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何者かになろうとする人

今回は前回の「真説・ミヤハヤ夜話」において少し触れた「名前のあとに@〜〜みたいな感じで肩書きを名乗りたがる人」について掘り下げていきたいと思います。超長いです。本文はすべて無料。

※「真説・ミヤハヤ夜話」を未読の方は事前にお読みいただけると、なんの話かわかりやすくなると思いますが、「とにかく長い」というお声を多数頂戴しておりますので、御覚悟の上お読みください。お忙しい方は「7.ミヤハヤ氏を取り巻く人たちについて」だけでもお読みいただければ幸いです。

1.「何者かになろうとする人」とは

【1】本稿における「何者かになろうとする人」を定義するにあたって、まずTwitterとかで名前の後に「@動画クリエイター」とか「@Webライター」のような職業を名乗っているような方々をイメージしていただければと思います。個人的な体感値ですが「そういうゾーン」に入ると90%くらいのアカウントが@以降で職業を記載されておられます。※下図はイメージです。

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あと、そういう方々によくあるのは「/で区切られまくった高密度のプロフィール」とかでしょうか。1回でもやったことを実績として全部書いてしまった結果、漫画家なのかYoutuberなのかブロガーなのか整体師なのかわからなかったりすることも多々あって、もしこれが履歴書だったと考えたら少し複雑な気持ちになったりもします。

【2】こういう方々が特に多く見られるのは、「なりたい自分になる」「会社に縛られない暮らしをする」などのお題目を掲げてオンラインサロンやライティング・プログラミングスクールなどを展開する、情報商材と自己啓発セミナーをミックスして丁寧に裏ごしすることで、滑らかな舌触りを実現したビジネスの界隈です。

それが遥か古より自己啓発セミナーにおいて伝承されている「引き寄せの法則」に基づいた「なりたい自分を口に出し続けることが実現への近道」的な考え方なのかはわかりませんが、聞いてもいないのに「俺ってこうなんだぜ!よろしくな!」と目を輝かせてくる人物に対して「ハキハキとした気持ちの良い若者だなあ」と感じる人がいる一方で、個人的には「ヤベェなコイツ」と感じてしまいます。

それ自体を好意的に捉えるか「ヤベェな」と捉えるかというのは、そのどちらが正しいとかいう類の話ではなく、単なるインターネットに対する価値観の違いだとは思いますが、私自身が「ヤベェな」と感じる最大の理由は「そんな大きなリターンも無いのに、よくそんな簡単に個人情報を剥き出しにできるな」という点です。

【3】職業だけでなく顔出し名前出しも当たり前ですし、プロフィール欄に羅列された出身地や居住地、出身校や在籍した企業名などを見ていると、『特定』のスキルを持つ現代の忍にとっては「いつでも殺(と)れる対象」です。

実際に採用や委託先の選定において「検索したらヤバそうなTwitter出てきたからお断りした」という話は何度も耳にしたことがありますし、実際に自分もランサーズで応募してきた人のTwitter見て「うわぁ」と思ってお断りしたことが複数回あるので、個人情報剥き出しでインターネットを満喫するのは社会的に相応のリスクがある行為だというのは、まず間違いないと思います。

また、そういった個人情報については一度流出されてしまうと本人の意志とは無関係に残り続けてしまうことから「デジタルタトゥー」とも呼ばれ、インターネット利用における大きなリスクであると指摘されています。

【4】しかし、そのリスクを侵してでも得たいものがあるからこそ、バシバシ個人情報を開示していく方が散見されるのだと思いますが、そこまでして「得たいもの(リターン)」とは何でしょうか?

このリターンについて考えたとき、まず第一に候補に上がるのは「お金」だと思いますが、よく聞くところの「月5万円の不労所得」とか「月商50万円達成」とかの話を聞いてると、多分普通に働いたほうが圧倒的に効率が良いですし、個人情報を公開するリスクと釣り合うとは到底思えません。(勿論なかには様々な事情により働くことが出来ない方もおられるとは思いますが、それは福祉領域の話かと思います。)

次に考えられるのは人恋しさというか、誰かと繋がっていたいという気持ちを満たすことですが、ハンドルネームだけで繋がっている友人や知人が存在していることに対する違和感も徐々に薄れてきているような現代において、誰かと繋がるために、わざわざ顔出し名前出しをしなければいけない理由があるとは考えにくいです。

そんな中であえて顔出し名前出しをする理由は、単純な承認欲求を満たすためではなく「不安定な自分という存在に対する焦燥感」から逃れるためではないかと考えています。

【5】この「不安定な自分という存在に対する焦燥感」というか「何者かになりたい(自己同一性を確立したい)」という渇望については、「真説・ミヤハヤ夜話」の中でも複数回言及していますが、そのように自己同一性に不安を抱える方にとって、「自分はこういう人間である」と高らかに宣言するのは、最も手軽に不安感を解消することができる手段であると思います。

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NHKにようこそ!」という作品において、元同級生たちが学校を卒業して社会に出ていく中で、引きこもりのニートである主人公は自分自身の現状を受容できず、「自分はクリエイターである」と豪語することで何とか自分の自己同一性を保とうとする描写があります。

この作品は作者ご自身の体験をベースにして描かれた作品だけあって、特に「人の脆弱さ」の描写においては真に迫るものがあると思っているのですが、この主人公のように22歳くらいの段階において、周囲の人間と自分を比較して自分自身の自己同一性に焦燥感を覚えるというのは、相当数の方が経験している事象ではないでしょうか。

そして、その結果「自分はクリエイターだから」という肩書に依存することで安心感を得ようとするというのも、極めてリアルな展開だと思っていて、就職活動がうまくいかなかった方々にとっては、心に突き刺さる物があると思います。

【6】「NHKにようこそ!」以外にもこういった青年期の自己同一性をめぐる葛藤を描いた作品は古くから存在していて、その中でも焦燥感に苛まれた若者が何らかの肩書やポジションにすがろうとするという描写は数多く見られることから、これらは現代社会における普遍的な感情の動きであり、人生において遅かれ早かれそういう時期があると考えるのが自然です。

そして、それらはあくまでも「そういう時期」であって、成長の中での一過性のものであるので、20歳前後くらいの方が「カズヤ@ソーシャルメディアクリエイター」とか「学生起業家/ソーシャルビジネスデザイン/メディアデザイン/ナレッジマネジメント/ゆる~く生きる/コーヒー/18切符/1日レンタル」みたいなのやってるのを見つけても暖かく見守れるんですが、昨今のインターネットにおいては30歳を超えたような方々であっても同様のムーブをされる方が散見されます。

この人達においては「若さ」という免罪符も無いため、もしデジタルタトゥーが刻まれてしまったら、これからの人生において結構な致命傷になる危険性が高いにも関わらず、顔出し名前出しで今日も元気に活動を続け、時には燃え盛っておられます。そして、多くの場合は「何者かになりたい」という渇望を擬似的に満たすこと以外の現実的な(お金とかの)リターンを得ることも出来ていません。

本稿においては、そういったモラトリアムのオーバーエイジ枠の方々を「何者かになろうとする人」と定義した上で、話を始めたいと思います。

2.なぜ「何者かになろうとする人」が生まれたのか

【1】このような「何者かになろうとする人」が生まれた背景としては、「ネットが普及したことで人々の価値観は変わったし、その中で成功する人も出てきたから自分もやれると思うやつが増えた」という説と「もともとそんなやつは沢山いたけどネットによって可視化しただけ」という説が存在しています。

個人的にはその2つが両立しつつも、比較的後者の要因が大きいと思っていて、例えば車寅次郎のように「メインストリームから外れた生き方をしてる人」は昔から世の中に数多存在していて、不特定多数にリーチできるというインターネットの特性上「名を挙げる」という一点において手軽であることから、そういった人達がネット上で目立つようになってきた、というのが実態に近いのかなと思います。

【2】これらの「メインストリームから外れた生き方をしてる人」が以前から存在していたということを示す一例として、「~~コンサルタント」みたいなよくわからない肩書で仕事をしているおじさんの存在があります。異業種交流会的な集まりに少し顔を出すだけでも、そういった謎コンサルのおじさんや謎マナー講師のおばさんの名刺が数十枚は手に入りますし、普通に飲んでる中で知り合ったおじさんが謎コンサルだったりすることも多々あります。

こういった謎コンサルのおじさん達は「どこにニーズが有るのかはよくわからないけど、何とか家族を食わしていけるくらいの収入がある」というパターンが多くて、「竹のある暮らしをデザインします」みたいな絶妙にピンとこない価値を提供している人であっても、十分に生業として成立していることが結構あるので、多分どこかしらにニーズはあるんだと思います。(とはいえ実態は借金まみれみたいな人も普通にいますし、実は資産家で仕事はほとんど道楽というパターンもあります)

【3】このように「世の中の大半の人にとって価値の無いことでも、自分ひとり食っていけるくらいの顧客が存在する」というビジネスと、不特定多数の人にリーチできるインターネットの親和性は抜群で、インターネットの無い時代においてはリーチする機会が限られたため「最低でも1/100人が価値を感じてくれないと商売として成立しなかった」ものが、個人が不特定多数に幅広くリーチできるようになったことで「1/10000人が価値を感じてくれれば成立する」になったことによって、謎ビジネスや競争力の無いビジネスでも意外と成り立たせることができるようになりました。

しかし、「1/100人が価値を感じるもの」と「1/10000人が価値を感じるもの」は逆に言うと、「99人がゴミだと思うもの」と「9999人がゴミだと思うもの」であって、前者と後者では単純に100倍の否定的な意見が生まれる可能性があると言えます。

この結果「一人から毎月100円ずつ集めるとして、3000人から貰えれば30万円じゃん!」とか考えた場合、日本の人口を1.2億人と仮定すると1億1999万7000人にとってはゴミでも全く問題無いという計算が成り立ってしまうが故に、謎職業を自称する人がゴミを撒き散らして悪目立ちしてしまうようになったというのが実態に一番近いと思っています。

【4】ただ、消費者目線で考えると、大手家電量販店が幅を利かせる現代において、街の電気屋さんが生き残っているのと近いのかなと思っていて、街の電気屋さんの太客は軽自動車みたいな定価でデカいテレビを買うことに納得しているわけですから、特に電気屋さんが責められるような話ではないと思います。勿論、価格以外のところで選ばれている、という側面もあると思いますが、最近は大手家電量販店のサポートも相当充実していることを考えると、そもそも「そういうテーブルで勝負をしていない」という感じなんだと思っていて、謎職業を名乗る方々においても、価格とかクオリティのような一般的なビジネスで競争力とされるようなもの以外のところで勝負されてるだけなのかなと思います。

そうやって「一般的なテーブルではないところで価値提供する」ことに当然違法性は無いですし、感謝する人こそ存在しても被害者を自認するような人はほとんど見たことがないので、謎職業を自称することで自己同一性を担保しながら、低クオリティの仕事をして小銭を稼いでいる(稼ごうとしている)行為って本当に誰も損してないというか、そこに存在する全ての登場人物にとって幸せなことのように見えます。

【5】そういった一般的には低クオリティというか競争力の無いスキルであっても、マーケットを変えることで一人分くらいは稼げるようになる、というのはインターネットによって実現された新しい生き方だとは思いますが、その行為に「ものを知らん人に口八丁で低クオリティのものを売りつけてる」という側面があるのは否めなくて、見る人が見たら「いや、そのクオリティでその値段取るの詐欺でしょ」となるのは仕方無いと思います。

そして、そのような側面を持つビジネスを「情弱ビジネス」と揶揄する向きは確かに存在していますが、上述したように違法性が無く、被害者を自認する人が存在していないのであれば、第三者がとやかく言うようなことではないのかなと思いますし、実際にそういうビジネスを展開される方の中に同様の主張をされる方も多くおられます。

この対立構造というか炎上のメカニズムについては後に考察するとして、とりあえずインターネットの発展によって「未経験や低スキルであっても必要としてくれる人にさえ出会えればビジネスとして成り立つ」という考えが現実化しやすくなった結果、自己同一性に不安を抱える方々が一斉に「クリエイター」や「アーティスト」を名乗り出し、そういった方々が自己同一性を担保するために各種オンラインサロンやオンラインスクールに入会していることが、昨今の隆盛を巻き起こしているのかなと思います。

【6】この「低スキルでもニーズがあれば生きていける」という考え方を更に先鋭化させた形として、ビジネス的なスキルは一切無くともキャラクター性を活かしてインターネットで薄く広く稼いで生きていくというスタイルも存在しています。

永井先生です。

現在も活動を続けておられるようなので、過去形で語るのは失礼かとは思いますが、約15年前の素人によるネット配信黎明期において、クズすぎる生活スタイルとパッショナブルなトークによって圧倒的な知名度を誇った配信者で、今でこそ様々なプラットフォームで実現可能となった「投げ銭」で生活するというスタイルをかなり早い段階で実現していたパイオニアです。

配信等で拝見する限りではありますが、酒に酔って前後不覚に陥ったり、ギャンブルで身持ちを崩してみたり、リスナーと小学生レベルの諍いを起こしていたりされているのを見ていると、社会適性という点において同世代平均を大きく下回っており、定職に就いて定年まで働き続けるような、所謂「一般的な暮らし」を実現することは困難な人物であるように思います。

しかし、そんな永井先生が公的福祉のお世話になること無く今日まで生き延びてこれたのは、やはりインターネットの賜物だと思います。

永井先生に限らず「ネットが無ければヤバかった人」というのは数多く存在すると思っていて、一昔前なら社会の荒波に精神をぶっ殺されて、路上でワンカップ大関を握りしめながら虚空を見つめていたかもしれない人たちが「インターネット」に自らの活路を見出しているという構図は、かなり多くの場面において散見されますし、学歴も職歴も無いけどワンチャン狙いでYoutuberやってみようぜってなるのは、やはりそこに希望を感じることができるからだと思います。

【7】このようにインターネットの発展によって低スキルであったり社会適性の低い方が「ワンチャンを狙える」という希望を持てるようになった一方、そうした方の自己同一性をより一層不安定にさせたのもまたインターネットではないかと考えています。

Facebookにおいて目にする同級生たちの「結婚しました!」「子供が生まれました!」といった投稿は、「それに比べて自分は…」という劣等感を強烈にくすぐる効果があると思いますし、それに誘発されてタイムラインが更なる幸せアピールで満たされていくのを横目から見続けた結果「自分は別のところで戦うしかない」という焦燥感に駆られて「クリエイター」を名乗るようになるのは、前述の「NHKにようこそ!」の流れと完全に同じです。

実際にそういう劣等感を感じたくないからFacebookは見ないという方も多くおられますし、Facebookに限らず何らかのメディアに触れている以上、同世代のスポーツ選手やビジネスマンなどの活躍は嫌でも目に入ってきますし、インターネットの場合はより粒度の細かい個人の活躍に関する情報が入ってくるため、どこに逃げようとも劣等感を感じてしまう要素が存在すると思います。

【8】そうやってインターネットを通じて劣等感と希望を交互に味わうことで、現実の自分と理想の自分の乖離が肥大化していった結果が「スキルも実績も無いのに謎職業を自称する結構いい歳の人=何者かになろうとする人」だと思っていて、この人達はある意味で前述の「一昔前なら社会の荒波に精神をぶっ殺されて、路上でワンカップ大関を握りしめながら虚空を見つめていたかもしれない人」なんだろうなと思います。

そうした「何者かになろうとする人」にとってのインターネットは、名乗るだけで不安定な自己同一性を担保してくれるだけでなく、あわよくばお金もゲットできるという、まさに一攫千金を狙える金脈に見えるんだと思いますし、個人情報に関するリスクについても許容できると考えるようになるかもしれません。(「そもそもリスクを認識していない」というのも十分あると思いますが。)

そして、こうやってワンチャンに賭けて一攫千金を狙っている人ほど「カモ」になりやすいというのは全ての勝負における基本です。

3.「何者かになろうとする人」を狩る存在

【1】この「カモ」が求めるものが主に「自己同一性の担保」であるというのは特筆すべき点だと思っていて、従来そういう人たちの受け皿となっていたマルチや情報商材界隈においては、やはりお金がメインディッシュであって、「仲間(に伴って得られる自己同一性の担保)」というのは副菜でしかなかったんですが、イケダ先生や伊藤さんなどの「新しい生き方」を提案するような方々が展開するオンラインサロンにおいては、「セルフブランディング」などの言葉を用いながら、自身から@以降で肩書を名乗らせる事によって洗礼名を授けるようなイニシエーションが行われています。

実はこのように新規メンバーに「自分はこうである」と宣言させて、そのコミュニティにおいては宣言した自己同一性(「なりたい自分」であること)を担保するという『洗礼』は、自己啓発セミナーにおける囲い込みの手法と酷似していますし、強めの企業における新卒研修でも用いられたりする由緒正しき手法です。

【2】具体的にどのような手法であるかというと、まず最初に「なりたい自分」や「目標」みたいなものをとにかく沢山語らせます。宗派によって異なりますが「死ぬまでにやりたい100のコト」みたいな感じのことをノートに書かされるっていうのが多いみたいです。ここで大事なのは「自分で書かせる(宣言させる)こと」であって、自分で書いたり宣言したことによって「あくまでも自分の意志でこれをやっている」という認識を植え付けることが目的です。全員の前で自分の目標を大声で発表させられるタイプの新卒研修とかも基本的にはこれと同じです。

そうして「自分で書かせた(宣言させた)内容」については、例えそれがどんな内容であっても既存メンバーは全てを受容します。ここで間違っても「もっと具体的な目標じゃないと現実的なステップを踏めないよ」とか言わないのが肝心で、「モテたい!」ならそれはそれでOKだし、「豪邸に住みたい!」ならそれはそれでOKです。ここでは「自分自身(の願望)が受容された」という安心感を抱かせることが重要で、これが自己同一性に不安を抱える「何者かになろうとする人」にとって劇的に効果があります。

あとはそこで語られた願望と手持ちの商材をリンクさせて「君はモテたいんだろ?~~さんを見てごらん。あの人はわずか2年でプラチナアンバサダーになって、今は海外で悠々自適な暮らしさ。勿論女なんて選び放題だ。さて、君はどうするんだい?」みたいな感じの話をするだけです。そうすれば、がむしゃらに高価な片手鍋セットを売ってくれることでしょう。

【3】今のはあくまでもマルチや情報商材界隈によくある流れを単純化したものであって、最終的な落とし所はやはり「商材を買わせること」になるのですが、イケダ先生や伊藤さんが展開されているビジネスにおいてはここが大きく異なっていて、「商材を買わせること」はあくまでも副次的なものでしかなく、最終的な落とし所を「ファンの母集団を増やすこと」とされているように思いますし、それが「インフルエンサー・マーケティング」の本質だと思います。

この考え方は2章において述べた「インターネットの発展に伴って1/10000人でも価値を感じてくれればビジネスが成立するようになった」という点とリンクすると考えていて、例えばファンの母数(熱烈具合は問わず)が20万人いるとして、その中の1/10000人が5万円の商材を買ってくれれば、それだけで100万円の売りが立つことになります。逆に1/10人が50円の商材を買ってくれても100万円です。

オウンドメディアが乱立した理由というのもほぼ同様のところに存在しており、とにかく会員数や読者数といった、いつでもリーチできる母集団を増やすことで、何らかのアクションをした際に売上を作ることができる土壌を作ることが最大の目的です。

【4】このように「たちまち何かを買ってくれなくても、いつかは何かを買ってくれるかもしれない人」に対して重要なのは、必然的に繫ぎ留めておくこととなります。その点で考えると「何者かになろうとする人」は自己同一性を担保し続けるだけで良いため、関係性の維持が極めて容易で、何ならコミュニティの中で仲間同士で慰め合ってくれるので殆どフリーメンテでも問題ありません。

そう考えるとオンラインサロンというモデルは「何者かになろうとする人」を囲い込み、更に集金する装置としては極めてよく出来ていると思いますし、フリーメンテであるが故にサロンオーナーが慢心してしまい「めちゃくちゃ放置されてる」みたいなタレコミが散見されるのも納得です。それでも入会している側としては「そのコミュニティに属しているうちは理想の自分が保証される」という強力なインセンティブがあるため、そう簡単に抜け出せないのかなと思います。

ちなみに、秘密結社のようなものが古くから存在することを考えると「特定のコミュニティ内において何らかの自己同一性を担保される」というのは、もはや人間にとって普遍的な安心感を与えるものなのかもしれません。

【5】また、それらオンラインサロン等で常套句として叫ばれる「常識に囚われて自分の頭で考えずにボーッと生きていたら路頭に迷っちまうぜ!」という主旨のヤンチャなメッセージングには、「何者かになろうとしている人」が求める「俺は他人とは違う」という実感を強化、更には「自分たちは常識に縛られた奴らとは違う」という選民意識を醸成する効果があります。

ちなみに、この「常識に囚われて自分の頭で考えずにボーッと生きていたら路頭に迷っちまうぜ!」というメッセージは、テクノロジーの発展や様々なパワーバランスなどの環境要因が複雑に入り組んでいる現代社会において、その変化を予測することは困難であり、意思決定を誰かに委ねていたら変化のスピードに対応できない、という意味では正しいと思います。

しかし、実態として路頭に迷ってる人の多くは「自分の頭で考えずにボーッと生きてきたからそうなった」よりは「社会の荒波の中ですり減った結果そうなった」というパターンがほとんどで、ボーッと生きてきて気付いたら路上でワンカップ大関を握りしめて虚空を見上げていたというパターンの人は案外少ないです。そう考えると虚空ウォッチャーの多くは「自分なりに社会の荒波と戦ってきた人」であって、その戦いに負けた結果として路頭に迷っているのかなと思います。

【6】そして、勿論全てにおいてそうではないということを前提とした上ではありますが、戦いに負ける理由の多くは「相手より弱いから」です。社会における戦いの「弱さor強さ」というのは単純な権力や影響力に関する指標だけでは無く、相手を切り崩すためのロジックや支援者を増やすための戦略性など、めちゃくちゃざっくり言うと「クレバーさ(頭の良さ)」だと思っていて、とても乱暴な言い方ではありますが、虚空ウォッチャーは「クレバーじゃないから負けた」というのが実態に近いんだと思います。(不慮の事故や環境要因等、如何ともし難い事情もあるというのは当然理解しています。)

個人的に「自分の頭で考える」という行為の絶対的な価値は1つしか無いと思っていて、それは「自分という存在を理解できること」だと思います。自分の頭で考えることによって「自分はこういうのが好きな人間なのかな」とか「自分の幸せってこういうことなのかな」ということを一つづつ確認していくことができるのが最大かつ唯一の価値であって、自分の頭で考えることを「社会における勝利条件」のように喧伝する「常識に囚われて自分の頭で考えずにボーッと生きていたら路頭に迷っちまうぜ!」というメッセージからは過剰なアジテーションの匂いを感じざるを得ません。

【7】そして、そんなアジテーションに煽られて踊っている人々が社会における戦いに勝てるだけの「クレバーさ」を兼ね備えているとは考えにくいです。

結果として「自分の頭で考えてないやつは路頭に迷う」というメッセージを振りかざして常識との戦いを煽ると、そこにのせられたクレバーではない人たちの屍が折り重なっていくだけというのは、想像に易い話であるにも関わらず、そういったアジテーションを続ける人たちに対して「自分たちは私腹を肥やしながらも、虚空ウォッチャー予備軍を量産している極悪人」という印象を持つ人がおられるのは当然だと思います。

「自分の頭で考える」というのは、あくまでも「戦いのフィールドに乗った」というスタートラインでしかなく、そこから勝ち続けることができるかどうかという点においては、普通に過酷な競争社会ですし、そこでのルールはシンプルに「強いやつが勝つ」だと思うので、安っぽいアジテーションに乗っかってしまうような「弱者」が生き残っていける確率は高くないと考えるのが普通です。

そうやって乗っかってきてしまった弱者に対して「そいつの人生の責任なんて取れるわけない」というのを得意気に記事として公開する感性は理解できませんし、普通に「最悪だな~」とは思いますが、この記事の主旨である自己責任論というか「自分の力も弁えずに戦場に出てきたやつが悪い」というのは、残念ながら真理だと思います。

【8】このように「弱者が戦場に出てきて死ぬ」というのは実社会でも一般的に見られる光景で、ブラック企業とまではいかずとも比較的強めの負荷がかかる職場に投入されてしまった新兵が、心身のバランスを崩して戦線を離脱していくというのは本当にどの職場でも起こりうる話ですし、それを指して「あいつには向いてなかったんだろうね」と切り捨てるような論調も耳にしたことのある人のほうが多いと思います。または実際にそんな判断をしたことがあるという方がおられても全然不思議ではありません。

ただ、企業等での就労をベースとした場合には異動や転職といった選択肢があるだけでなく、それらを支援するための社内外の仕組みや公的なセーフティネットも比較的充実していますが、インターネットというフロンティアに裸一貫で駆け出したフリーランサーが行き倒れになった場合に差し伸べられる手は会社員ほど多くはないので、落ちるときは一気に最下層まで落ちてしまう可能性があります。

世の中では比較的よくある判断であるにも関わらず「イケダ先生最悪だな〜」と感じる理由はここにあると思っていて、転落していった先にウレタンクッションが敷き詰められているのを確認した上で「あいつには向いてなかった」と切り捨てるのと、本当に奈落の底に落ちてしまう可能性があるのに「そいつの人生の責任なんて取れるわけないだろバカ」と切り捨てるのを比較した場合には、明らかに後者の方が心象が悪いです。

【9】「(組織に属さず)フリーの立場でやっていくのはシビアな世界」という言説は多くの人の口から語られている通りで、実際に個人事業主や独立起業をされているような方々から話を聞く中でも「気楽な部分もあるけど、いつ自分の市場価値が無くなるかわからない恐怖がある(から常にスキルを磨いて提供価値を高めている)」という人がほとんどです。

そうしたシビアな環境において生き残り続けるためには「自分の頭で考えて」「現状に沿った最適解を出すことができる」というのが必要だと思います。

「何者かになろうとする人」が情報商材チックな必勝法に飛びついていきなりYouTuberになったりしているのを見ていると、そもそも「自分の頭で考える」ということすらできていないと思いますし、「最適解を出す」ために必要な様々な要素を持ち合わせておられるとは到底思えません。

やれるだけやってみて無理そうならやめるというスクラップアンドビルドも立派な戦略だと思いますし、愚直にやり続けるのも戦略だとは思いますが、あくまでもそれらは「戦略の一つ」であって「必勝法」ではないという認識は必要で、その認識を持たずに「自分は他とは違ってクレバーに生きてる!」とたかをくくるのはなかなかに危険な状態だと思います。

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ちなみにこの青年はこの後タイで仕入れた腕時計をネットで売ったり、路上カウンセラーになったり、仮想通貨やったりして今は消息不明です。今年の10月が「3年後」にあたりますが、現在はどうされているのでしょうか。

こうやって安易に煽動されて必勝法らしきものに飛びついて自分は大丈夫だと安心してしまうような人≒弱者がカジュアルにシビアな世界に足を踏み入れてしまうのは本当にやめた方がいいと思いますし、「そんなの自己責任」と言いながらも煽動する行為をやめないのはなかなかのデビルだと思います。

4.なぜ「何者かになろうとする人」は炎上するのか

【1】私が観測する範囲においては、特段フォロワー数が多くない(=インフルエンサーではない)ような「何者かになろうとする人」であっても、風向き次第で一気に燃え上がってしまうような火種を抱えられていることが多いなと感じています。

上記の「3年後にどれだけ差ができてるのか楽しみですね笑」の青年もそこそこの勢いで炎をまとっておられた記憶がありますが、発見当時フォロワー数は2〜300人程度で、内訳としても「相互フォロー歓迎」みたいな実体不明のアカウントや同類の「何者かになろうとする人」が大半だったと思うので、多分私が見つけなければ火種が炎になることはなかったのではないかと思います。

イケダ先生とか伊藤さんのような一流の火の玉ボーイズ&ガールズの場合は、ご本人達が炎属性であることは勿論ですが、周辺にガソリンタンク(それを見つけて囃したてる人)がたくさん設置されているからめちゃくちゃよく燃えるだけであって、発言内容そのものをよく見てみると、実は「こういう絶妙にイヤなこと言うやつって実際いるよね」くらいのものが多いです。イケダ先生においては、それらを意図的にされているフシも大いにありますし、絶妙に心に引っかかる言葉で耳目を集め、未だリーチできていない潜在層にリーチする手法として炎上を用いておられるのかなと思います。

【2】そういう炎を操るタイプのスタンド使いであるのなら全然良いと思うんですが、「何者かになろうとする人」は無自覚に「何者かである自分」を演出(というか自認)するために自分やその周囲とその他の存在を比較して「常識に囚われてるやつらはダメだ」などの相手を見下す言葉を使ってしまった結果、いつの間にか四方八方を炎に包まれていたりします。

更に「炎に包まれている」という点のみにフォーカスして、イケダ先生のようなハイレベルの炎使いと自分を重ね合わせることで「自分はインフルエンサーだから燃えているんだ」と勘違いした挙げ句、実状と乖離した自己像をより強固なものにしていくという流れを何度も目にしていますが、その割にはフォロワー数そんなに多くない(1000以下とか)ことがほとんどなので、単純に風の強い日に火の不始末からボヤを起こしただけの話だと思います。

その点で考えると、伊藤さんは自分から火薬庫に飛び込んで無邪気に花火で遊んでいたら引火したみたいな感じの炎上が多いと思うので、炎使いというよりはド天然の人なんだろうなと思いますが、普通に謝れば良いところでも「こんなところに火薬庫を作るほうが悪い」みたいなことを言い出したりするあたり、そもそも炎の性質が違うんだろうなと思ったりもします。

話が逸れましたが、「何者かになろうとする人」が自己像を守るために発した言葉が誰かの琴線に触れることで炎上を招くという構図については、今日もどこかで繰り返されているでしょうし、そういう火種を目ざとく見つけては油を注いだり風を送ったりするインターネットゴブリンが跳梁跋扈している以上、「発言には気をつけましょう」程度の訓告では一切効果が無いと思います。

【3】しかし、「何者かになりたい」という欲求それ自体は誰しもが持ち合わせているものというか、誰しもが通過するタイミングであって、それを「承認欲求(笑)」みたいな感じで嘲笑するのは違うと思います。だからといって、その欲求に端を発した他者を見下すような言動は全部生暖かい目で見守っていきましょうねというのも「見ちゃいけません」みたいな話なので、それはそれで違うんじゃないかなと思ったりもします。

特に欲しい気持ちが成長しすぎて、万能の自己の幻を自己の中に作ってしまってるところまでいってる場合、それを発端として心身のバランスを著しく崩してしまうケースや既に治療が必要な段階となっているケースも多いため、できる限り早い段階で「今、自分はバランスを崩しているな」ということを自認してもらった上で、然るべき処置を受けてもらうのが一番いいのかなと思います。

【4】前回、宮森はやと(現:サンガーノ)氏に対して「このままだとコイツ死ぬな」と思ったこと、そしてそれをご本人に伝えたことを書きましたが、私自身がそういった認識に至った理由は「実際にそういう人を沢山見てきたから」です。

就職して「会社でうまくやっていけない自分はどうやらポンコツみたいだ」となって、早期離職して「そんな中で同級生はそれでもみんな頑張ってるのに自分は全然ダメだ」と凹んでいたのが、30歳前後になってくると「同級生は結婚して子供いたり家買ってたりするのに自分はまだ就職すらしてない」という焦りになってきて、一発逆転を狙ってYoutuberになるとかFXでどうこうとか言い出すけど、結局両親に小さな借金をしただけで終わる、みたいなパターンは本当に沢山見てきましたし、じゃあその人達はどうなってるかと言うと、心身のバランスを崩しながらも似たような状態の仲間と集まって、ゆっくりと年老いていっていたり、措置入院が必要なレベルで心を病んでしまっていることが多いです。

で、上述した「虚空ウォッチャー」の方々の大半がこれに類似したルートを辿っています。一発逆転を狙う過程で犯罪に手を染めて服役、出所して生活保護みたいなパターンはもはや王道中の王道ですし、服役こそせずとも一発逆転を狙った結果借金だけが残っていたりするのは、正に上記のような気持ちの焦りからのライカローリンストーンがあると考えるのが自然です。

【5】そういった「その道は危ないぜ」という老婆心からヲチというか嘲笑というかに至っているケースは、特にこの「何者かになろうとする人」をヲチする場合に多いように感じていて、明らかな奇人変人の部類であれば適切な距離を保ちながらおさわり厳禁でヲチをするというのが定石でしたが、「何者かになろうとする人」に対しては、あえて本人に見つかる可能性が高い場所で言及することが多い気がします。

これは水を差すどころか頭から冷水をぶっかけるような形でこそあれど、結局どこかで「頭冷やせよ」という気持ちがあるからだと思っていて、少なくとも私個人はそういう気持ちから「真説・ミヤハヤ夜話」を書くに至りましたし、その過程でいろいろなお話をしたからこそ「こんな良いやつが無駄にボロボロになっていくのは見たくないな」とも思っています。

少し前に中学生がヒッチハイクでアメリカを横断するというチャレンジをやった際には、各方面から「マジで危ないからやめとけ」という声が上がりましたが、大体の「何者かになろうとする人」の炎上の火種となる対立構造はこれと同じだと思っていて、周りの人は老婆心から注意喚起をしているだけであっても、本人が「水を差す行為=アンチ」と捉えて徹底抗戦の構えをしてしまった結果、火だるまになるという流れをよく見かけます。

このように「何者かにならなければ」と焦った挙げ句、身の丈に合わない無謀な挑戦をしようとしている人に対して、厳しい意見を投げかける行為を「アンチ」とするのか「優しさ」とするのかは難しいところではありますが、その投げかけの意図がその人なりの善意なのか悪意なのかという点を判断基準とする場合は、間違いなく「善意」だと思います。

もちろんなかには見当違いのアドバイスをしてくるような人もいますが、それもその人なりの善意であって、ただ「(角度的・能力的に)見えてないだけ」ということは認識しておいたほうが精神衛生上絶対に良いと思いますし、それに対して「クソバイスだ」と騒ぎ立てるのは明らかに過剰反応であって、「お気持ちだけ頂戴しときます~」という美しい日本語はそういうときにこそ輝くと思います。

また、これらの批判的な要素を含むメッセージに対して「自由に生きられないやつらが嫉妬して言ってるんだ」や「この国は同調圧力が強いから」などと捉える向きもありますが、それは千鳥足で喚いている人に対して「おっさん大丈夫か?」と声をかけてくれているだけで、ほとんどの人は冷ややかな目と嘲笑を残して過ぎ去っていくので、声をかけてくれるだけ優しいのかなと思います。

そもそも、それなりに社会的地位を築き上げたり稼いでいる人に対してならまだしも、「何者かになろうとしている人」においては、その殆どが特に地位も無いですし全然稼げてないので多分嫉妬とかではないと思います。

【7】また、別の視点としては「極一部だけでも価値を感じてくれれば成立する」というビジネスモデルであるが故に、批判も大きくなる=炎上しやすいというのは前述の通りでありますが、一方でビジネスモデルとしてあんまり変わらないことをやっているような、同じくフリーランスで謎コンサルをやってるおじさんや謎講師のおばさんに対して、それほど批判は向きません。

これは単純にインターネット上での露出の少なさに起因する部分が大きいとは思いますが、また別のところにも「燃えにくい原因」があると思います。それは、職業観の違いです。

謎コンサルのおじさんたちは謎コンサルになりたくてなってるというケースよりは「もっと金を稼いでよりよい生活をしたい」という欲求を満たすために謎コンサルという「手段」を選択している一方で、「何者かになろうとする人」たちは「『~~という自分』になりたい」という欲求が源泉になってしまっていることが多くて、手段と目的を混同してるというか、すごく雑に言うと「仕事ナメてる感」を感じることが多いんだと思います。

実際、謎コンサルのおじさんのビジネスプランを聞いてると「めちゃくちゃ失敗しそうだなあ」とは思いつつも、凄まじい行動力と営業力でそれを成立させてしまっていたりすることも多々あって、そういうのを見ていると「頭でっかちになるのは良くないな」と反省することもありますし、それを支える「覚悟」みたいなものを強く感じることが多いです。(勿論めちゃくちゃ失敗してる人もいます)

一方で「何者かになろうとする人」の場合は、プランニングの段階で到底真剣に考えたとは思えないだけでなく、それを実現するための行動についてもクラウドファウンディングくらいしかやってなくて、「結局は自己満足したいだけだから自分の身を刻むようなことはしないんだな」と感じることが多いです。

【8】勿論、そういう功名心自体は否定するようなものではないですが、さすがに「なれたらいいな」くらいの中途半端な覚悟で生き残れるような甘い世界ではないでしょう。

そして、古代の戦において若者たちが功を焦る余りに勇み足で死んでいったのと違って、インターネットの戦において実際に命を落とすことはないですが、むしろ「死」という形での強制退場が無くなってしまったことによって、死に場所を失ってしまった「ゾンビ=何者かになろうとし続ける人」が出てきたのではないかと思います。

そして、そうしたゾンビたちに「いやお前無理だって」と批判的な意見を投げつける人がいるのは「ちゃんと殺してあげよう」というせめてもの優しさなのかもしれません。

【9】ネットにおける誹謗中傷が話題になる昨今ですが、「何者かになろうとする人」に対して否定的な意見を投げ掛ける方の中には「情報商材は悪だから」「マルチは悪だから」といった善悪の二元論だけではなく、(それが自覚的なものなのかはともかくとして)善意や優しさを源泉としている方がおられるのではないかなと思いますし、その気持ちが上手く整理できていなかったり伝えきれていない、そして受け手側もそれを受け止めていないが故に「炎上」という結果が引き起こされるのかなと思います。

炎上を防ぐために「火の不始末を起こすな」というのは、人間には普遍的に(特に青年期において)そういう欲求がある以上は仕方の無いことであって、現実的な対処ではありません。そう考えると、やはり火の手が上がってしまったとき、適切に放水することが重要だと思いますし、そこで間違っても油を注がないことや、水持ってないのに火に近づいたりしないことを遵守することで、しっかりと「鎮火」することが大事だと思います。

そして、そのためには批判する側が「この批判をした上でどうなるのが理想か(論破することが目的になっていないか)」「そのために相手に必要なアプローチは何か」ということをしっかりと整理した上で発言することが最も大事だと思いますし、受け手(何者かになろうとする人)側も自分に向けられた批判には嫉妬や敵意だけでなく、様々な気持ちが含まれていることを認識できると、ただただ心を痛めるのではなく、もう少し前向きな気持にもなれるのかなと思います。

5.「何者かになろうとする人」のコミュニケーション

【1】炎上とは別に「何者かになろうとする人」の発言を見ていると「言葉が薄っぺらいな~」と感じることがあります。それは単純な文章力の問題ではなく、自分とその言葉との関連性を明確に示せていないからだと思いますし、加えて本人の中で言葉の定義ができていないからだと思います。

言葉で説明するのが難しい概念であっても、それを自身の言動を通じて共有することは可能だと思いますし、いくら「心が大事だ」と繰り返したところで、「心って何?」ということへの明確な説明ができなかったり、芯の無い言動をしているようでは「こいつ適当に言ってるんだろうな」という印象しか残りません。そうして当人(の普段の言動やイメージ)との結びつきが弱い言葉を聞いたときに「ぺらいな~」と感じるんだと思います。

ロールスロイスの後部座席で分厚いステーキを食べながら二酸化炭素排出量について苦言を呈している人を見たら「いやいや」ってなると思いますが、そこまで極端じゃなくてもキャバクラとか行きまくってる人が、自分の子供に向けて「チビどもに言っておきたい10のコト」みたいなのを書いてたら違和感あるじゃないですか。

これと同じで、社会経験に乏しい人が「ビジネスとは」みたいなこと語ったり、大して成功してもいないのに成功哲学を語ったりすると「薄っぺらさ」を感じるのは当然のことだと思います。

【2】また、界隈における「ビジネス」「マーケティング」あたりの言葉については、殆どの場合において明確な定義無く使用されている印象があります。ひどいときは一つの文中において複数の意味を持つ「ビジネス」が登場してきたりしますが、そういう文章を読んでいると、読み解くのが難しすぎて自分の語彙力や読解力が不安になってきますし、どんな頑張っても読み解けないことすらあります。

そこまで行くと単純に文章力の問題なような気がしますが、そこまでいかなくとも「何者かになろうとする人」には「自分の中で曖昧にしか定義できていない言葉」をそのまま使うことに違和感を感じていない方が多い印象があります。そして、そういった「曖昧な言葉」を「曖昧なまま使う」人が多いのは、そもそも所属するコミュニティにおいては、それが暗黙のルールとして成立しているからではないかと思います。

このインタビュー記事はよく読むと「本当に何一つ面白いこと言ってない」んですが、それは主にインタビュアーの方が、無意識のうちに「相手への理解を示すこと」を優先してしまった結果「ツッコむべきところをツッコんでない」ことが原因であって、「何者かになろうとする人」を中心に構成されるコミュニティにおいても、これと同じ現象が発生しているように思います。

【2】彼らのコミュニティにおいては、互いの@以降のロールを認め合うような相互承認こそがコミュニティに所属する最大のメリットである、というのは3章にて述べましたが、この相互承認の中では自分の中で曖昧なままの言葉を用いても、そこにグルと弟子のような明確な上下関係が無い限りは「うんうん、そうだね」と認めてもらえることがほとんどです。

ここにおける会話の目的は「理解者がいることを確認すること」であって、「わかるわかる」という態度を示すことでコミュニケーションが完結しているため、厳密な言葉の定義に対して執着する必要がありません。結果として当人同士は楽しげに会話をしているはずなのに、第三者から見ると「楽しげに会話しているけれどよく聞くと会話が成立していない」という不気味な印象を受けたりします。しかし、当人たちにとっては「理解を示してもらえる」という事実にこそ救いが存在しており、この安心感を「心でつながっている」と認識することで、よりコミュニティへの依存度を高める仕組みが存在しています。

そういった理解を示すこと自体が目的になっているやり取りを見ていると「会話が成り立っていない」というよりは「お互いがお互いの方を見てない」というような印象を受けることが多くて、そこで飛び交っている言葉についても、受け手のことを考慮していない無加工の言葉が多いような気がします。

【3】そうして「自分が発言することによる客観的な整合性」や「言葉の定義」といった、相手に理解や納得を与えるような要素が欠如したまま発言することによって「薄っぺらい言葉」が次々と紡ぎ出されているのかなと思っていて、そうして発言することが常態化することで「仲間はみんな理解できるんだから、理解できないやつはバカなんだ」みたいに勘違いしてしまい、おかしな方向にアクセルをベタ踏みしてしまうのではないかと思います。

スピリチュアル業界はこの傾向がかなり顕著に存在していて、そうして自分の言葉を理解できない人を「魂の次元が低い」などの表現で遠ざけていくことによって、どんどん高次元の存在に近づいていく感じです。

このように「承認されること」に慣れていくのと同時に、相手の言ってることがよくわからんままに「うんうん、そうだね」と承認することについても、どんどん慣れていきます。

【4】宮森はやと氏がイケダ先生をはじめ、所謂『界隈』の方々を指して「優しい」と表現しておられたのは、その界隈の方々のベースに「自分を否定してこない限りは相手を否定しない」というスタンスが存在するからだと思っていて、実際に私がこれまでにお話したことのあるスピリチュアルやマルチや情報商材やネットビジネスなどの『界隈』の人達は、私が友好的な態度を示した上であれば「少し考えれば社会倫理に悖ること」や「明らかに非現実的なこと」であっても、「おもしろいね~」と受け入れてくださる方のほうが圧倒的に多かったです。

私は性根が腐り切っているので、あえて自分から脇の甘い話をした上でそういう反応をする人だったら「コイツはダメだ」と内心で見切りをつけたりしていますが、自己同一性に不安を抱える「何者かになろうとしている人」であれば、やっと自分にも理解者が現れたという安堵に包まれると思いますし、その自己同一性の不安定さ故に「自分を理解できるこの人はすごい人なんだ=すごい人に理解された自分もまたすごい人なんだ」という認識になってしまうのも仕方ないと思います。

【5】3章においては、これらを「狩る側の手法」として紹介しましたが、大半の「何者かになろうとしている人」にとって、これらはテクニックでもなんでもない単なる「コミュニケーションのスタイル」なんだと思います。

そして、それは「そうすれば相手が喜んでくれるし、自分も受け入れてもらえる」という双方の極めて善良な気持ちの上に成立していて、更にはどちらか一方だけが負担を感じることも無く、完全なWin-Winの関係性を構築できる究極のコミュニケーション方法であるという認識が存在すると思います。

現代社会においては、様々な場面で誰かに叱責されることや否定されることがありますし、誰しもそういう場面を避けたいという気持ちはあると思いますが、特にその気持ちの強い人にとって「どんなことを言っても受け入れてもらえるという安心感」というのは、何事にも代えがたい魅力があると思います。

【6】「相手も喜んでくれるし、自分も安心できるし、お金もかからない」のであれば、それによって救われる人は沢山いるなと思う部分も大いにあって、宮森はやと氏が一時期仰っておられた「やさしい世界」というのがこの「相互承認の世界」というのであれば、それはそれで全然良いんじゃないかなと思います。

ただ、それはあくまでも「共通の目的を持った集団」においてのみ通用するルールだと思っていて、同様に「相手の発言を否定しない」というルールを掲げるブレインストーミングにおいては「最善策の検討」という目的が、グループセラピーにおいては「治療」という目的があるからこそ、それらが成立しているんだと思います。

【7】その視点に立つと、「何者かになろうとしている人」がその自己同一性の不安定さ故に「安心感を得る」という目的のために集まっているのが『界隈』の正体な気がしていて、インターネットによって劣等感の地雷に溢れた現代社会において、いわばシェルター的な役割を果たしているようにも思えます。

ただ、上述のグループセラピーの状態目標が「治療が不要な状態」であることに対して、『界隈』における状態目標は「安心している状態」である点が大きく異なっていて、「安心を得られる場所に居続けること」にウェイトが置かれているような気がします。

これをバキバキに無遠慮な言葉で表すと「依存」だと思います。勿論、なにかに依存すること自体は全くもって悪くないと思いますが、「自分が何かに依存してしまっている現状」についてはしっかりと認識する必要があります。

なぜなら、それが医療の視点から治療すべきものであれば勿論専門家による治療が必要ですし、そうでない場合でもその人自身が生きていく上で「何が自分を気持ち良くしてくれるのか」を把握しておくのは極めて重要なことだからです。

【8】しかし、定義が曖昧な言葉でも相手が表面的な理解を示してくれる状態にあるうちは「自分は満たされているんだ」という実感がある一方で、自分がそれに依存している現状を俯瞰することは難しいように思いますし、そうした「薄っぺらい」コミュニケーションに慣れてしまうと言語運用能力は間違いなく低下します。

言語運用能力と「思考力≒物事に対して深く考える力」は比例していると思っているんですが、「何者かになろうとする人」が安心感を求めて薄っぺらい言葉を用いたコミュニケーションで悦に入ってしまうことによって、言語運用能力が低下する⇒更に自分のことがよくわからなくなっていく、という負の連鎖が始まってしまうような気がします。

そこまでいくと流石に考えすぎかもしれませんが、「何者かになろうとする人」は自分の感情に対して、それをしっかりと言葉に表すことができない方が多いと思いますし、「なんで?」と突き詰めると結構早い段階で「~~さんが言ってた」みたいな台詞が出てくるので、結局自分自身についてちゃんと考え抜けていない印象があります。

【9】誰かの引用や自分の願望でいっぱいになった宝箱を撫で回しているだけならまだしも、ふと冷静になって自分自身を客観的に見つめる力すら無くしてしまうと本格的にヤバいと思います。

勿論、自己投影や現実逃避といった回避行動は、誰しもが持つ防衛機制によるものではありますが、残念ながらそれらによって事態が好転することはほぼありません。

インターネットにおいて散見される「自分を悪く言うような人からはすぐに離れたほうが良いよ」という言説を例に挙げると、それが「逃げるという選択肢もあるよ」という助言であれば確かにそれは一理あるかもしれませんが、様々な環境要因がそれを許さないシーンもありますし、そうしたときに必要なことはやはり「立ち向かうこと」だと思います。

そして、最も恐れるべきなのは「何者でもない自分を直視すること」ではなく「立ち向かわなければならないときに何もできないこと」だと思います。

6.どうすれば「何者か」になれるのか

【1】「何者かになる=自己同一性が安定する」というのがどういう状態であるかを考えると「主観的な自己像と客観的な実像が一致している状態」というのが一番しっくりくると思っていて、その客観的な実像の部分を担保してくれるシェルターが「界隈のコミュニティ」なのかなと思います。

ただし、シェルターから一歩外に出てしまうとその実像は砂になって消えてしまうので、どんどん出られなくなっていくというのは前述した通りで、じゃあもっと広いとこに出ていくためにはどうすればいいかと言うと「シェルターを拡張していく」しかないんだろうなと思います。

勧誘行為はまさにこのシェルター拡張工事だと思いますし、シェルター同士の陣取り合戦みたいな様相を呈している場合もありますが、別にシェルターに依存しなくても「何者かになれている(別に焦ってない)」人達にとっては、よくわからない言葉で通じ合ってニコニコしている不気味な隣人の不気味な勧誘にしか思えないのも不思議ではありません。

画像8

SIRENというゲームに出てくる屍人(しびと)というゾンビのような存在は、人間を見かけるとめちゃくちゃ襲いかかってくるんですが、その理由は「仲間にしてあげたいから(屍人になるとめちゃくちゃ多幸感に包まれる)」らしくて、個人的に「みんなでシェルターの中で幸せに暮らそうよ」という誘いは屍人みたいだなと感じます。

【2】「何者かになる」というのが「主観的な自己像と客観的な実像が一致している状態」を指すとした場合、そのシェルターに依存せずとも自己同一性が安定している人は具体的にどういう状態にあるのかを考えてみると、殆どの場合「明確な客観的事実によって担保された実像が存在している」のではないかと思います。

図1

かなりざっくりと示していますが、この図のように「母」であり「妻」であり「会社員」であり「娘」であるという自己像に対して、「子供がいる」「結婚している」「就職している」といった誰が見てもわかるような確実性の高い客観的事実が揃っている場合、多分そんなに「何者かにならなければ」という焦燥感に駆られるようなことはないと思います。

図2

それに対して、プロフィールにいっぱい肩書を書いてる「何者かになろうとしている人」の場合はこんな感じになっていて、なんとか色んな肩書で器を満たそうとはしているものの、一つ一つの構成要素とそれを担保する事実を見てみると「それなら誰でも名乗れるんじゃね?」という脆弱なものが多いという感じです。こういう状態の人を指して展開される「~~さんとこの息子さん、なんかよくわからんけど色々やってるらしいね」という会話が全てを物語っていて、結局客観的事実として認められるのは「~~さんとこの息子さん」でしかなかったりします。

20歳くらいまではそうやって「~~さんとこの息子さん」でしかない状態にあるというのは全然普通なことで、大学生くらいの人を図で表すとこんな感じになるのかと思います。

図3

この「???」を何で埋めるかというのが、所謂「キャラ作り」の部分であって、バンドやってみたり海外でボランティアしてみたりバイトリーダーになってみたり、色々経験した結果が就職活動の自己PRとして結実するんだと思います。それも就職したら「株式会社~~の社員」に上書きされてほとんど残らなかったりしますが。

そして、この点線で囲われた部分の多さが「何者かにならなければ」という気持ちの強さに比例しているんだと思います。

【3】「母or父」「妻or夫」「会社員」のように、客観的事実として認められやすい要素によって既に自分を大部分を構成されている人の中に「何者かにならなければ」という焦燥感を募らせる人が少ないのは、点線部分が少ない=自己認識と客観的事実が一致している=自己同一性が安定しているからだと思います。

反対の視点から考えると「早く結婚したい」「早く子供が欲しい」のような言葉の中には、少なからず自己同一性に対する渇望が含まれていると思います。そして、同級生のFacebookを見て「早く結婚しなきゃ」「早く就職しなきゃ」という焦りを感じるのと同様に「何者かにならなきゃ」という焦りも、根本的には同種の「こうあらねば」という呪いによるものだと思います。

古くから存在する「早く結婚しろ(子供産め)」「早く就職しろ」というメッセージも「自分らしく生きよう」というメッセージも、結局は「(その脆弱な点線部分を埋めて)一廉の人物になれ」ということを要求する点において共通していると思っていて、そうやって「自分らしさ」や「セルフブランディング」が連呼される中で、「自分らしさ」を見つけられないことに対する焦燥感が募るのは仕方無いと思いますし、それを煽ることがビジネスとして成り立ってしまうのも当然のことなんだろうなと思います。

【4】しかし、「何者かになる」というのが自分を構成する箱の中身を埋めていく行為だとしたら、やはりそれは事実の積み重ねによって構築しない限りは脆弱なままだと思います。

キャリア形成に関する考え方として「キャリア・アンカー理論」と「プランド・ハプンスタンス(計画された偶然)理論」というものがあります。

図4

図で表すとこんな感じで「自分の価値観や欲求に基づいた理想像と、それを実現するために必要なステップを明確にした上で、行動を起こしていく」のと「目の前に降りかかることを楽しむように心がけていたら、いつの間にか自分だけのポジションに到達してる」みたいな感じです。

自分の理想とする暮らしを実現するために「@~~」を自称して活動するのは、「自らプランニングして自ら遂行していく」という意味でかなりキャリア・アンカーよりの考え方だと思うんですが、この理論は「目まぐるしく変化する現代社会においては、高い能力と鋼の意志を持ち合わせた一部のエリートにしか再現性が無い」という観点から、現在では「それができりゃ世話ないわな」という扱いをされています。

そして、残念ながら一定年齢を超えて尚、自身の軸となる方向性を見つけあぐねているような「何者かになろうとしている人」の大半は、高い能力や鋼の意志をお持ちではないので、そんなマッチョ思想をベースにしたところで何の結果も得られない可能性のほうが圧倒的に高いです。

逆にプランド・ハプンスタンスについては「明日にはどっちに転ぶか予想できない社会なんだから、せめて目の前のことを楽しんでたら良いことあるかもしれないぜ」という、ある種の諦念が含まれた考え方であって、これとセットで「Deal With It(とやかく言わずにやれ)」という言葉が使われたりするような末法思想です。

画像7

そして、ここでアントンが言う「迷わず行けよ、行けば分かるさ」は、どちらかと言うとプランド・ハプンスタンスに近い考え方だと思っていて、「四の五の言わずに自分の足で前に進んだらええねん」というアントンなりのソリューションだと理解しています。

【5】ここで大事なのは「自分の足で」というところだと思っていて、「何者かになろうとする人」の多くは、自分の足が着いている場所を正確に把握できおらず、一足飛びで別の島に行きたがる傾向があります。

アーティストだクリエイターだと名乗ったところで、実態や評価が伴っていなければ客観的に「フリーター」や「よくわからんことやってる人」でしかないという事実は厳然と存在していますし、それがシェルターの中でだけ保証される肩書であるのならば、それは仮初のものです。

ここで「Deal With It」と言われて何をやるかを考えると、今自分が置かれている環境において求められていること、それは学生であれば勉学でしょうし、フリーターであれば与えられた仕事をまっとうすることであって、決して一発逆転を狙って色んなものに節操なく飛びつくことではありません。

まずは、自分のリアルな立ち位置を受け入れるところから始めていかないと、本当に文字通り「地に足の着いた」行動は取れないと思います。

【6】こういう夢の無い話をすると「何かを始めるのに遅すぎるということはない」という話を持ち出される方がおられますが、そういう捉え方次第みたいなマインドの話の遥か上位に「費やした時間(=経験)と成功確率は比例する」「老いと共に残り時間は減少していく」という絶対的な真理が存在していることを忘れてはいけません。

「何かを始めるのに遅すぎるということはない」というのは、あくまでも「誰にでもチャレンジする権利はある」や「趣味くらい自分の好きにやればいい」という意味であって、当然ながら「後発でも必ず成功できる」という意味ではありませんし、後発で成功するためには通常を上回る密度の経験が必要であって、明らかにそれすら出来てない人が「自分は成功できる」と吼えたところで、それは「バカがなんか言ってる」にしかなりません。

そのように客観的に見てリスクとリターンが釣り合っておらず、成功に向けたステップも無く成功確率の低いチャレンジをしようとする人に対して、「止めとけって」という声が上がるのは当然のことだと思いますし、それに対して「出る杭は打たれるんだな」みたいな感情を持ってしまうと、いよいよ取り返しがつかなくなってきます。

色々書いてきましたが、「自分がどう在りたいか」という点から逆算してそれを実現させることってめちゃくちゃ大変で、大体の人は「現状から手の届く場所に行く」くらいのことを繰り返していくしか無いと思いますし、それはキャリア形成だけでなく、自己同一性を確立していくプロセスにおいても同様です。

そう考えると、他者から客観的に見た自分がどういう存在なのかを正確に認識することが「何者か」になるためのスタートラインであることは間違いありません。

【8】まあ、それができないから困ってるんだよって話ではあるんですが、今のままゾンビ続けてるよりは一回ズタズタになった方が楽だと思って、まずは一切盛らない、雇用されて就労した実績(とフリーランスなら実際の受注)のみの履歴書を書いてみることをオススメします。

そこに書かれたものを自分で見て出てくる素直な感想が「何もやってねえな~」なのか「結構色々やってるな~」なのか「長続きしてねえな~」なのか「結構長くやってたな〜」なのかはわかりませんが、それがキャリアという側面におけるその人の実像です。

当然、その人を構成する要素は学歴やキャリアだけではないので、それで全てがわかるわけではありませんが、少なくともその人を知らない人から見たときにどう映るかという点においては大体あってると思いますし、「どんな価値を提供してきたのか」「それがどう評価されてきたのか(いくら稼いだか)」という視点は「自分」という存在を客観的に確認するためには最適だと思います。

【9】ここで「ヤバい、自分は何者でもない」と更に焦るのではなく、「一旦落ち着こう」と深呼吸するのが大事だと思いますし、そんな時にも支えてくれる友人や恋人、家族がいるとしたら、それは「肩書や状態だけで自分を判断せずに人格として支えてくれる人」なので大切にした方が良いと思います。そういう関係が無くて不安なんだったらハローワークに行ってみてください。かなり親身になって聞いてくれる相談員がいます。

ここで「うんうん、わかるよ。だから、ぼくと一緒にSUCCESSしよう」みたいな言葉に乗っかってしまうと、その先には上述した通りのシェルター暮らししかないので注意してください。

そういった甘言をくぐり抜けた先に広がる世界は、きっとめちゃくちゃ退屈な日常だと思いますが、それを「おもんないな~」と感じるのは、あなたがおもんないからです。

まとめ

【1】「何者かになろうとする人」は生存率が高まった近代以降においては間違い無くありふれた存在であって、ましてやインターネットの発展によって超感覚に目覚めたニュータイプではありませんし、それらを養分とするビジネスも手を替え品を替えて、古くから存在しています。

つまり、「何者かになろうとする人」は「当たり前の存在」であって、その焦燥感も「普通の呪い」によって生み出されているものでしかありません。

そして、本来こういう「何者かになろうとする人」の主な受け皿となっていたのは地域のコミュニティだったんだと思います。ずっと地元に残ってるマイルドヤンキー的な存在は、そのコミュニティの中で「ケンカが強い」「メカに強い」「飯作るのが上手い」といった自己同一性を担保しながら、そのスキルを活かして小さな経済を成立させることで生活を維持していて、ある意味それってイケダ先生の「年収150万円で僕らは自由に生きていく」の完成形なんじゃないかと思います。

しかし、従来であればマイルドヤンキー的なところに落ち着いていたはずの人が、その地域のコミュニティに適応できなかったり、結婚して家庭を築かなかったりした場合に「自分は何者なのか」という焦燥感に苛まれているような気がしていて、そういう人達が行き着くのがオンラインサロンであったりマルチであったりスピリチュアルであったりの「自己同一性を担保してくれるコミュニティ」なんだと思います。

しかし、それらコミュニティは往々にして社会的信用が低かったり、経済的な循環が成立していなかったりという多数の脆弱性を抱えていて、当人もそれについて見ないふりをしているだけなので、「脆弱と理解しつつも依存してしまう」という危険な関係性が構築されてしまいます。

そして、そうやって「家族」「地域」「会社」といった「普通のコミュニティ」からこぼれ落ちたが故に、自己同一性が不安定になっている存在は比較的マイノリティではあるかもしれませんが、それくらいの人は社会において全然当たり前に存在しています。

そして「当たり前」だからこそ、多くの人がそのままでいることの危険性(騙されたりメンタルやられたり)や、そうならないための対処法(結婚したり地域に馴染んだり就職したり)を知っていて、「そうしたほうがええで」というアドバイスをしてくるだけなんだと思います。

【2】そして、このアドバイスの主旨は「目新しいビジネスに手を出すな」ではなく「功を焦って地に足の着いてないことをやるな」であるという点が極めて大事で、社会において「功を焦ってる人ほど足元を掬われる」なんてことはめちゃくちゃ「当たり前」です。

このすれ違いによって押し問答になるシーンは多々あって、例えばマルチやってる人を引き止めようとした時に「胡散臭くない?」みたいなビジネスの有効性の話したら完璧なトークスクリプトが返ってくるでしょうし、逆に「成功してる人がいるかもしれんけどお前では無理だ」という話をしようにも、それってその人に対して「お前バカだから」と言うに等しいので、そんな穏便なことではないです。

「胡散臭い」「怪しい」みたいな表現の裏側には「こんな当たり前の事(功を焦るほどに足元を掬われる)もわからないバカなんだなと思ってしまうけど、それを直接言うと角が立つから…」という無意識の配慮が多分にあるように思いますし、それを言われた時点でもうアウトだと思ったほうが良いです。

もし、それまでの友人や知人から難色を示されるようなことに心当たりがあるのであれば、多分それは自己像と実像がズレてるんだと思いますし、逆に全肯定しか心当たりが無いのであれば確実に変なシェルターの中にいるんだと思います。

【3】とはいえ、会社や家庭というのも同様にシェルターみたいなものであって、そうやって何かに帰属することで自己同一性を確立させていくという意味では、多分「何者かにならなければ」という焦燥感を持っていない人は、既に会社や家庭といった社会的信頼のある強固なシェルター間を移動しているだけのことなのかなと思います。また、既に一定の安全が確保できているからこそ、息抜きとして趣味のコミュニティという「ゆるいシェルター」が機能するだけであって、そのゆるいシェルターに依存すると不安定なままになってしまうんでしょう。

そう考えると、自己同一性を安定させることって「安心できる場所を安定して守り続けること」みたいな話だなと思えてきて、極論では野宿しててもその場所を守れる力さえあれば、別に何かに帰属する必要とかは一切無いのかもしれませんし、現代におけるサバイバビリティの究極系はそれなのかもしれません。

そして、そのスキルを安心できる場所に根を下ろすこと、そしてその場所を守り続けることという2つの段階に分けた場合、「場所選び」と「維持」が重要であって、場所選びには「自分が住むのに適した地がどういうものかを定義して判断する力や様々な土地の知識≒社会経験」、維持には「安定的に資材や工員を調達し、運用する力≒安定的に社会的価値を生むこと」がそれぞれ必要になってくるのかなと思います。

【4】3万字近く書いた結果、当たり前すぎるところに帰結したので、自分で書いてても全然面白くはないんですが、特に一芸に秀でてもいない一般人においては「様々な社会経験を積んで安定的に稼げるようになれば、自己同一性は安定する」というのが一定の真理なのかなと思います。

フリーランスになるということは「安定的に稼ぐ」という点において、企業に雇用される以上に求められるスキル面のハードルが高いことから、一部の身内からしか相手にされない素人に毛が生えた程度の人がやるのは「止めとけ」という意見が多いんでしょうし、いきなり脱サラしてコスモ動画クリエイターになるくらいなら、未経験OKのところに就職して下積みしてからでもいいんじゃないかと。

ただ、未経験での転職は給料低いしロースキルが故に激務だしというのは実際問題として存在していて、だからこそまた「このままじゃダメだ」という焦燥感にも繋がっていくんだと思いますが、ここでまた仮初の安心感を得るために必勝法みたいなものに飛びついてしまうとダメで、多分「自分の中で明確にゴールを決めて進める」ということしかないです。

ここで、例えば「何歳までならチャレンジしててもOKなの?」みたいなゴール設定の話をするとしたら、それは自分で決めることだと思いますし、それが自分の判断で決められなかったり誰かの言葉に乗せられて決めるくらいであれば、まだまだ経験値が不足しているということだと思うので、尚更まずは自分のやれることから着実に始めていくのが良いと思います。

また、ここのゴール設定が甘かったり逆に非現実的なハードルだからこそ、大した結果に結びつかないパターンが多いんだと思いますが、ベースとして人は無能で怠惰なものだと理解しておくと「無能で怠惰な自分がここまでやったんだから十分だろ」という、少し背伸びをしつつも自己嫌悪しない程度の着地点が見えてきます。

そうやって自己嫌悪しない程度のハードルを設定しながら、目の前の仕事に向き合っていくうちに「自分ってまあそんなもんか」と何者でもない自分を受容できるようになると思いますし、周りの知らない人たちは案外自分に関心が無いことにも気付くと思います。

結局、自分の最大の観客は自分でしかないので、虚勢を張るために変に背伸びする必要も無いですし、多少失敗したとて誰も見てないのでそれほど恐れる必要は無いと思います。

それでは、各自持ち場に戻ってください。


以下、オリジナル麻婆豆腐<天(あまつ)>のレシピを書いておきます。

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