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我々は老人ホームで何を歌うのか

子供の頃からずっと「老人はなぜ演歌を好んで聴くのか」ということが気になっています。

同様の疑問を持つ人は多くおられて、概ね上記のように「若い頃に聴いていた音楽をそのまま聴いているだけ」という結論に落ち着いていると思うのですが、じゃあ逆に「60年後の老人ホームでは米津玄師の『感電』が流れているのか」と考えたときにどうもそれはイメージがしにくく、やっぱり演歌的な何かが流れているんじゃないかと思います。もしくは老人はカプセルに入れられてバーチャル空間で元気に駆け回っているだけで、施設はカプセル内を快適な温度に保つためのコンプレッサーの静寂に包まれているしれません。

また、老化とともに記憶の鮮度が落ちていく中で「若い頃の記憶だけが残り続ける」という長期記憶のみが残り続けるケースは多く存在していて、だからこそ幼少期~少年期に触れてきたカルチャーの存在感が相対的に増していくという考え方もあり、大体どこの施設においても「ふるさと」がパワープレイされている現状はその考えを支持しています。

「年を食ってくると若かりし日の記憶が愛おしく思えてくる」というのも、それなりに歳を重ねてきた今となっては大いに理解できますし、当時聴いていた音楽からその時の自分の気持ちを追体験することで音楽を楽しむというのは、もはや新しい音楽をニュートラルに聴いて発見を楽しむことより増えてきたのかもしれませんが、70歳とかになって黒夢の『Ice My Life』やNumber Girlの『鉄風 鋭くなって』を聴きながら深夜にNapsterで外国人と罵り合っていた頃の気持ちを追体験するのかと思うと、かなり気が重くなります。

一方で「年食ってくると演歌が沁みるようになってくる」という話もよく聞くところで、実際にソウルとかハードロック聴きまくってた50代くらいの人が「最近演歌の良さがわかってきた」と言ってるのも聞いたことがありますし、近年自分自身も演歌の持つ日本特有のブルージーさが素直に「かっこいい」と感じる場面が増えてきた実感はあります。長い人生において「昔嫌いだった春菊が今は旨いと思える」みたいなことは多々あるので、自分にも演歌を好きになる素養がある可能性については現時点において否定はできません。

「昔から聴いてたから好き」というケースを図にしてみるとこんな感じです。時代の移り変わりとともに流行歌の中心は演歌ではなくなっていったにも関わらず、その人自身は演歌好きであり続けているパターンですね。

「演歌は死んでも俺は死なない」

「年食ってきて沁みるようになった」というケースでは以下のようになります。幼少期は「ジジババは演歌が好きだなぁ」と思ってたけど、実際に自分が老人になってみると確かに沁みるものがあると理解していくパターンです。

「演歌と親父のゲンコツは後から沁みる」

また、実際にそういう話を当事者から聞いたことはないですが、「老人=演歌」という先入観から演歌を聴き出したり「周囲との会話についていくために」という理由で演歌を聴き出すような老人も絶対に一定数存在すると思っていて、そういうWaack野郎も後者に含まれます。

これらを踏まえて、演歌が死に(厳密にはまだ死んでないですが着実に死に向かっている)J-Pop全盛の時代に生まれ育った今現在青年期の人を上記の図に当てはめてみるとこうなります。

「Enka is Dead.」

レイアウト上かなり雑に「J-Pop」と括ってしまいましたが、ジャンルの細分化は加速度的に進んでおり、実際にはその中に数多のジャンルが包含されていますし、別に日本の音楽に限った話ではないので、更に横幅は存在していて、演歌ど真ん中である70代とかは同時にBeatles世代でもあったりしますが、そこまで詳細にやると主旨からズレるので割愛します。

ここまでで整理しておきたいのは
A.『その世代の人』だから演歌を聴くのか
B.『老人』だから演歌を聴くのか
という点です。

Aを絶対的な正とする場合、恐らくこのまま『その世代の人』が死んでいって、演歌を聴く人は0になるということだと思いますし、反対にBを絶対的な正とする場合は日本人はなんだかんだ『老人』になると演歌を聴き出すので、これからも演歌は死なないだろうということになります。

ただし、実態としては「両方の要素がある」と思いますし、Aの作用は『その世代』が死ぬことで弱まっていきますし、Bの作用はそれほど強くないからこそ、演歌業界の現状が厳しいことになってるんだろうなと思います。

で、最初に戻りまして「60年後の老人ホームで米津玄師の『感電』が流れているのか?」という話をすると、多分それは無いんじゃないかと思います。

その理由は先に述べた「ジャンルの細分化」にあります。現代のヒットチャートを眺めても、演歌のようにわかりやすい共通フォーマットの上で表現される音楽は数少なくなってきていて、一口に「流行歌」と言ってもそのアーティスト単位で様々なジャンルや趣味嗜好/思想、チャネルが混在していますし、リスナーの感性もそこに応じて拡がっている印象を受けます。

その時に聴きたいものを選択する

それはつまり「ジャンルで音楽を聴く」という事自体がナンセンスになりつつあるということで、その世界観で育った人たちにとって音楽とはその時どきで自己選択的に聴くものであったり、その選択が面倒なときにはプレイリストのように何らかのキュレーションを経て空気のように提供されるものでしかなく、「やっぱり『演歌』はええなあ」というような解像度で捉えるものではなくなっているということです。

実際に純烈とかは「必要とされるものを必要なタイミングで」という適切なデリバリーで売れた人たちだと思いますし、我々が老人になったときに施設で流れているのはそういう適切なデリバリーをするアーティストの作品≒演歌的な何かになるのではないかと思います。

また、未だに浜崎あゆみを聴いている40代女性とか、カラオケでミスチルとスピッツしか歌わない40代男性とかは演歌が辿ってきた経緯を経て、老人ホームにおいてそれらを歌うことになりますし、それは『演歌』という概念が『あゆ』や『ミスチル』に置き換わっただけで、現象としては類似するもの(A.『その世代』だから聴く)だと思いますが、演歌がここまで生き残れてきたのは「年食ってくると沁みる」という要素(B.『老人』だから聴く)があってこそであって、それらが『あゆ』にあるのかと言うと、そもそもが大人向けに作られていた演歌に対して、『あゆ』は若者向けに作られていたという時点で無理そうなので、多分『その世代の人』が死んだらすぐに消えます。

そういうことを考えると数十年後の施設職員の方々のレクリエーションは死ぬほど大変だろうなと思います。実際に今ですら「利用者の方々の趣味が違うので結局みんな知ってる童謡とかになってしまうし、童謡歌ったら歌ったで『子供扱いするな』って言われる」みたいなお悩みは聞いたことはあるので、やれ『あゆ』だ『ミスチル』だ『黒夢のIce My Life』だと言われる職員は相当な引き出しを用意しておく必要があります。

未来の若者たちにそんな負担をかけないためにも、電脳化してバーチャル空間で楽しく生きられるような技術の開発が期待されます。

※「ジャンルで音楽を聴く」というのは自分の趣向の裾野を広げたり、それらを体系的に理解するために極めて重要なことだと思います。ただ、それは古いオタク的世界観における「知識マウンティング合戦」に参加するための必須事項でしかなく、楽しく生きていくためにそこまでする必要はどこにも無いので、あくまでも自己研鑽の範疇で行われることだと思います。

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