠実」「義理堅い」と称される一方で、「〜〜やります!⇒やっぱりやめます!」の流れを繰り返すことに代表される一貫性の無さや、言動の不一致から「不誠実」とも評価される彼ですが、そうした真逆の印象を持たれる理由は「ルールの違い」によるものだと思います。

この点については「ミヤハヤはミヤハヤルールにおいては極めて誠実でありながらも、他者のルールにおいては不誠実になりうる」ということだと思っていて、ミヤハヤ氏は自分の中で「それがこの人に対する最大限のリスペクトだ」と思えば、一般的には喪服が好ましい葬儀においても、白のタキシードを着てしまうタイプなんだと思います。そして、その社会規範から逸脱した行為に対して「常識知らずのバカだ」「自己満足で行動するな」といった否定的な意見が存在するというのは、まあ当然だろうなと思います。しかし、彼にとっては本心から「最大限のリスペクト」だと思っている以上、それを強く否定されるのは本当に想定外のことなんだと思います。

【2】だからこそ、それらの否定に対して本気で傷ついてしまうのかなと思いますし、一見すると過剰とも思えるような拒絶反応についても、本気で「自分にとってはこれが誠実な行為だ」という認識に基づいてやってるからこそ、それを嘲笑したり否定するような人達と理解し合える気がしないという気持ちの表れなのかと思います。しかし、そのルールを共有しない人達の眼には、ルールを無視した挙げ句にその指摘に対して反発する姿勢が「被害者ぶってる」「都合の悪いものから逃げてる」という風に映ってしまうんだろうなと思いますし、それを受けて更に「アンチは即ブロック」のような強固な姿勢が構築されていったのかと思います。

【3】このような「誠実さ故の不調和」というか「融通の効かなさ」は、ルールを共有しない人にとっては単なるわがままでしかないんですが、見る人によっては自らを貫く「高潔さ」にも映るのかなと思いますし、根底に存在する信念をしっかりと周知させれることができれば、周囲の受け取り方も変わってくるかもしれません。ただ、元々ロジックで動いていない彼がそれを周知させるために必要なのは「説得力」ではなく「自分は『こう』だ」と言い切る自信だと思います。

【4】その点において、彼にはそれを言い切るだけの自信が無いと思っていて、実際にお話した中でも「言い切るのは苦手」と仰っていました。そして、その理由として「必ずしもそれが正解とは限らないから」「言い切ってしまうことで逃げ場が無くなる人がいるかもしれないから」というものを挙げられておりましたが、エモーショナルに物事に突っ込んで「ダメでした!」と言えるタイプの彼が「正解かどうか」を気にしているというのはかなり違和感がありますし、言い切るのはあくまでも現時点における自分のスタンスであり、それを明確にすることは誰かを否定することではないと思います。それにも関わらず、正解や他者を気にしてしまったりする背景には、やはり自他を比較しすぎていたり、投影してしまったりと、自他境界が曖昧というか、自己同一性が確立していないことに起因する、他者からの「拒否」や「衝突」に対する強い恐怖があるのかなと感じました。

【5】ちなみにこの「自分なりの誠実さを貫きたい」「でも拒否されたくない」というのは、誰でも抱えたことのある普遍的な葛藤であり、その結果「自分を貫きたいから、周りの眼なんて関係無い」と開き直る方向に転んだり「衝突するのはしんどいから、自分なりの誠実さではなく、周りに理解されやすい誠実さを持とう」と社会化する方向に転んだり、自分なりのバランス感覚でそれを判断していくのかなと思っていて、勿論どれが正しいとかではないんだと思いますが、ミヤハヤ氏は「自分を貫きたいけど、衝突もしたくない(拒否されたくない)」という矛盾を抱えたままの道を開拓しようとしているのかなと思いますし、ほとんどの人は二者択一をせざるを得ない中で、それらを両立させようとする姿勢は「わがまま」や「愚か」に映るんだと思います。

そして、あえてその「矛盾した選択」をすることも、彼の中では「自分の心に正直であること」という「誠実さ」を優先した結果なんだと思います。お話をする中でも「自分の心に正直に話そう」という姿勢を貫かれてましたし、彼の中での「誰に対しても本音であること=誠実であること」の価値は恐らく何よりも高くて、例えその「本音」が論理的に破綻していても、そのまま伝えることに価値があるんだと思います。

【6】この「自分なりに誠実であろうとする」という信念こそが彼の魅力であるというのは間違いないと思うので、自信を持って「俺は『こう』だ(から仕方ないだろ)」と言い切ることができれば良いんですが、「誰かと競うのが好きじゃない」という言葉が表すように他者との衝突(拒否)を避けたがる性格というか、「周りがどうあっても自分は自分」と割り切ることが出来ない自他境界の曖昧さがそれに歯止めをかけているのかなと思います。そして「俺は『こう』だ」と言い切れないせいで、そのスタンスへの理解が進まず、更に後述の文章表現における癖によって意図しない衝突を引き起こしてしまうという「損な性格」をしている人だというのが、実際に会って得た私の認識です。

【7】直接コミュニケーションをした印象としても、好人物であることは間違いなかったので、自らが「こうありたい」と掲げた信念(価値観)と自己同一性が不安定であることの相性の悪さ、そして後述の文章表現の癖が主な原因となって、本人の人柄の良さとは裏腹に可燃性の高い「ネタ」に仕上がったのかなと思います。

ただ、これまでの炎上で心を痛めたり、心のバランスを崩してしまわれたことを踏まえると、炎上によって注目されてしまったことや、そのイメージが先行・定着してしまったことは、ご本人にとってやはり不幸なことであり、多生のご縁をいただいた身としては、彼を理解するための視点を共有することで、彼にとって少しでも生きやすい世の中になるようにと願い、本稿を書いています。なお、本稿の公開にあたってはミヤハヤ氏ご本人に内容をご確認いただいておりますので、その点についても御理解の上ご一読いただけると幸いです。

2.文章表現について

【1】前項にて「信念×性格の相性の悪さと、文章表現の癖が原因となって炎上しやすい」ということを書きましたが、ミヤハヤ氏の言語感覚は相当に特殊です。

実際にお会いした際、「天皇陛下が『国民に寄り添う』と仰っていたように自分も《民衆》に寄り添っていきたい」と仰っておられて、その他にも「民衆」という言葉を多用されていたんですが、「民衆」を用いる際の主語は「国家」や「政府」もしくは「貴族や王族」といった支配階級であることが一般的で、我々一般市民が「民衆」という言葉を使うのは、対立する相手として支配階級が存在する場合か、もしくは自分を卑下する表現や皮肉のニュアンスが含まれる場合かと思います。

こういった独特な言語感覚について、その他の例を挙げると枚挙に暇が無いので割愛いたしますが、「例え言い間違いだとしても、内心でそう思ってるからそんな言葉が出てくるんだ」という考えがそこそこ浸透している現代社会においては、上記の「民衆」という言葉が出てくる背景には「自分が民衆とは違う特別な存在である」という認識が存在しているはずだ、と考える人は少なくないでしょうし、そんな言葉を配慮無く振り回すと「お前、何様のつもりなんだ?」という反発が生まれるのは、当たり前だと思います。

彼の場合は、前項にて述べた自己同一性の不安定さ故に「そう思わないと『自分』を維持できない」という自己暗示的な意味合いもあるのかもしれませんが、それにしても強い言葉を無自覚に振り回しておられるなと感じることは多々あって、実際に彼の文章を読んで「何となくイラッとする」という風に感じたことのある方は多いと思います。

【2】この「何となくイラッとする」が自覚的に行われた「煽り」であれば、それはそういうギミックとして理解できますが、ミヤハヤ氏の場合はそれを天然でやってしまっていて、もはや無自覚に毒ガスを撒き散らしながら歩いているようなものではあるので、そりゃ駆除されそうになるのも仕方ないと思います。ただし、本人に毒ガスを撒き散らしている自覚が無いのであれば「ただ生きてるだけなのに何で撃たれないといけないんだ」と理不尽さ感じるのも当然のことだと思いますし、「自分になにか原因があるのでは?」という考えに至らなければ「外の世界にはヤバい奴がいるから関わらないほうがいい」と考えて遮断しまくるのは自衛の手段として当然だと思います。

【3】こういった「なんかイラッとくる」といった筆癖は、なかなか自覚しにくいものだと思いますし、そういうのを指摘される機会っていうのも大人になってしまうと案外少ないものだと思うので、意図的に直そうとしない限り直らないのは仕方ない部分もあると思います。それに加えてミヤハヤ氏は「推敲をしない」というか、前項で述べたように「ありのままの自分の言葉で伝えることが自分なりの誠実さである」と認識されており、誤字脱字や論理構成について見直すことは「自らのエモーションを削ぐ行為」と考えておられるフシがあるので、尚更筆癖は治らないんだと思います。

【4】更に文章を書くというプロセスにおいては「考えをまとめる」という段階があって、自分で文章を書いているうちに「ああ、自分ってこういう風に考えていたんだな」という発見があったり、自分の考えの矛盾に気づいたりする効果があると思うのですが、これらを経て出された文章には、その内容を「自分の答え」として固着させる作用があると思います。

もちろん、様々な考察を経て紡ぎ出された文章であれば「これが自分の答えです」と言い切ることも不自然ではないのですが、近視眼的な人物の場合は往々にして「やっぱり自分は正しかった」という安心感を得ることを目的に、結論ありきの文章を書いてしまう傾向があると思っています。(スピリチュアル系のブログは特にこれが多いです)

ミヤハヤ氏の文章にも多いにその傾向があって、ご自身の言いたいことが前提として存在し、それを強化するための材料を並びたてるような論理展開を顕著に行われています。やはりここにも前述に「自己同一性の不安定さ」が表れているように思っていて、本来であれば「俺はこう思った」で済むところを、偉人の言葉を引用してみたり、自分にしか当てはまらないことを過剰に一般化してみたりすることで「自分は間違ってないんだ」と確認作業をするような、ある種の自己救済としての文章を書かれているような印象を受けることがかなり多いです。

【5】こうして紡ぎ出された自己救済のための文章はあくまでも「自分のため」に存在しているので、自分の正しさを証明するために他者を否定的に描写するような排他性を含むことがあります。その排他的なニュアンスこそが「なんかイラッとする」の最大の要因であり、上記の言語感覚の独特さ以上に、はてなブックマーク等で厳しい意見を浴びせられる原因だと思います。WEB上に公開された文章に対して、多くの人は「他者に広く開かれた内容」であることを前提として接すると思うのですが、実際に読んでみると「著者自身のための内容」であった場合には、やはり「期待はずれ」という印象を持ってしまうでしょうし、それが「人がよりよく生きるための~」「素晴らしい世界を作るために~」といった「他者に開かれた内容」としての体裁をとっていた場合には尚更、期待はずれ感は強まるかと思います。

【6】特にミヤハヤ氏の発信する文章については主語が大きくなる傾向が強く、「自分はこう思う」で済むところを「世界は」「人は」という主語を用いて普遍的な事象のように過剰に一般化してしまうケースが散見されます。そして、大抵の人は勝手な先入観から「人(お前)はこうだ」と決めつけられたりすることに対して良い気はしませんし、これらに対して反発があるのも当然かなと思います。

しかし、本来であれば必然性の無いこれらの大きな主語も、大きな主語を用いることで「自分は間違っていないはずだ」という安心感を得たいという気持ち(=自己同一性の不安定さ)が背景に存在しているだけで、単なる彼の「筆癖」なんだと思います。ただし、普通はそんなことまで考えないでしょうし、単純に「こいつ、自分のこと拡大解釈して独りよがりな文章書いてるな」という感想を持つ人のほうが多いと思います。

【7】これらの文章が一種のセラピーとして公開されているものであり、本人もそれに対して自覚的かつそのスタンスが表明されていれば、さすがに今日のような状態にはなっていなかったと思いますが、ミヤハヤ氏の場合はこれらの「自己救済のための内容を公開していること」に対して、無自覚(もしくは気づかないふりをしている)であることが「独りよがり」という印象を加速させていると思います。

そして、この点にこそ「尽きない火種」が存在するのかなと思います。

3.ネット上におけるポジショニングについて

【1】前項においては、ミヤハヤ氏の文章表現の特徴とそれが想起させる印象について書きましたが、ここからはネット上におけるポジショニングについて考えてみたいと思います。

【2】ミヤハヤ氏のブログやTwitterについては、はてなブックマーク等でバチバチに批判されることが多く、ご覧になったことがある方もおられるかと思いますが、その中には社会性や常識の欠如に関してだけでなく、文章の整合性の無さや言動の不一致に関する指摘が多く存在します。今となっては「はてなユーザー」と呼べるほど棲み分けが明確なわけではありませんが、黎明期には「はてなモヒカン族」という言葉が存在していたように、弁証法的なアプローチというか、活発な論戦を好む方々が多く存在しているのが「はてな」の一つの特徴であり、そこにおいては「全世界に公開するのであれば、批判される覚悟は必要」というのが一定の共通見解です。

一方で「ブログを書くことで自己救済(セラピー)になっている」という人々は実際に存在していて、何らかの自己表現を通じて自分を知り、自分を許容していくというのは、その人の人生を実りあるものにするためには非常に有効な手段だと思いますし、身近なツールを使ってそれが実現するのであればそりゃ良いよねっていうのが「ブログ」がこれだけ一気に普及した理由だと思います。

そうやってブログというツールが普及するにつれて「セラピー」をしている人たちが可視化されてきた中で、そのセラピーを行っているセーフハウスに押し入って論戦をふっかける行為は極めて暴虐性の高い行為であり、一部において「モヒカン行為」が忌み嫌われていたのも納得ですし、そのセーフハウスを覗いてニヤニヤする「ヲチ」が極めて下劣な趣味であることも納得です。

一方、モヒカン族やヲチャーの視点から見てみると、セラピーをしている人は戦場のど真ん中でおままごとをしているようにしか見えないため、手斧もガンガン投げるし、バズーカみたいなカメラで覗き見しまくるのは当然の流れであって、セラピーをしている人が「もう放っといてくれよ!」と怒鳴ったところで「じゃあmixiでやれよ」という感想を持つんだと思います。

【3】ミヤハヤ氏においては「激戦区のど真ん中に楳図かずおハウスみたいなセーフハウスを建設しようとしている」という状況だと思っていて、恐らく現在進行系で最も高い密度で銃弾が飛び交っているであろうTwitterにおいて悪目立ちすると蜂の巣になるのは容易に想像できるにも関わらず、そこでもなお「祈り」を捧げるための礼拝堂を建立しようとしておられるように見えます。

【4】序盤でも書いた通り、これを「高潔な姿だ」と認識することは十分に可能であり、ミヤハヤ氏ご自身もそうしたヒロイックなイメージを持って発言されておられる印象もありますが、それは前項において述べた無自覚な筆癖によって「無差別にイラッとさせる毒ガスを噴霧している」から標的になりやすいというだけであって、決して彼自身の自己実現を阻害しようという「悪の勢力」が存在していて、正義の使者であるミヤハヤ氏を攻撃しているわけではありませんし、決して聖戦ではありません。

【5】この「無自覚な毒ガス」こそがミヤハヤ氏最大の課題だと思っていて、ここに気付かないままに、自分にとって理想的な環境を作ろうとすると「毒ガスに耐性のある人(=自分を肯定してくれる人)だけを集めて、森の奥底で小さなコミュニティを作る」しか無いと思います。こういった現象はネットにおける断絶の結果として頻発していることで、クローズドなオンラインサロンやファンクラブというのは正にそういった現象の産物なんだろうなと思っています。ただ、森の奥底にコミュニティを作ってはいるものの自給自足が出来ているわけではなく、結局は生活の大半を人里のインフラや物資に頼って生活することになるので、街に下りてきたところを集中砲火されるというのが今の状況に近いです。

【6】この齟齬をどう埋めるかということを考えたときに、「言語感覚が独特」「主語が大きくなる」といったミヤハヤ氏個人の「筆癖」を修正するのか、それらを受け入れられるように不特定多数の人間の「認識」を修正するのかという選択が発生した場合、もちろん双方の歩み寄りというのが前提ではありますが、やはり前者の方が現実的かつウェイトが大きいかなと思います。そして、自己を見つめ直し、そういった「筆癖」や「思考癖」を社会に順応させていくことが「大人になる」ということだと思います。

【7】「誠実でありたい」「お金稼ぎを目的にしたくない」といったミヤハヤ氏のスタンスからは「純粋性へのこだわり」というか「大人になりたくない」という気持ちを強く感じることが多いんですが、もしその気持ちから上記のような「癖」を手放そうとしないのであれば、それは社会的に未熟であることに他なりませんし、典型的な「ピーターパン症候群」の類型に当てはまると思います。

【8】「世間から認めてもらいたい」という自己実現の欲求を持つこと自体は誰にも否定できるものではないですし、実際にそれを否定する人がいれば「うるせーバカ」と一蹴してしまって構わないものだとは思いますが、そのために明らかな障害となる自己要因について認識ができていなかったり、認識しつつもあえて改善をしようとしないのであれば、例えそこに「誠実でありたい」「迎合したら純粋でなくなる」という理由があったとしても「自助努力の不足」という捉え方をされるのはどうやったって避けられないと思います。

【9】文章表現に対する指摘やそれを修正しないスタンスに対する指摘は、ミヤハヤ氏とお付き合いのあるご友人からも出てきているくらいなので、さすがに自覚されておられましたし、実際にお会いした際にも笑顔で「それはね、もうしょうがない」と仰っておられたので、十分に自覚も持たれてるようです。私自身としても「本人が笑って済ませるなら全然それでいい」と思いましたが、一方で「じゃあ、それに対してどんな批判があっても笑って流せる強さがあるのか?」と考えると、これまでの経緯からそこには大いに不安が残るところであって、むしろめちゃくちゃ打たれ弱いタイプのように見えます。

ミヤハヤ氏のご友人は彼を指して「超豆腐メンタルなのに裸で藪に突っ込んで傷だらけになるタイプ」と称されてましたが、更に付け加えると「目の前に整備された道もある」という状況な上に「無自覚な攻撃性がある」からこそ「いやいや、お前なにしてんの」ってなるんだと思います。ご自身の自己像は「無謀かもしれないけど、それでも諦めずに挑戦を続けている人」なのかもしれませんが、傍から見ると「道路脇の藪に全裸で突っ込んで傷だらけになりながら通行人を恨めしそうに睨みつけてる人」であって、もうそれってシンプルに「ヤバい人」でしかないので、「自分に正直でありたい」という気持ちは理解しますが、さすがに「もう少しうまくやろうよ」っていう気持ちになります。

4.作品について

【1】最初に、私は美術に関する専門教育を受けたことがあったり、ギャラリストやオークショニアのような、所謂その筋の専門家ではないので、本項における記述についてはあくまでも「普通の個人の感想」であることをご了承ください。その上で内容的に誤った記述や、鑑賞に際して「こういう見方がありますよ」というご指摘等ございましたら、ご教示頂けると幸いです。

【2】実際に個展に足を運んだ上で作品を鑑賞した現時点において、ミヤハヤ作品を評価するとしたら「趣味でやる分には何も言わないが、作品としての批評を求められたら限り無く低い」と考えています。その理由としては主に大きく2点あり、1つ目は「技術的完成度が低い」2つ目は「モチーフに対する理解が浅い」です。

【3】1つ目「技術的完成度が低い」に関しては、技術水準の高さがそのまま美術作品の価値に比例するわけではないということを踏まえた上で尚「さすがにこれは…」と感じることが多々あります。

しかも、それが純粋な「技術水準の低さ」故の下手さではなく「粗さ」故の下手さだというのが、作品として厳しいなと感じるところであって、「神は細部に宿る」ではありませんが、「そんなところまで丁寧にこだわってるんだなあ」という感心は、芸術作品に限らず「対価を払う価値」を定めるために重要な要素だと思います。

その点において「技術的に劣っていても、こだわり(丁寧さ)が超高密度で詰まっている」というものであれば、それは作品として成立しうるものだと思いますし、実際にアウトサイダーアートはそういった「フェチズム」や「熱量」において評価されることが多いですが、ミヤハヤ作品からはそれを汲み取ることができませんでした。

また、こういった技術的な問題を解消することについても、前項で触れたように「純粋さを阻害するもの」とご認識されているフシがあるのか、技術の向上や作品の密度を上げることについては消極的なご様子なので、かなり根が深い課題であると感じています。

【4】2つ目「モチーフに対する理解が浅い」についても、根本のところは上述の「純粋さを阻害するもの」を嫌うことに起因して、「感じたものを感じたままに表現するのがアート」という思想に基づいて制作されているが故に「その時感じたこと」しか表現されておらず、その背景に存在するレイヤーに対する理解が不足していたり、自分の中で定義ができていない概念を曖昧なままに抽象画にされてたりするので、結果的に「それって理解しようとすらしてないのでは?」と見えることが多々あります。

美術教育においてデッサンが重視されるのは「画力を向上させるため」だけではなく、「対象への観察眼を養うため」という要素が大きいからだと思いますが、デッサンに限らず作家にとって対象と真剣に向き合い、様々な角度から理解を深めようとするプロセスは必要不可欠だと思っていて、独自の視点からの理解や圧倒的深度の理解、もしくはそこに至ろうとする狂気じみた執念といった点にこそ「(対価を支払う価値がある)作家性」が存在していると思います。

この点においてミヤハヤ作品からは「深い観察や考察から導き出されたもの」を感じませんし、「アフリカに行って当たり前にご飯を食べれることのありがたさが理解できた」などの作品に関する説明を聞いても、それは想定の範囲内というか、その着眼点や考察から意外性を感じることはありません。もちろん、ご本人がモチーフとなるものを軽視しているとは思いませんが、少なくとも「もっと深いところに潜ろうとしている人は沢山いるし、実際に潜ってる人も沢山いる」と思いますし、特別に優れた観察眼や常人には到達できない視点を持たないミヤハヤ氏が「感じたものを感じたままに表現している」だけでは、浅瀬で水遊びしているに等しいことを認識する必要があると思います。

【5】この点については「本気でやってる人へのリスペクトが無い」という指摘に繋がっていると思っていて、長い歴史の中で試行錯誤の形跡が色濃く残っている芸術の世界において「誰も見たことのないもの」を追求し、それらを作り出すことに腐心してきた先人たちが数多く存在しているにも関わらず、浅瀬で遊んでいる自分自身を「深くに潜っている人」であるかのように語る、というのは確かに不誠実な行為に見えます。

しかし「頑張っているかどうか」というのはつまるところ本人にしか判断できないですし、ご本人の中で画家としての活動が2年以上続いていることが「すごいこと」なら、それを否定することは誰にもできません。

これに加えて、前述の自己同一性の不安定さ故に偉人と自分を重ね合わせてしまったり、「普通はこうだけど自分はこうだ」と比較して安心しようとしてしまう傾向があるために、一見すると「リスペクトの無い文章」としてアウトプットされてしまっていますが、本質的には「自分が納得できていればそれでいい」ということだと思いますし、「誰かと比較されたくない(からコンクール等には出さない)」というのは「実力の無さが露呈することを恐れてる」とかじゃなくて本心からの発言だと思います。

【6】ただし、この「自分が納得できていればそれでいい」というスタンスは、前項における「セラピー」そのものであり、自己救済にこそ目的がある作品なのであれば、「作品として」という視点で論じることや他作品と比較すること自体がナンセンスだと思います。

しかし、ここで自己救済と社会的評価の両方を欲していることがミヤハヤ氏の現状であり、その欲求を持つこと自体は否定できるものではなかったとしても、それを都合良く使い分けてクリティカルなダメージを避けようとしてしまうと、ただただ「卑怯」という印象しか残りません。そして、この「欲求を持つこと」を切り取ると「素直」になり、「都合良く使い分けてダメージを避ける」を切り取ると「不誠実」になるというのは、これまでに述べた通りではありますが、客観的に見てミヤハヤ氏の制作スタンスは「自分が納得できていればそれでいい」というセラピーそのものだと思いますし、現時点においては日本を代表するアーティストになるんだと息巻かずに「自己救済」というイシューにのみ向き合う方が良いと思います。

【7】観衆や作品への評価に向き合うのはそれからでも全然遅くなくて、ご本人も「周囲から期待されるとそれに引っ張られてしまう(「自由」ではなくなる)」と仰っていましたが、まずは「自分が楽しめること」だけで十分だと思いますし、その中で物事を深く理解するための観察眼を養ったり、誰にも縛られない自分なりのスタイルを確立することが大切なのかなと思います。

その上で改めて「自分の提供できる価値」について考えてみることで初めて「自分はこういう存在なんだ」と認識できると思いますし、自分の足元がブレないからこそ、すぐに比較して落胆したり自己投影して悦に入ったりせず、落ち着いて対象と向き合うことができると思います。

【8】ミヤハヤ氏は「共感したからこそ美術作品にお金を払う」という認識をされておられますが、美術作品の価値にはコレクション的な価値や投機的な価値など様々な意味合いがあって、それらの中で最も中心にある価値は「唯一無二であること」だと思います。それは誰にも再現できない超絶技巧が用いられていることであったり、通常では考えられない膨大な時間と労力が費やされていることであったり、深遠な思慮や未知の視点からの観察がベースになっていたり、「自分には到底作れないな」と感じるからこそ、それを作った作家に対するリスペクトとして「対価を支払おう」という気持ちになるんだと思います。

ミヤハヤ氏の仰る「共感」というのも「自分では言語化や具体化、認識することができなかった感情や概念を表現してくれた」という意味で、やはり「自分にはできないこと」だからこそ価値を感じるのであって、「そうだよねー」という「共感」だけでは、そこに価値を見出す人は少ないです。また、パトロンであっても基本的には同じ考え方で、作品が無くとも「この人は自分に作れないものを作ってくれるはずだ」という期待の現れとしての対価が支払われているんだと思います。

現時点においては、ミヤハヤ氏の作品や活動からそれらを感じ取ることができませんが、創作活動を続けること自体は彼自身のためになると思いますし、それ自体は応援していきたいと思います。そして、これから創作活動を続けられる中で「ミヤハヤにしか提供し得ない価値」を探し出され、それが私だけではなく多くの人にとって価値のあるものとなる日を楽しみにしております。

5.「やさしい世界」について

【1】ミヤハヤ氏の作品や創作活動に対して応援している方々を見ていると、前項において述べた「自分には到底作れないな」といった作家としてのリスペクト以上に「ミヤハヤという人格・生き方に対する応援」が多く含まれている気がしていて、ミヤハヤ氏自身もそういった方々に対して「人格や生き方に対する応援」で応えておられるのを見ていると、やはりその活動はグループセラピーというか互助会的な構造に支えられているのかなと思います。

「夢を追う仲間たちで互いに励まし合うこと」自体は素晴らしいことだと思いますし、そういった関係性は大人になるとなかなか築き上げにくいものではあるので、大変貴重な存在だとは思いますが、大人になるにつれて何となく理解していく真理の一つが「仲良しだけで集まってやる仕事は大抵うまく行かない」ということであって、身内の戯れや趣味の範囲内でやっているうちはまだしも、ビジネスとしての成功や社会的なインパクトを求めると一気にハードルが上がるというのは、結構多くの方が認識されてるかと思います。

【2】フリーランスにおいては「人脈が大事」と言われることが多いですが、そこで重要なのは「自分を応援するために仕事を投げてくれる人の数」ではなく「信頼してオーダーしてくれる人とそれに応えるだけの実力」であって、仕事をする上で「技術的には劣ってるけど、友達だしこいつに頼んどくか」という判断が往々にして失敗の原因になることは広く知られているため、ご祝儀的な発注や、趣味の範囲内での発注はまだしも、外部にステークホルダーが発生するような「普通の仕事」の場合、技術やコスト面において劣る身内の起用は避けるのが一般的かと思います。

現時点において、ミヤハヤ氏は金銭の対価として「応援(承認)」といった親しい間柄のみで通用するインセンティブを提供している状況であり、ミヤハヤ氏も多くの方にクラウドファンディング等での支援を行っていることを踏まえると、これらの需給は相互に発生しているものであり、その輪の中で完結しているものだと思います。

【3】ミヤハヤ氏が度々言及される「やさしい世界」とは、こういったやさしさ(相互承認)が成立することを第一義として、その中で副次的に経済的価値(金銭の授受)が伴うことによって循環する経済モデルなのかなと思っています。そして、ここでの「やさしさ(相互承認)」とは「考え方が異なる相手でも寛容に受け入れること」だということは直接伺いましたし、実際に元々ブロックしていた私に対しても決して敵意を向けることなく、終始穏やかに対応してくださったので、これについては間違いないと思います。

【4】これに対して「いや、気に入らねえやつはめちゃくちゃブロックしてるじゃねえか」というツッコミはあると思いますが、ミヤハヤ氏がブロックしているのは、彼が敵意や嘲笑のニュアンスを感じ取った相手に対する防衛策であり、「そういった相手とは対話する価値無し」という判断に基づくものです。「世界」という言葉についても、「地球上全て」とか「全宇宙」というものではなく、政治家を目指されてたときに「自分の半径5m以内に見えるモノを自分の社会とみなし」と仰っていた通り、ミヤハヤ氏にとっては「観測範囲内」こそが「世界」なんだと思います。これについては「自分が観測できない世界の存在を証明せよ」と言われても、それが困難であるということ、その上で「観測できない世界のことを考えるより、今観測できる人達のことを考えたい」という気持ちに基づく認識であると考えています。

そういう意味で「ブロック」というのはその人自身を否定するというよりは、「国防上の観点からのミヤハヤ王国への入国拒否」くらいのニュアンスだと思いますし、彼の中では一定の線引きが存在していると思います。

もちろん、これに対して「アーティストとして見えない世界を切り捨てる想像力の無さは問題じゃないの?」「誰かを切り捨てて成り立つ『やさしさ』って怖くない?」といった意見はあると思いますが、あくまでもこれといった強制力や発言力を持たない個人の資質や価値観に関するものであることを再度ご認識いただいたうえで、その言葉を受け取るのが良いかと思います。

【5】しかし、ここで実現される「やさしい世界」は非公式に承認されたメンバー(いわゆる「マイメン」)による閉じたコミュニティの中でほとんど完結しており、外部にステークホルダーが存在していないことによって外資の流入が無いという、経済モデルとしてはなかなかにヘビーな構造的な特徴を抱えています。

【6】こういった閉じたコミュニティの致命的欠陥をいち早く見抜き、アンサーを掲げたのがイケダハヤト先生の「年収150万円で僕らは自由に生きていく(2012年)」であり、その主旨はタイトルの通り「お金なんか無くともSNSで繋がりがあれば楽しく生きていける」という一種の開き直りでしかなく、本質的な解決にはなっていないのですが、この開き直りが一部の方の背中を押したことも事実で、SNSを通じた「施し」を糧に生きていくようなライフスタイルを実践する方も増えてきたのかなと思います。

また、同時進行で国内のクラウドファンディングのプラットフォームも整備され始めたことで、企業や事業単位だけでなく個人単位でのファンディングが可能になったことも「やさしい世界」というヴィジョンを後押しした大きな要因だと思います。

【7】しかし、クラウドファンディングという開かれた場所での集金が可能になったにも関わらず、いわゆる「新しい働き方を模索している」界隈の方々だけで循環している=外部にステークホルダーが存在せず、実質的に閉じたコミュニティになっているというのは、単純に「社会一般に通用する価値提供ができていない」ということに他なりません。

ぼくは絵もうまくなければ、もう若くないおっさんだ。しかし、そんなぼくがアーティストで在り続けることで誰かに勇気を与えれるのではないかとおもった。そして、それがぼくのアーティストとしての役割ではないかと感じているのだ。今、この瞬間も人生の色んなことで悩んでいる人がいるとおもう。仕事だったり、人間関係だったり、恋愛だったり。そんな人たちにぼくがアーティストで在り続ける姿を見せることで、こんなぼくも画家としてがんばれてるから「あなたも大丈夫だ」というメッセージを伝え続けていきたいのだ。

前項にて「ミヤハヤ氏は現時点において作家として自らの提供できる価値を定義できていない」と述べましたが、彼自身は「何事にもチャレンジする姿を見せることで皆に勇気を与えたい」という主旨の発言を度々されています。しかし、ここで重要なのは「チャレンジ精神に対する評価」と「作品や活動に対する評価」は明確に切り離して考える必要があるということだと思います。

たまに「アメリカはあらゆる表現者を受け入れてくれる(それに比べて日本は…)」といった主旨の発言を目にしますが、それはステージに上がろうとする者のチャレンジ精神を称賛する文化と、障害者であること、セクシャルマイノリティであること、非白人であることなど、その人物を構成する様々な要素をひっくるめて「面白ければ良し」という考え方が浸透している一面を示しており、逆に言うとどんな有利なステータスを持とうが「面白くなければダメ」という、表現者に対する観衆のシビアさを表しているんだと思います。だからこそステージに上がった者に対しては「一人の表現者」として容赦無く批評することを厭わないですし、「アメリカン・アイドル」みたいな番組も成立してるんだと思います。

そこでは「チャレンジ精神に対する賞賛」と「表現に対する酷評」が普通に両立していますが、前者は「人格に対するリスペクト」であり、後者は「ステージ上の存在に対するリスペクト」という風に演者も観客も区別がついているからこそできるものであって、日本においてはあんまりそういう文化が馴染んでないというか、「言動に対する批判」を「人格否定」と捉えてしまったり、「作品への賞賛」を「人格も含めた全肯定」だと捉えてしまったりする人が受け手だけではなく発信者にも比較的多いと思いますし、これまでの言動を見る限りではミヤハヤ氏も例に漏れずその切り分けが得意ではないタイプだと思います。

【8】そして、「チャレンジ精神に対する評価」は多くの場合あくまでも「前向きなことは良いことだよね」という、謂わば「早寝早起きを心がけてる」とか「ランニングしてる」みたいな行為に対する称賛と同じレベルで行われており、それに対して「じゃあお金出すよ!」と言ってくれるのは基本的には親族など、極めて親しい間柄の人(マイメン)だけだと思います。

もちろん「投げ銭」だけで生活しているような方もおられる世の中ではあるので、一概にそうと言い切ることはできませんが、ミヤハヤ氏が「アーティスト」を名乗られておられるのであれば、そういった「チャレンジを面白がられること」ではなく「作品の価値」によって評価されるのが本筋ではないかと思います。

【9】これらを踏まえて、ミヤハヤ氏が「アーティスト」として生きていくための道は3つ存在していると思います。

①は仲間内だけでもアーティストと認められて、例え収益に繋がらなくとも一旦満足することです。ほとんど現状維持ですが、創作活動をされている方の大多数はここにおられて「それをやってること自体が楽しい」のであれば、それはそれで人生を彩るものとして十分だと思いますし、決して批難されるようなものではありません。勿論、この中から本格的に専業の作家になられる方も沢山おられますが、そういう人はここの段階から既に何らかの点において「群を抜いてる」ような気がします。

【10】②はもっともっと仲間を増やして、①の循環を大きくするという方法です。前述の通り「自由な働き方を模索している」人達だけの限られたマーケットでは頭打ちになるというのなら、そのマーケット自体を拡大させるという発想もあると思います。「やさしい世界」というヴィジョンを広く伝えて、理解を得ることができればそれも可能かもしれませんし、参加者が増えれば増えるほどにマーケット全体の安定感は増していくと思います。ただし、ここでも人が集まれば集まるほど「勝ち負け」の濃淡が強くなっていくという市場原理が発生することは容易に想像できるので、最終的に「やさしい世界」とは真逆の弱肉強食の世界が展開されることにはなると思います。

ちなみに、ミヤハヤ氏を通じてアートに興味を持ったという方も多くおられるそうですが、「マーケット」というくくりで考えると、ギャラリーにも所属しておらず、オークションや賞レースにも参加しないミヤハヤ氏の作品は本流のアートのマーケットには属しておらず、属人性の高さという点については同人誌とかハンドクラフトに近いかなと思います。

【11】三つ目はミヤハヤ氏自身が本流のアート市場において評価されるようになることで、「岡本太郎(ピカソ)を越える」「日本を代表する画家になる」といった目標を聞く限り、普通はここを目指すのかなと思います。であれば、作品のクオリティ向上はもちろんとして、ギャラリストやキュレーターへのプレゼン、コンクールへの出展、タグボートへの出展など具体的に必要なステップはいくらでもあると思いますし、それらを知ることで所謂「サードドア」に到達できるチャンスもあるかと思います。

余談ですが、ミヤハヤ氏に対する批判のかなり大きな割合をこの「発言は本格的にアーティストとして活動している人(③)なのに、実際の行動は仲間内の活動で満足している人(①)」という点に起因するものだと思います。

【12】これらをざっくりまとめると①森の奥底で仲間たちと楽しく暮らす②街に出て存在を知らしめる③人間と同化して暮らす、という平成狸合戦になるんですが、これはミヤハヤ氏に限らず実際に何らかのコミュニティに属しながら創作活動をする方々であれば、活動を続けていく中でいずれはその判断を迫られるようなことであって、特に音楽や漫画などの「本流のメジャーマーケット」が既に存在している場合、その存在は無視できないかと思います。アート業界も世界的に見ると小規模でこそあれど、それでも多くの作家と買い手が存在する国内マーケットが古くから存在しており、②のようにこれを差し置いてマーケットを開拓し「日本を代表するアーティストになる」のは、なかなかの難易度だと思います。平成狸合戦ぽんぽこにおいても、一度は自分達の存在を認めさせようと対話に持ち込むところまではいきましたが、最終的にはそれも通らず散り散りになってしまいました。

ミヤハヤ氏においては「アーティストが生きていける《やさしい世界》を作りたい」という発言をされていたことや、実際にお会いした際に伺ったときも同様のことを仰っていたことから、茨の道と知りつつも恐らく②を選択されていると思いますし、そうして玉砕するさまは、多くの人々にとって「英雄」ではなく「勝手に藪に突っ込んで傷だらけになる人」に映るんだろうなと思います。

6.ミヤハヤ氏の目指すもの

【1】自身の作品をTシャツとかにしているのを見ていると、ミヤハヤ氏が志向しているのは、ハイアート的なものではなく「ポップカルチャーの中に存在できるアート」みたいなものだと思いますが、それを狙うのはかなり難易度が高いと思っていて、有名デザイナーやイラストレーターの手掛けた仕事だけでなく、映画や音楽、ポケモンやパワーパフガールズといった爆裂にポップな子供向け系コンテンツなど、様々なジャンルから選りすぐりのコンテンツが複雑に絡み合って構成されているポップカルチャーの中で存在感を示すのは並大抵のことではありません。

【2】例えばミヤハヤ氏の好きなミシェル・バスキアはTシャツのデザインになってたりしますが、バスキアTシャツ着てる人の半分以上はバスキア知らないと思いますし、多分ユニクロのせいで一番よく見かけるキース・ヘリングなんて、着てる人の90%以上が「面白い柄」としか認識してない思います。そもそもあれを「キース・ヘリングだ」と理解できる人はあんなダサT買わないでしょうし。一方では、例えばゲルハルト・リヒターの作品がプリントされた服を高校生とかが着てるの見たことないですし、所謂「ポップアート」以外の作家がポップカルチャーに進出することは少ないと思います。

【3】こういう現象が起こるのは、ポップカルチャーにおいては「わかりやすさ」が重視されることに起因しており、ポップアートの巨匠達はその名の通り「ポップ」だから適応できているのであって、抽象画のように「わかりにくいもの」をポップカルチャーに浸透させるのは相当難度が高いです。ダリ作品みたいに「わけわかんねー」っていう「面白さ」があれば良いかもしれませんが、ミヤハヤ氏の作風はそんなに突き抜けてないので「それっぽいなにか」としてスルーされる可能性が高いです。

そういう意味では「ブランドになりたい」というミヤハヤ氏の願いは、ポップカルチャーに馴染むことを目指すことを前提とすると、的を射てると思います。それは本質的にポップでないものに「わかりやすさ」を付与する為には「ネームバリューの強さと、それに伴う明確なイメージのある存在になること」が極めて有効だからです。

【4】ただ、実際にお会いした際にもお伺いしましたが、ミヤハヤ氏の「ブランドになりたい」の意味はどちらかと言うと「権威性が欲しい」「有名になりたい」に近くて、ブランド本来の意味である「ミヤハヤ=〜〜な存在」という認識が定着することとは少し異なる印象を受けました。ある意味、ヲチャーの間では「ミヤハヤ=すぐ辞めるやつ」というブランドが確立していますが、当然それはネガティブなものであり、ご本人が望むものとは異なります。ただし、ブランドはあくまでも本人(コミュニケーションの主体となる存在)の姿勢や行動によって構築されるものだということを考えると、それはまあ仕方ないことだと思います。

【5】なので、ものすごく単純に言うと「すごい」と思われたければ「すごいこと」を実際にやればいいという話で、その「すごいこと」の「すごさ」をどう伝えていくかみたいなところは、あくまでも「すごいこと」ができてからの話です。なので実態が伴わないものを「こんなにすごい!」と囃し立てたところで、それはブランディングではなく単なる喧伝であり、ブランディングには根本のところに「実績」や「信頼」といった確かなものが存在している必要があります。

「どうせまた辞めるんだろうな」「どうせまた燃えるんだろうな」といった負の期待が存在する中で、実際にそうなってしまうと「ほらやっぱり」とその期待は実績を伴って強い印象となります。こうして一部のヲチャーの間における「ミヤハヤブランド」は確立されていったのですが、一方で実際に面識のあるご友人からはそうした負の面だけではなく、「目の前の人に真摯に向き合おうとする姿勢」や「どんな悩みも寛容に受け入れ、元気づけようとする姿勢」といった点が好意的に取られることで、良いイメージを持つ方が多いのかなと思います。直接会ってお話した感想としても「こういうタイプの人に救われる人は確かに存在するだろうな」と思いましたし、それらの行為を「弱みに漬け込んでやろう」といった打算でやるタイプではないと思うのですが、上記のネガティブなブランドに引っ張られて、これらの特性すらも悪いイメージを強化する材料になってるとなと思うこともあります。

まあ「悩んでる人に救いの言葉を与えて感謝されて見返りを得る」という構造だけ見たら教祖ビジネスそのものなんですが、当事者が納得していて、それによって身持ちを崩すとかじゃなければそれでいいのかなとは思います(それは往々にして不毛なことですし、その選択をする人を私は決して尊敬しないですが、「そうしなかった方が幸せになっていたのでは?」というのを考え出すとキリがないですし、特に義理が無いのであればそこにリソースを割く必要は無いくらいのニュアンスです)。ただ、古今東西そういったビジネスを続けていくうちに「お前の言うことを信じてやってきたのに何もうまく行かなかった!」と言ってくる人が出てくるので、それをどう捌くかで「救世主」なのか「詐欺師」なのかはっきりすると思います。

ブランドの話に戻ると、一度ネガティブに振れたブランドをポジティブに切り替えるのはなかなかに荒療治が必要で、少なくとも「こいつがそこまでやるとは思わなかった」という良い意味での期待の裏切りを繰り返していく必要があって、ミヤハヤ氏においては「辞めると思ってたけど辞めなかったし、客観的に見て一定の結果も残した」みたいなことをやっていくしか無いと思います。

【6】そうして築き上げた「信頼」と「実績」がブランドの基底になるので、ミヤハヤ氏においては「誰にとってどういうブランドを目指すのか(「民衆に寄り添う」とかじゃなくてもっと具体的に)」「そのために必要な資質は何か」「その資質を示せる実績は何か」「その実績を作るために何をすれば良いか」というところからちゃんと整理して、その上で一貫性のある言動を心がける必要があると思います。

やはり「やると宣言したことをやらない」とか「綺麗事を掲げる割にカジュアルに真逆の行動をする」というのは、本人の意図はどうあれ言動不一致としか理解されないので、絶対に改めた方が良いと思いますし、ブランディングを行う上では「自己像」と「相手からの見え方」が一致することが重要であることから、最初に述べた「自分の気持ちに誠実であること」についても、最低限しっかりと自信を持って説明する必要があります。

そこで偉人の姿や言葉に自己投影してしまうのは自分の言葉で伝えようとする姿勢ではありませんし、逆に自分の理想像や自己を正当化することばかり語ってしまうのは現実逃避でしかありません。大事なのは「実際に何をやったか」であって、その評価についてはどうやっても他者と比べられます。そして、他者と比べられたとき、作家としてのミヤハヤ氏の作品や活動は全然ショボいですし、ネット上の一人格としてのミヤハヤ氏の言動には一貫性が無く、信頼感に欠けます。ブランディングにおいて「比較されたくないけど、良いブランドを確立したい」というのは「打席には立たないけど三冠王になりたい」くらい無理な話なので、さすがにここは主義主張で逃げることができません。

【7】ここまでに既に何度か指摘している通り、ミヤハヤ氏においては「過剰な一般化」「偉人への自己投影」「自分の提供価値を定義できていない」といった特徴から、アイデンティティが不安定な状態にあるんだと思います。「ブランドになる」のを目指すのであれば、まずはその状態を脱する事が大前提であり、自己認識と現状の実像が一致した段階からでないと「じゃあどうすれば良いのか」というふうに考えることができないので、イメージを良くする為に何をやっても結局空回りになってしまいます。

ミヤハヤ氏は(特にネット上だと)「こうありたい」という理想像に引っ張られすぎる傾向や、自分の感情を無理やり理屈づけて早合点をしてしまう傾向などからご自身の足元を見失っているように見えるので、まずは周りをよく見て、相対的な自身の立ち位置を正確に把握することが必要で、その上で「何故自分のポジションはここなのか」「理想のポジションに行く為には何が必要なのか」を考える必要があると思います。

なお、これらについてはあくまでも私個人の見解に基づく提言であり、否定でも批難でも無いので、ミヤハヤ氏ご本人がこれを読んでどうするかについては、もちろん彼の判断を尊重します。ちなみに、この辺りのスタンスについては直接お話して十分にご納得いただいてると思います。

7.ミヤハヤ氏を取り巻く人たちについて

【1】ミヤハヤ氏をとりまく人達は「信者」「アンチ」「完全な他人」という3つではなく、「サポーター」「ワナビー」「ウォッチャー」「アンチ」と「完全な他人」という5つの分類に分けられると考えていて、それらはそれぞれに一定の共通点を持ちながらネット上に混在しているように認識しています。

【2】「サポーター」はその名の通り彼の言動や活動に対して、経済的・技術的・感情的支援を行う人々で、その中でも特に「本人が良ければそれで良い」と考えている人々を指しています。ある意味ではミヤハヤ氏のスタンスと最も合致していて、彼がご友人としてお付き合いされている方の大半はここに分類されると思いますが、この人達は「人物として応援している」のであって「作家として応援している」のではないというのがポイントだと思います。

なので、作品のクオリティに関しても「まあ、アイツが頑張って(楽しんで)るんだし」と大目に見ることができますし、客観的に見てイタイ言動に対しても「まあ、アイツだしな」と受け入れられたり、一見無謀に見えるチャレンジやその失敗に関しても「アイツらしいな」と笑って流せます。

逆に言うと、この人達は「基本的には何でも受け入れてくれる」が故に、作家としての客観的評価をしない(できない)人達であり、この人達の評価については「モチベーションを維持する為には有用だが、直接的に創作の糧にはならないもの」であることが多いと思います。

そして、それは研鑽を目指す人にとって、あえて悪意を持って言うなれば「無責任な褒め言葉だけを投げかけてくる存在」に他ならないですし、ミヤハヤ氏に限らず何らかの創作活動に携わる人にとって、この「サポーター」を超えて支持を得ることができるかどうかが一つの分水嶺になると思います。

【3】「ワナビー」は本来の「おこぼれに与ろうとする存在」というよりは「サポーター」に近い存在で、表面的な行動においてはほとんど区別がつきませんが、その動機に大きな差があります。「サポーター」はミヤハヤ氏の言動や活動をある程度は笑って受け入れてくれますが、その理由は「特に何も期待してないから」であって「まあ、そんなやつがいても面白いよね」くらいの温度感で彼に接しています。

一方「ワナビー」は「自分自身も受け入れてもらいたい」という気持ちが支援の動機になっていて、支援の根底には「ミヤハヤが評価される世の中になれば、きっと自分も生きやすくなるはず」という狙いが存在している人達だと思います。観測範囲内では、同じくアーティストとして活動されている方やフリーランスとして何かをやられてる方が多くて、「サポーター」と比べると経済的支援をすることは少ないものの、意見への同意や作品への賛辞などのSNS上で完結するアクションについては「サポーター」より多い傾向があります。

この人達にとってのミヤハヤ氏は解放の御旗を掲げた英雄であり、全身に銃撃を受けながらも果敢に立ち向かう頼れる盾役なので、何が何でも倒れさせる訳にはいかないと思いますし、心が折れて膝をつかせないためにどんなことでも受け入れてくれると思います。

こういった方々はミヤハヤ氏に対して、なかなか評価されない自分自身の姿を投影しながら「希望の星」として心から応援していると思いますし、やはりそれはミヤハヤ氏にとって非常に大切な支援になっていると思います。

【4】「ウォッチャー」はインターネット上で最も卑しいゴブリンを指しますが、ミヤハヤ氏の周囲においては最盛期と比べて随分と数が減った様に感じます。それは単純にゴブリンが飽きっぽいというのが最大の要因だと思いますが、それに加えて私とのやりとりやその他の対応や考察を通じてミヤハヤ氏の人間性が明らかになるにつれ、ヲチ対象としての「面白さ」が失われつつあることも多少の要因になっていると思います。

ここでの「面白さ」とは見世物小屋的な好奇心をそそるような面白さであって、その種明かしをされてしまうと興醒めというのは多分にあるとは思うのですが、ミヤハヤ氏の場合には自分より下の存在を見て「自分は大丈夫だ」と安心するような意味合いも含まれていて、ミヤハヤ氏の人間性が「案外普通」だということが明らかになるにつれて、「まあ自分にもそういうところあるしな」と立ち止まってしまうことで、心から嘲笑できなくなっていった人は少なくないと思います。

そうして「アイツも案外普通なんだな」という理解に至った人は興味を失って「完全な他人」になるか、多少のお情けから「サポーター」になっていくんだと思います。

【5】ミヤハヤ氏にとって「主義主張に対して反対意見の人」という意味での「アンチ」はほとんど存在してないと思いますが、ミヤハヤ氏の発言をシニカルに読み取って「どうせ金目当てだろ」などの悪態をつくような、綺麗事の裏側にはドロドロした欲望が存在するはずだという週刊誌的な感性をお持ちの方は一定数おられます。ただし、これらの方は情報商材やマルチ商法、教祖ビジネスといった「界隈」との親和性が高い悪徳商法を忌み嫌っており、それらを撲滅したいという正義感が原動力になってることがほとんどで、「ミヤハヤ憎し」というよりは「界隈憎し」の中にミヤハヤ氏が含まれているくらいのパターンがかなり多いと思います。

この人達は元々そこそこ怒っているため、ミヤハヤ氏の「なんかイラッとする毒ガス」に対して耐性が低く、すぐにその言動の中に悪意や醜い欲望を見出してしまいますが、ミヤハヤ氏にはそんなつもりが全く無いのでどんどん溝が深まっていくという構図はこれまでに述べた通りです。

そして、多分この人達は社会一般の規律や規範に対して「真面目」なんだろうなと思います。だからこそ自分が否定してきた「無責任」や「怠惰」を正当化している(ように見える)人達を忌み嫌っているんだと思いますし、「社会人たるもの厳しく自らを律するべき」という考えがあるからこそ、それをブッちぎって生きている(ように見える)ミヤハヤ氏を見ていると自分自身が否定されているように感じるのかなと思います。これはこの人達の自他境界の曖昧さを示していて、「アンチ」もまたミヤハヤ氏と同じように自己同一性が不安定な状態にある方が多いような気がします。

ただし、ミヤハヤ氏においては本人的に大真面目であり「世の中をナメてる」というつもりは一切無いと思いますし、筆癖がアレなだけで意図的に誰かの主義主張を否定するつもりは無いので、この人達から浴びせかけられる批難は「身に覚えのないこと」に他ならないでしょうし、そんな受け取り方をされているという想像もできないと思います。だからこそブロック等の手段でコミュニケーションを拒否されていて、それは「都合の悪い意見を封殺している」のではなく「身に覚えの無いクレームを入れてくる人は相手にしない」という態度の表れだと思います。

【6】これら4つのタイプは、その態度が「肯定的or否定的」であるか、および「自己投影度の強弱」によって、以下のように分類することができると思っています。

ふぁs

この「自己投影度」については「関心度」に比例すると思っていて、この中でも右に行けば行くほどミヤハヤ氏自体に対する関心は薄れていき、この図の極東には「完全な他人」が存在していると考えています。そういう意味では、サポーターもウォッチャーも「(他人だから)どうなろうが知ったこっちゃない」という観点を少なからず持っていて「遠くから見てる分には面白い存在」という認識において共通している人が多いような気がします。

「ウォッチャー」がヲチ対象に対して知っちゃこっちゃないのは当然として、「サポーター」に分類されるような人達は、「クラファンで支援する」「個展に顔を出す」「作品を買う」といった点において、ミヤハヤ氏の画家としての活動を実質的にサポートしているにも関わらず、どんなときもミヤハヤ氏の「味方」であるかというとそうではなくて、実際に彼が炎上したり、SNS上での燃えそうな発言は普通にスルーされてるので、あくまでも「遠くにいてくれるうちは投げ銭くらいするけど、家の敷地には入ってこないでね」という、ある意味大人として正しい距離感で付き合っている人なんだと思います。ちなみに、ミヤハヤ氏のご友人に限らず、いわゆる「界隈」の方々はこの距離の取り方が上手だなと思っていて、人間関係がビジネスの結果に直結することから、友人関係についても常にリスクヘッジをされているんだなと思っています。

【7】また、これらのタイプの中にはミヤハヤ氏を破滅にしか導かない「デビル」が混在していて、悪意を持って彼を破滅に導こうとするだけでなく、ミヤハヤ氏の「無軌道さ」や「思慮の浅さ」を「他の人には真似できない才能」と囃し立て、ミヤハヤ氏を気持ち良くすることで、彼から自省の機会を奪い去るというのも立派な「デビル行為」だと思います。

宮森はやとが天才である理由:https://www.ryukke.com/?p=6550

何をやってても、ツッコミどころ満載すぎて面白いっていうアレ。体張って、いじられて真価を発揮するタイプのエンターテイナーですよね。これができるのは才能です。

上記のブログは約2年前に書かれたもので、私が「この人(ミヤハヤ)、このままだと死ぬな」と思ったきっかけの一つなんですが、ミヤハヤ氏が炎上のストレスで血を吐くまで心を病んでいたことを知っていて尚それを「エンターテイメント」として称賛するのは流石にデビル過ぎるなと思いましたし、多分カイジの鉄骨渡りの観客ってこういう人達なんだと思います。

上記の例はかなり高位のデビルですが、実際には「存在自体がアート」という言葉でミヤハヤ氏の無軌道っぷりを称賛するデビルたちによって、気を良くしたミヤハヤ氏が「これでいいんだ!」と失敗から何も学ばずに無軌道っぷりを加速させ、結果として玉砕するという流れは今までに何度も繰り返されてきており、その構図は普通に負のスパイラルだと思います。

【8】また、界隈の方々はマルチをやっていた時期があるというのをカミングアウトされている方が結構おられますが、マルチやってる人の殆どは「サラリーマンみたいにつまらない人生を送りたくない」とか「ルールに縛られず自分らしく生きたい」みたいなことを仰っていて、その点については多分やってた頃と何も変わってない人が多いんだと思います。マルチと界隈のビジネスについては、胴元と決められた商材の有無くらいの違いしか無くて、構造としてはほぼ同じですし。

加えて、プライベートな人間関係をビジネスに転用することへの抵抗の無さというか「営業(マルチ的には「マーケティング」とも)」に対する罪悪感の無さについては、界隈ビジネスの必須スキルだと思いますし、自分の行為を「自己実現には金がいるし、その金を皆から募るのは当然だし、それは自己実現に向けた前向きな行為」と認識できることが、臆面も無く投資の体を為していない「乞食」と揶揄されるようなクラウドファンディングができる最大の理由だと思います。

【9】私は多分平均の10倍はマルチやってた人とコミュニケーションした事があるんですが、その経験からマルチにハマる人はほぼ全てに共通して「何者かになりたい」という気持ちが強い印象があります。マルチの人が仰る「自分らしく生きたい」みたいなのは正にそうですし、グループ内において与えられる「キャラづけ(料理好きとか音楽好きとか)」によって「自分らしさってこうなんだ!」と勘違いしてしまい、自己同一性を確保してくれるそのグループから抜け出せなくなってしまうような人がほとんどです。そうして与えられたロール(役割、役職など)を演じる事自体は自己同一性を確立するプロセスにおいては必要かもしれませんが、最終的には与えられたロールを拠り所にすることなく自立することが重要だと思いますし、そこで満足してしまうと「表面的な印象しか無い人物」で終わってしまいます。

実際に私が見てきたマルチの人達もなんというか「取ってつけたようなステータスばかりで、明確な印象の無い人」が圧倒的に多かったですし、所謂「親ネズミ」になった人も見た目を取り繕う技術や楽しく会話する話術には長けていても、本質的なところで軽薄というか、話を深く聞いていくうちに「考え方とか言葉が借り物」であり、「何かを演じてるようだな」と感じることが多かったです。ちなみに2人だけ例外がいましたが、その2人はご両親ともに「仕上がってる人」というロイヤルファミリーで、そこまでいくと「人を金づるとして扱うこと」が自然体過ぎて、もはや違和感とか不快感とかは無かったです。

【9】この「グループ内において何らかのロールを演じる構図」は正に現在のミヤハヤ氏の状況と合致していると思いますし、上記「ワナビー」の人達にも共通する特徴でもあります。名前の後に「@~~クリエイター」みたいな感じでロールを名乗ってる人とか、後付けの何かでキャラ立ちしようとしてる人がミヤハヤ氏の応援をしていたりするのを見て「ああ、こうやって様々なロールを演じる仲間たちが集まって『濃いメンツ』になっていくんだな」と思いました。

ただし、彼を「アーティスト」として扱ってくれるのは身内と何も知らない他人だけであり、それ以外の人達からはもしかすると「アーティスト」として認識してもらえない可能性が存在しているため、コンクールやギャラリーに持ち込んで「比較される」ことは、拒否を恐れる彼にとって折角手に入れた自己同一性の崩壊を招く危険性がある行為なんだと思います。

【10】これに対して、あえて厳しい事を言わせていただくと、他人に支えられないと維持できない程度に脆い自己同一性(アイデンティティ)は自己同一性とは呼ばないですし、必死になって守る程の価値は無いです。

この発言が現在の彼の認識を表しているのであれば、彼の自信は誰かに与えられたものの上に成り立っており、自分自身で「やりきった」と言い切れる経験があまり無い(またはそれらを自己批判できない)ように感じていて、だからこそ定期的な「やります⇒やめます」コンボには「こんな事をしてもそういうキャラだから大丈夫なんだ(見捨てられない)」ということを確認するための意図があるように見えます。でも、それって典型的な「見捨てられ不安」の行動パターンであって、見捨てられない為に定期的に自傷行為を繰り返してしまう人と根本的に同じような気がしますし、ご友人の「自分から藪に突っ込んで傷だらけになる人」というのは正にこの行動パターンを指しているんだと思います。

「ワナビー」の人達にとっては、そういった彼の行動とそれを受け入れてくれるサポーター、コミュニティの存在は希望の灯火のように見えるのかもしれませんが、一方ではこれらの行動が過度にエスカレートしてしまった結果が風船おじさん然り栗城史多さん然りの悲劇だと思いますし、「本人が納得してるから」「勇気づけられるから」という理由から彼の行動を全肯定してしまう事は、彼にとっての自己同一性の確立を阻害するだけでなく、間接的に彼を死に追いやる「デビル」になってしまう可能性があることを十分に認識すべきだと思います。

まとめ

【1】私の主観においてミヤハヤ氏を一人の人物して捉えた場合、やはりどう考えても好人物であることに疑いは無くて、「アンチ」の皆様が期待されるような綺麗事の裏側で私利私欲に塗れたミヤハヤ像というのは完全に見当違いだと思います。どこまでを必要経費に含んでいるかというジャッジ(通常の飲食費は経費に含まれないが交際費として計上可能みたいな)については定かではありませんが、「手元に残るもの」という意味での利益は殆ど無いでしょうし、不誠実を嫌い、素直であることを自らの拠り所とするような彼が、そんなわかりやすい不誠実に手を染めるというのはかなり違和感があります。

そして、彼が「誠実であろうとすること」と世間一般における「誠実さを示すこと」に乖離が生じていること、更にそれを世間一般に向けてアジャストすることを「自分に嘘をついている=不誠実な行為」と認識してしまっているのが、ミヤハヤ氏が炎上を繰り返す要因であるというのはこれまでに述べた通りです。ただし、客観的に誠実さを判断するのが相手である以上、相手にとって理解できる誠実さでないと通用しませんし、ミヤハヤ氏のキャラクターを把握している人からは「ああ、この人なりに最大限の誠実さ(敬意)を示してるんだろうな」という風に理解してもらえる行為でも、そうでない人にとってはバキバキの無礼講にしか見えない行為になってしまうという点においては、やはりミヤハヤ氏に改善点があって、「相手の価値観を尊重すること(どういうものが求められているかを考えること)」は「媚びること」ではなく「相手を理解しようとする姿勢を示す行為」や「相手にとって必要なものを考える行為」であり、それは決して「不誠実ではない」という認識は必要だと思います。

【2】ミヤハヤ氏は常々「ウケ狙いや売れ線狙いで作品を作っていない」と仰ってますが、ミヤハヤ氏の場合はそれが「自己救済の為に作ってるから」と割り切っているからではなく、単純に「足元が定まっておらず、相手が見えていないから結果的にそうなってるだけ」になってしまっていて、「突き放す割には求めている」という極めて矛盾したスタンスになってしまっている印象があります。

このように自己同一性が不安定で、自己矛盾を抱えた「人として軸がぶれている」状態は遅かれ早かれ殆どの人が経験することだと思いますし、それ自体を責める必要は一切無いと思いますが、年齢相応にそれができていない人は「自己同一性を確立できるような経験を積んでいない人」もしくは「経験から学ぶ力の無い人」と看過されるのは回避できません。

【3】ミヤハヤ氏は創作活動を通じて「自分が感じた事を感じたままに表現する」という自己同一性を確立させる為に非常に有効なステップを踏んでいるにも関わらず、自らのイメージする「アーティストかくあるべき」に引っ張られて自分自身を見失うという本末転倒な感じになっていて、周りもそれを微笑ましく見守って褒めそやしているうちは、ご本人がその状況を認識することは難しいため、そのループから抜け出すことは極めて困難だと思います。

【4】「4.作品について」でも書きましたが、現時点においては個展だなんだと「アーティスト活動」を焦る必要は無くて、もっと作品と向き合うことや創作について勉強することに専念した方が良いと思いますし、結果としてそっちの方がアーティストとしての可能性を拡げることに繋がると思います。勿論、「ニューヨーク個展」のような目標を掲げる事は大事だと思いますが、それ自体が目的化してしまっては意味が無いと思いますし、そんなに焦る理由もニューヨークである理由もご本人から直接伺った上で、具体的には理解できなかったので「わたしをニューヨークに連れてって基金」への協力はお断りしました。

創作活動そのものについては絶対に続けられた方が良いと思いますし、その活動に対する支援はしたいと思いますが、本質的な創作活動から逸れて、アーティストというロールを演じるための支援であれば、それは必要無いというか「彼の為にならない」と思いますし、そういう視点を自分が持っている上で支援をするのは「デビル」に他ならないと思います。

そして、それが一時であっても、楽しくお酒を飲めた相手に対して「極めて不誠実な行為」だと感じたからこそ、基金への協力はお断りしましたし、本稿についても、例えミヤハヤ氏にとっては快くない内容になろうとも、私自身の正直な意見を書くことが自分なりの誠実さだと思っています。

【5】こうして長々と書いてきましたが、個人的には「ミヤハヤみたいな人間がいても許される社会」の方が「生きやすい」と感じる人は多いんじゃないかなと思っています。ただ、社会的規律や規範無く社会が成り立つかと言うと、多分人間はそこまで賢くないので、あくまでも「共通言語」としての規律や規範は必要であって、公的教育はそういった共通言語を習得するために存在していると認識しているので、完全な自由意志を支持するわけではありません。

また、社会から外れて「自由に」暮らすことは、高いサバイバビリティを持っていることが必須条件となりますが、実際にそんな能力と最後まで貫く覚悟を持っている人はそんなに多くなくて、なんとか食いつないでいる人が圧倒的多数ですし、それどころか「俺にはこれしかない!」と近視眼的になってるだけで何もできていなかったり、与えられたロールで「やれてるつもり」になってたりする人もかなり多いです。

当然、規律の中で生きるか自由に生きるかのどっちが良いとかは人によって違うので一概に言えるものではありませんが、現代社会のメインストリームから離れることの代償については正しく認識しておかないと、リスクヘッジができなくなるので本当にちゃんとしておいたほうが良いと思います。

【6】とはいえ、先程書いたように「ミヤハヤみたいな人間が許される社会」を支持するのは、どうやったって適合できない人は存在してしまうからです。どれだけ公的教育や社会福祉を充実させようが、「なんだかうまくいかない」という悩みを抱えている人達は実際にそこにいて、その人達が「生きやすさ」を感じられる社会を「やさしい世界」と呼ぶのであれば、その実現に対しては尽力していいと思います。

考え方としては障害者福祉における「自分や家族、友人が障害者になったときのことを想像してみましょう」みたいなのと同じで、もし自分や近しい人が何らかの事情でメインストリームから外れざるを得なくなったとき、また自分を支えるものを喪失してしまったとき、それでも安心して生きていける環境があれば良いなと思うとかその程度のものであって、崇高な理想がある訳ではありません。

【7】「平成狸合戦ぽんぽこ」の終盤において、人間に化けることができたタヌキの一部は人間社会に溶け込み、苦労しながらも生き長らえることが出来ましたが、人間に化けることが出来なかったタヌキは更に森の奥深くに住処を移したり、人里でゴミ漁りをしながら生き延びたりする一方で、自ら死出の旅路に出ることを選ぶものも出てきました。

人間は本質的にこのタヌキ達と同じで、洗練された教育によって訓練されたからこそ大半の人が化けれられるというだけで、少しでも気が緩んだり体調を崩したりすると尻尾が出てくるものだと思いますし、何かのきっかけで化けれなくなることもあると思います。

そうなってしまったとき、森の奥深くで自らを慰めてくれるコミュニティに引きこもるのか、プライドを捨てて人里でゴミ漁りをして生きていくのか、自ら死を選ぶのかという選択肢しか残されていないのであれば、今は大丈夫だとしても、心のどこかでは常にドロップアウトへの恐怖に怯えながら日々の生活を過ごすことになると思いますし、何かに怯えながら過ごす平穏な日々の中に「真の幸せ」が存在するとは思えません。

【8】ただ、だからといってどうすればいいのか、というのは自分の中で答えが出ているものではなく、「貧乏長屋のような小さな共同体の中で生まれた自分の存在価値を大事に抱えながら慎ましく暮らす」くらいしかアイデアは無いです。しかも、それは「年収150万円で僕らは自由に生きていく」であったり、シェアハウスの存在等で既にある程度実現されているものですし、更にその上での現在のような問題点が出てきているので、「森の奥深くを快適にする」以外にもっと別のアプローチが必要なんだろうなと思います。やはり、電池にして電脳世界で幸せに暮らしてもらうのが良いんでしょうか。

ミヤハヤ氏が何を考えて「やさしい世界」という言葉にたどり着かれたのかはわかりませんが、こういった課題について考える上で、ミヤハヤ氏の言動やそれに対する周囲のリアクションはとても参考になりますし、そういった「生き辛さ」に起因する様々なアクションを「わがまま」ではなく社会的な課題として捉えるためのきっかけとしては大変有意義なものだと思います。

【9】ミヤハヤ氏に対して「わがまま」「根性無し」といった印象を持つ方もおられると思いますが、そのように自分から切り離して認識してしまうと、ミヤハヤ氏やその周囲の方々の抱える課題について見落としてしまう可能性が高いと思います。だからこそ、「ミヤハヤ」という人物やその環境について私なりの考察を開示することで、ミヤハヤ氏を理解し、彼を取り巻く人々が彼の掲げるイシューを「自分ごと」として認識できるようになることを目的として本稿を作成しました。

彼のような存在を通じて、世の中の様々な人について思慮を巡らせることができるのがインターネットの利点だと思いますし、また、彼のような存在が「生き辛さ」を抱えずに生きていけるヒントもインターネットの中にあるのかなと思うと、20年近く見てきて「結局遊びくらいしか役にも立たねえ」と諦めていたインターネットに一筋の光明が見えたような気がします。

じゃじゃまるは「画家」でも「ブロガー」でもない「宮森はやと」という人物の大成を心からお祈り申し上げております。

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