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短歌の蛇口 第1回

【今回取り上げた歌】
○ あなたの青い胸をずたずたにする人もいる世界へとはやくおいでよ/山崎聡子 「青い胸」『青い舌』
○ 好きだからかなり肌質みてるもんあなたが弾速をみるように/淡島うる 「願望」『祝杯』
○ やめやめ もう電動ドライバーを買おう 片付けももうあしたでいいや/宇都宮敦 「ライセンス」『短歌研究』2021年7月号
○ ここだけが飛び地のように冬のままあのこがほしいあのこはお骨/茶鳥 『塔』2021年6月号
○ 消費だとあなたは言えり通話のち井戸ほど黒きiPhone画面/坂井ユリ 「セゾン」『現代短歌』2021年9月号


あなたの青い胸をずたずたにする人もいる世界へとはやくおいでよ/山崎聡子「青い胸」『青い舌』

橋爪:「おいでよ」と呼び掛けている相手は、連作の流れから見て、主体の姪っ子(8歳)だと思って読みました。でもこの歌集、自分の子供を詠んだ歌もとても多いんですよね。
まあ、歌に戻ると、8歳って、人生これからみたいなところだと思うんですけど、生きていく上であなたを傷つける人もいるかもしれないけど、そんな世界へウェルカム、って言っているわけなんですよ。子供っていう存在に対する、残酷なんだけど、でも真実を言った大きなエールとして読みました。子供へのエールの歌としては、たとえば赤ちゃんに対しての歌である〈眠りつつ時おり苦い顔をする そうだ世界は少し苦いぞ/俵万智〉などが思いつくんですけど、わたしずっとこの歌に対して『「少し」とかウソじゃん! 大嘘じゃん! 馬鹿ー!!』という気持ちがずっとあって。
牛尾・田島:(笑)
橋爪:で、そんな気持ちを吹き飛ばしてくれるような歌として、この山崎さんの歌を捉えたので、個人的にもすごく好きでした。自分の子供に限らずなんですが、子供への歌って、すごく難しい主題だなあと思うんです。でもこの歌集にはたとえば〈舌だしてわらう子供を夕暮れに追いつかれないように隠した〉〈わたしがきみの傷となるかもしれぬ日を思って胸を叩いて寝かす〉暴力と保護のバランス? みたいなものがうまくいっていて好感を持って受け止められる歌が多かったです。
俵万智的な子の可愛がり方のちょっと閉鎖的な感覚というか、優しくて丸い母親像の呪いみたいな、そういうのは『青い舌』にはあまりなくて、だからといって、たとえば、浅羽佐和子『いつも空をみて』的な、社会批判的かつ「母の呪い」から抜け出そうともがいているような感じともちょっと違う。ある種のニュートラルさをともなった健康的な作品だな、と思いました。もちろん、どこか現実味がないような、危うい空気は常に歌のなかに漂っていて、不穏ではあるんですけど。でも、美しさによって安定が図られているというか。詩の力と手をとりあって、世界を見据えている姿勢が、やっぱりかっこいいんだと思います。不思議な読み味の本でしたね。
牛尾:わたしはまだ『青い舌』入手していなくて、この歌を、まだ存在しない子供という概念に言っているのか、あるいは主体がこれから産む子供に言っているのか、という感じで読みました。まだ世界に来ていない存在への呼びかけだからなのかな。特定の個性ある子供に対してというよりも結構抽象度高めの歌として捉えてます。「青い胸をずたずたにする」って、いいですよね。
田島:この「青い胸」って未熟って意味の「青二才」的な言葉から出ている気がするんですけど、「青い胸」というと物理的に小さなひとの胸が青くなっていて、その胸がずたずたに切り刻まれてしまうという、アニメーションみたいなイメージが出てくる。「あなたの青い胸をずたずたにする人もいる世界」というのがより抽象的な感じになりますね。でも現実に世界には子供への加害があるということも含んでいるんですよね。さっき橋爪さんが「美しさによって安定が図られている」と言ってましたけど、実際に胸が青いというように捉えられるところが「青い胸」のいいところかなあと思いました。
牛尾:「青い胸」、実際に、アニメーション的な喚起という意味で、青そうな感じがしますね。そしてまだこの子供は、世界の論理の側じゃないところに属しているとも思えました。
橋爪:『青い舌』っていうタイトルの歌集で、目の覚めるような青い表紙で、「青い胸」のイメージが立ち上がりますよね。そういう世界観の立ち上げ方も巧みだなという気がしますね。
田島:これって初句が「あなたの青い」なんですね。初句7音で、二句が8音。でも、「あなたの青い」で4・3みたいなリズムがちょっと不思議ですね。「胸を」でまたちょっとリズムができて、「ずたずたに」でリズムが変わって。一見「ずたずたに」が三句目に見えておや? となりました。
牛尾:「ずたずたに」で韻律つまづく感じありますよね。
田島:そうそう。一回「ずたずたに」で止まっちゃう。
橋爪:「する人もいる」の「も」とかすごく丁寧だなあと思うんですよ。「が」とも違うし。する人もいる、ってまあ、確かにする人「も」いるんだろうな、って思って。こういう丁寧さはさらに好きになります。
久々にこの歌、ヒットしたなあ、自分の心にヒットした、という感じですね。これを言ってほしかったんだ~という気持ちにさせられたというか。世界を生きるよろこびと苦しみが惜しみなく言われているような気がして。たとえば「はやく」とかも全然置きにいっている感がなくて。本当に「はやく」なんだろうな、と。
牛尾:たしかに、「はやく」って結構すごいですよね。単に「おいでよ」じゃなくて。
橋爪:そうそう。「楽しいことが待ってるからはやくおいでよ」みたいなフレーズをガシャンとつなげたかのような感じもするし。
牛尾:「ずたずたにする」しか言っていないのに「はやく」っていうの、やばいな……。
田島:子供が走っている景も頭に浮かびますよね。
橋爪:この2首前の〈こっくりさん教えてあげると差し出した指 あなたのも重ねてごらん〉も似た雰囲気があるなあと思って。
牛尾・田島:ワーーーー。
田島:いい歌だけど、やっぱりちょっと不穏ですね。
橋爪:そうそうそう。でも、不穏さに説得力がある感じがしてて。そこはすごく好きですね。
田島:あと、不穏なだけじゃないっていうか。不穏さは忌避されるもののはずですけど、不穏なことだけでもない世界があって、でもやっぱり怖いは怖いよね、みたいな。そういう微妙なバランスがあります。
橋爪:多分批判としては、子供のことを無垢なものとして捉えすぎ、みたいな「青い胸」って言っちゃっていいのか、みたいなところはあると思うんです。他者が若者に対して「青春」って言っちゃうような、そういう暴力性は秘めているとは思うんですよ。でも、そこはぎりぎり回避できている感じがするんですよね。
牛尾:それは、「青い胸」というのが慣用的すぎないからだと思いました。「青春」みたいに、「青い胸」っていったらこういうことだよね、みたいなのがないからかなあ。あと、さっきも言ったように、この歌単体では、相手は誰でもよさそうっていうか、具体的にこの子、という感じでもない、抽象的な子供への話をしてそうだなあと思えるからですかね。
橋爪:よくわかります。すごく大きいこと、言ってますよね。言葉よりも。


好きだからかなり肌質みてるもんあなたが弾速をみるように/淡島うる「願望」『祝杯』

橋爪:『祝杯』、関西の、わたしよりも4、5歳くらい年下の人たちが作った同人誌ですね。去年の本なんですけど最近読んだので持ってきました。「自分は肌質をみる」「あなたは弾速をみる」というかなり「ずれた対比」をしていて、でもなんとなくわかる感じもするなと思います。類想歌ってわけではないですけど、〈きみは夢をカラーで見るというわれは羽音で見る つがいの終列車/盛田志保子〉を思い起こしました。まあこの歌は「夢の種類」と「夢の手段」を同じ「で」でつないでいるところに魅力があるのでちょっと「ずれた対比」とは少し違うのかもしれませんが……。
意味の取り方には迷いますよね。「好きな人の肌質をみる」ってことなのか、「肌質が好きだから肌質をみる」のか。ちょっとわからないけれど、それにしても「弾速をみる」というのは不思議な比喩です。「好きな人の肌質をみる」だと、ちょっと気持ち悪い感じがぬぐえないのですが、「弾速」でそういう気持ち悪さを跳ね飛ばしてる。その怪力みたいなのもすごいと思いました。「肌」でなく「肌質」、「弾」でなく「弾速」。ざらざら度だったりスピードだったりが重要なわけで、根底には「モノ」でなくそのものの「本質」をわかりたい、みたいな意志ともつながっていくと思っていて、いい歌だなーと思います。
牛尾:「肌質」とか「弾速」っていう語のチョイスはなかなか簡単にはできない表現ですよね。「弾速」は、ゲームなどの弾の速度のことかと思うんですけど、切り取りかたがピンポイントですね。さっき橋爪さんが言ったように、「肌質」っていうのは誰の「肌質」なのかあまりよくわからない。
わたしはなんとなくあなたの肌質なのかなあって読んでました。あなたは弾速をみていて、「わたし」は肌質をみていて、「わたし」はあなたの肌質を観測しているからあなたが弾速をみていることも観測している、みたいな。そういう構造もちょっとあるのかなって思いました。
橋爪:自分の歌で恐縮なんですが、〈風の体積をはかっていてほしいわたしがにおいをかいでいるあいだ/橋爪志保〉っていう歌をつくったことがあって。その「役割分担」感とも共通するところはあるのかなって思ったりもしていました。
まず、語の取り上げかたがおもしろいということは一点あるとは思うのですが、初句の「好きだから」とかも結構パンチあると思っていて。「え、何を?」って一瞬なるというか。「見てるもん」っていう言い方も。「ひとりでできるもん」じゃああるまいし、とは思うんですが(笑) でも、これはとても決まってる。
牛尾:いい意味の気持ち悪さ、ってのがあると思います。「わたし」はあなたが好きであなたの肌質をみるけれど、あなたは弾速が好きなのかな、みたいな。
橋爪:なんか、すきなフィールドでそれぞれ頑張りましょう、的な感じですよね。
田島:弾速って最初わからなかったんですけど、ゲームみたいな感じなのか。このひとが肌質を見ていたと思ったら、弾速という語があらわれて、いきなり肌質がズルっと弾速に変化してしまったような感触がある。だって弾速ってそもそも見れないじゃないですか。漫画の効果線みたいなあの線を見るってことなのかもしれないけど。いきなり次元が違うものになってしまったのが面白い。
でも、肌質って、自分の肌質なのかなとも思ってました。肌質って、美容系・コスメの世界でよく出てくるじゃないですか。だから化粧をする人が肌質を気にしている様子なのかなあ、とも。
橋爪:そうですね。それはわかんない。
牛尾:ああ~そうか! 「あなた」が出てくるから、そういう短歌なのかなって気持ちになっちゃったけど。二人称が出てきたからといって、無理に相聞読みを持ち込まなくていいのかもしれない。「わたし」は「わたし」の趣味として肌質に興味を持ち、「あなた」は「あなた」の趣味として弾速をみる、という感じですね。肌質が好きだから肌質をみる。確かにそっちのほうがいいかもしれない気がしてきた。
田島:でも、構造として肌質と弾速が比べられて、肌質だったものが弾速に変わってしまうみたいな、その不思議さは残りますよね。
漢字が「好」と「肌質」と「弾速」しかないのも、仕組んでるんだろうなあ、と。


やめやめ もう電動ドライバーを買おう 片付けももうあしたでいいや/宇都宮敦 「ライセンス」『短歌研究』2021年7月号

橋爪:宇都宮作品の白眉だと思う、くだけたしゃべり口調の歌。お気に入りなのでもってきました。たぶん本棚みたいな家具を組み立ててるときの歌で、手動ではなかなか完成しなくて、あきらめたんでしょうね。「片付け」って言ってるから、引っ越し作業中とかなのかもしれない。感覚としてはわりとあるあるって感じかと思います。
出来事的にはうまくいってないんだけど、どこかご機嫌な感じがあるというか、投げやりになって今日はもう楽しちゃおうみたいな、開放感がぐっとくる一首です。これ、「やめやめ もう」が初句で、「電動ドライ/バーを買おう」で句またがり、って具合に読んでいけば一応定型からはあまりはみ出さないんですけど、初句4音に一見見えるいでたちと内容から、すごくくだけた破調の台詞口調として読みたくなる。
わたしなら「やめだやめ 電動ドライバーを買おう」にしてしまいそうになるのに、ここではイキイキとした感覚が奇跡的に失われていないような気がするんですよ。「もう」という言葉も二回使われていて、洗練されてなさそうにも見えるけど、それは我々の短歌的な話し言葉のテクさとは違うベクトルでこの一首をみなければならんのでは、という気持ちにさせます。
宇都宮さんは、主に語順で口語短歌の変革を行ってきた人だという捉え方もできると思うんですが、わたしは、歌の意味内容にもっと触れてほしいなという気持ちが常々ありまして。ささいなご機嫌さ、みたいなもの、飾らない日常を描写するだけでエモーショナルを立ち上げることのできる力、というか。写生しているのが、「モノ」や「感情」ではなく、「たまり場の雰囲気」なんですよね。宇都宮さんの歌を読むと、なんだか友達ができたような喜びにひたることができるとわたしは個人的には思っていて、それって「たまり場」に自分もいるような錯覚を起こすことができるからじゃないのか、って思います。
『ピクニック』に入ってる歌としては、〈ボウリングだっつってんのになぜサンダル 靴下はある? あるの!? じゃいいや/宇都宮敦〉とかも、「たまり場の雰囲気」を喋り言葉で示した歌ですよね。こちらはもっと定型の力を借りてテンポよくやってるとは思うのですが。
牛尾:「もう」二回出てくるの、おもしろいですよね。あと、韻律がいい。「もう」「動」「バー」のような、長音がたくさんある歌だなあと思います。つるって読めちゃう。
田島:橋爪さんの「たまり場」という言葉がおもしろいなって思いました。この歌の中に人がたくさん描写されているわけではないですよね。人がいる状態を描写することで雰囲気が出るのではなく、口調から雰囲気が出ている。すごく近い人に話している口調が短歌の中で実現されているからですね。
「やめやめ」と言える相手って、すごく近い存在ですが、相聞的な「あなたとわたし」でもない感じですね。歌の中で関係があるというよりも、歌を読んでいる人と歌にいる人との間で関係ができる、という感じかなあ。これまでだと例えば「呼びかけ」という形で演出されてきたんだろうけど、「呼びかけ」じゃなくて「ひとりごと」っぽいのにもかかわらずそれが成立している。おもしろいですね。
牛尾:文章に書くための口語体ではなくて、「たまり場」で話すための口語体なんですね。
田島:これまで口語というのは喋っていることをそのまま落とし込んでいくみたいなことをやってきてはいたけれど、こういう風にもなるんだ~と思いました。あと「電動ドライバー」うまいですね。これ一つだけで、家具組み立てをやっててあきらめたということがすぐわかる。きっとこれまでは電動でないドライバーでやってたけれど、やめやめ、というその感じが一気に示せるの、いいですよね。
牛尾:本当にそうですよね。「電動ドライバー」と「片付け」しか言ってないのに景が全部わかる。
田島:これは結構すごいですよね。「電動ドライバー」ってアイテム、そんなすごいものだったんだ、みたいな(笑)
橋爪:「やめやめ」っていう言葉も、話し言葉の口語と書き言葉の口語の中間というか、ちょっと演技ぶっているような感じもする。「やめやめ」ってあんまり言わなくないですか? 普段。
牛尾:リアリズムです、みたいな、すごくリアルな感じともまた違いますよね。何なんでしょうね。
橋爪:そうなんですよ……なんか……。
田島:本当に口語を写し取るっていう方向だと、演劇でいうとチェルフィッチュみたいな「あー」とか「うー」とか口籠もりをそのまま入れちゃうっていうことも、もしかしたらこれから起こってくるかもしれないんですけど、これはまたちょっと違う……。……漫画?
橋爪:あ、漫画!?!?!?
田島:漫画! しかもちょっと間がいい感じの漫画!
牛尾:たしかに! 漫画に出てきそうかも。
橋爪:漫画に出てきそうっていうの、よくわかる!
田島:なんの漫画かといわれたら、例は出せないんですけど……。
橋爪:なんの漫画だろう(笑)
牛尾:『ピクニック』という漫画?(笑)
橋爪:でも確かに、漫画って、話し言葉でもなく書き言葉でもなく「漫画言葉」を使っているふしがありますよね。なんだろう、聞いてて納得しました。
田島:とはいえ、連作でこの歌が出てきたら、うれしくなっちゃいますね。
橋爪:そうなの! うれし~~~!! やった~!!! ってなっちゃった。しかも偶然、ページめくって、一首目、これなんですよ。(見開き2ページ歌があり、見開きの2ページ目の一首目がこれ。)
牛尾:(笑)


ここだけが飛び地のように冬のままあのこがほしいあのこはお骨/茶鳥『塔』2021年6月号

橋爪:はじめて知る作者だったのですが、人と会話していた流れで歌を知って、いいなと思ったのでもってきました。飛び地、冬、骨、と言葉だけとりだしてみるとひとつひとつはなんてことないものだと思うんですけど、全部合わせるとすごくバランスよく読者を凍りつかせる(笑)
はないちもんめの口調を取り入れているとは思うのですが、「お骨」って言われちゃあ、どうしようもないですよね。スピードつけて走ってたらいきなり行き止まりがある、みたいな恐怖と近いような気がします。四句結句リフレインで結句で落とすという構図は『怪談短歌入門』に載っていた〈悪夢から目覚めてママに泣きつけばねんねんころりあたまがころり/中家菜津子〉とかと似ているかもしれないとは思います。個人的には、既存のフレーズを短歌の中に導入するというリスクのあることをやっているにもかかわらず、決めポーズみたいになったり、ギャグ的な雰囲気や軽々しい雰囲気に落ち着かず、迫力が保てているところに好感が持てました。ちょっと喋るのが難しいかなとも思うのですが。
田島:これって「お骨」(おこつ)って読みます?
橋爪:あ、「おこつ」か!「おほね」って読んでました。今橋愛さんの〈としとってぼくがおほねになったとき/しゃらしゃらいわせる/ひとは いる か な〉につられて。え、でも普通に読んだら「おこつ」か……。
牛尾:でも韻律的に「おほね」って読みたい気持ちはわかる……。
橋爪:そうなんですよね……。
田島:ああ、「冬」、「ほしい」だし、そうですね。まあ、結局骨なので、意味は同じですけど。
牛尾:あと、〈いまなにをしてもはじめて雪のはらいたいのいたいの飛んでおいでよ/飯田有子〉と、韻律的に? うーんわかんないけどなにか通じるものを感じました。意味が近いとは思わないですけど、わたしの中で近い位置に格納されて。
田島:橋爪さんがさっき言った怪談短歌的というのがそうだな~と思った。最後の「お骨」によって、ほしがっていたあの子が「お骨」になってしまっていたんだ、ということがわかって、そのことによってわたしの心は冬になっている。でもそのことは他のひとにはわからないから、飛び地のようになっている、ということがわかる。結句の最後の言葉から一気に初句まで戻るというか。わたしはそういうのを推理小説的な面白さだと思っていて。わかることへの衝撃とか、悲しさとかがあとからくる。「あ、そうだったんだ」というのと悲しさがずれるのが面白いんですよね。
牛尾:わたしはこの歌の感情をまだ読みあぐねています。あのこが「お骨」であることを「冬」と結びつけて感情を読むってルートに乗れないというか。飛び地のような冬、とかやっていることが面白そうなのはわかるけど。あんまり読みをこれだ! って感じで決めきれてないです。
橋爪:わたしもちゃんと決めて読んでるわけではないのですが……。「お骨」っていうパワーワードでフルベット! みたいな、持ってるチップ全部ドーン! みたいな感じじゃないですか。なんか、その潔さにドヒャーってなったってのはあるんですよね。
牛尾:たしかに歌の語彙、大事ですよね。
橋爪:「冬のまま」っていうのはあのこが死んだのを受け止められていない、みたいな感じなのかな。ちょっと俗っぽくなりますが……。「あのこがほしい」はあのこが好きだ、とかあのこのそばにいたい、みたいな感情のすり替えで。
田島:わたしは「飛び地」と「冬」と「あのこ」が「お骨」であることを結び付けて読みました。冬のまま、というのは心象風景なのかなあという感じで。でも、一か所だけ冬になっているという物理的な風景も、もちろん面白いと思います。
橋爪:今読んでて思ったんですけど、季節が一か所だけ違うことを「飛び地」っていうわけでは別にないですよね……?
牛尾:土地的な領域の話ですよね。
橋爪:アメリカとかで、アラスカ州だけぽんってなってるのを、あれを「飛び地」っていうじゃないですか。だから、厳密にいうと不思議な感じがします、この歌。有名な「飛び地」が寒いところだから、なんかわたしは勝手に納得しちゃったんですけど(笑) 不思議。この歌、「飛び地」っていう単語の意味を若干解釈変えて処理しているのではないかな。でも、別に「間違ってるじゃ~ん」とか、思わないし。要はそこだけが冬、ってことですよね。そこもなんか……わたしは評価ポイントに入れたいけど割れるところかな。
牛尾:「飛び地」っていう領域の話で、冬が土地を領有している、みたいな前提の言い方なのかっていう解釈をしていました。だから普通に比喩なのかと。
橋爪:なるほど……。
牛尾:で、どれくらい感情をのせるかって話に戻っちゃうんですけど、はないちもんめの引用で、韻律はふつうに軽妙じゃないですか。冬と骨だけに頼ってこの軽さの中に痛切さを読むというふうにいけなくて。だからといって、これはずっと楽しい歌だと読むべきとも思わないんですけど。だからなんとなく、わたしは「冬」の悲しみみたいな読みにはいかなかったのかなと思います。
田島:そうですね、ほんとに全部悲しみです、という風には読めない。
はないちもんめがいきなり入ってきたのが、なんだかすごいなと思います……というのは、あのこが今はいないということを下の句で言おうとするときに、ここまで「冬のまま」という表現でやってきたんだから、わざわざはないちもんめのフレーズを導入しなくても別にできる、というか。最後に「お骨」であることを出すことは、通り文句をつかわなくてもできることだと思うんです。でも、フレーズを使ったことに、すごいな~というか……。やっぱりわたしはこういう一般的な文句を歌に取り入れるのに抵抗があるというか、すごくうまくやらないと難しいんじゃないか、という気がしています。だから身構えちゃうんですが……。身構えているぶん、それを成功させているように見える歌を見ると、なんでそのフレーズ入れようと思ったんだろうと疑問に思います。しかも、その歌についてはどうしても必要だったとは思えない、内容自体で歌になるだろうに、なんかいきなりジャンプアップするな、という。
橋爪:わたしは、はないちもんめをただの楽しい遊びだって捉えてなくて。はないちもんめってこう、「ひとをとっていく」遊びじゃないですか。
牛尾:人身売買みたいなやつですよね。
橋爪:そうそう。ちょっと怖い感じもあるというか。わらべ歌ってちょっとスリリングな、言わば怪談みたいなところがあると思うんですよね。そういう楽しい遊びが死という概念にシームレスにつながっているということが大事なんじゃないかなあと思うんです。死の概念が透けてみえる感じ。「あのこがほしい」の段階でちょっと危うかったけれど、「あのこはお骨」ですりガラスだったものがバーンと透明なガラスに変わって死がご登場、といったような感じの怖さがあると思うんですね。そこをやっぱり評価したいですけどね。でも、田島さんよりもわたしが既存フレーズを歌に導入することに抵抗がない人間だ、と言われてしまえばそれまでなんですけど。
田島:うーん、そうかも~。
牛尾:まだ、今のところ読み筋に迷うところはありますね。むしろ、石川美南さんのような、つまり物語としての「あのこはお骨」ラインとして読むほうがわかりやすいのかも、っていう気もしていて。
橋爪:同時掲載の歌も読んでみたんですが、そのラインを決める手掛かりになる歌はあまりなさそうでした。うーん、難しい……。


消費だとあなたは言えり通話のち井戸ほど黒きiPhone画面/坂井ユリ「セゾン」『現代短歌』2021年9月号

橋爪:巻頭五十首、坂井ユリさんの「セゾン」っていう連作から採りました。「井戸ほど黒きiPhone画面」ってすごい比喩だなと思いました。井戸って奥行きというか深さがあるから黒いんですけど、それを平面の代表みたいなiPhone画面の比喩として使うって、なんかもうゴクリと息を飲むみたいな感じがして面白かったです。井戸って、心内井戸みたいな感じかなと思うんですけど、私なら例えばiPhone画面みたいに黒い井戸みたいな、逆でつかってちょっとシュールな感じを出すと思うんですよね。でもここで違うのが坂井さんだなと思いました。
あと連想したことと言えば、川上未映子のエッセイ、「きみは赤ちゃん」ってタイトルの妊娠出産エッセイみたいなのがあるんですけど、妊娠中の自分の乳首がテレビを消したときの液晶ぐらい黒くなりましたって話をめっちゃしてて、比喩うますぎだろって思ったんですよね。『乳と卵』って小説で、自分は妊娠前に『乳と卵』を書いて、妊娠中の女性の乳首の色をアメリカンチェリー色と言ったことがあるんですが、あんなもんじゃなかったです。すんませんでしたどうも、みたいな謝罪を載せてて。
牛尾:あはははは。
田島:謝罪(笑)
橋爪:人体をテレビの液晶に例えるって相当パンチあることをしてるなと思ったんですけど、それを思い出したというのもありました。歌に戻るんですけど、上の句の「消費だとあなたは言えり」って、なんか、消費社会に生きるわれわれというものがいて、われわれは知らぬ間に消費してはいけない何かを消費しているみたいなシチュエーションってわりとあると思ってて、その批判めいたあなたの言葉なのかなと思って。それって結構クリティカルに決まることが多いと思うんですね。なんかまあ、バッサリと。
「消費だ」とあなたが言った言葉がちゃんときまるみたいな事があると思うんですけど、それだからこそiPhoneの画面の際立つ黒さなのかなと思って、こういうさりげない描写とかも坂井さんはきっちり巧みだなと、日々思いますって私のメモに書いてます。
牛尾:「日々思います」。いやあ、でも「井戸ほど黒き」、きめきめじゃん。
橋爪:きめきめですよね。やっぱり。
田島:見下ろしてるんですよね。通話が終わって、iPhoneを見下ろして、そこですっと黒くなっているものを井戸に例える。すごくリアルな実際の描写ですよね。あとやっぱり、消費だと言われたことの心象的な暗さ。これは「私が消費をしている」とか、世界のさまざまな出来事についてあなたは消費であると批判的に言っているとか、どちらもあると思うんですけど。その言葉を聞いてしまったときの、ちょっとウウッて感じが画面の暗さに託される。この人もたぶん消費的であることに批判的ではあると思うんですけど、それをあなたに言われるっていうのが、なんか、嫌ですよね。
橋爪:わかりますわかります。消費を嫌なことだと思っているからこそ嫌なことを言われたと捉えるんでしょうね。
田島:そうそうそう。そのちょっと複雑な心がこの見下ろしたiPhone画面にあるっていうのがすごいなあ。巧みですよね。
牛尾:確かに黒いiPhone画面と内省っていうのが。
橋爪:わたし自分の歌で「Yahoo! JAPANの画面あかるく」って歌を作ったことあるんですけど、明るくても暗くても、何かを映すものっていうのが根底にあるからかもしれないですけど、画面ってけっこう使われながらも絶望的な景としても成り立つというか、ちょっとまとまりきらないんですが。
牛尾:画面って何かを映すものなので、比喩として、明るくても暗くてもそれに心情をつけたりとか、現代の詩の言葉って感じはけっこうあるのかなって思って。だからこれ特に下の句は直球の王道みたいな感じなのかな。何でしょう、特に今回橋爪さんが出してくれた並びからかもしれませんけど、話の流れで比較して読んじゃうので、直球でマジで決まってる歌が来るとあっ、すごいって思いますね。直球がたくさんやり続けられた結果、回避としての外しってのが全体で見たときには流れとしてあると思うんで。だから直球きめるのすごい。
橋爪:確かに。短歌的な真正面からの比喩だったり、写生だったりって感じなのかな。どうなんだろう。坂井さんの歌をわりと長年見すぎていたのでよくわかんなくなってきたところが私にはあります。
牛尾:まあ確かに。読み慣れていると、全体の中でどの位置かっていうのは正直あまり自信のないところではありますね。
橋爪:でも今回の坂井さんの連作は文体が硬質でおおって思いますね。
牛尾・田島:読みたい。
橋爪:ああ、まだ読んでないんですね。
田島:名古屋のどこにもないです。
牛尾:私は届くはずなんですけど。
田島:坂井さんの比喩がストレートなのはそうだと思います。ストレートというのは安易とかそういうわけではなくて、喩えているものと喩えられているもの、例えば井戸とiPhone画面の結びつきにとても飛躍があるわけではないけど、べたべたについてるわけでもない、多くの人に分かる喩えだと思うんですよ。感覚的にも分かるし、説明もできるような比喩。それがつまらなくなくて、比喩が意味あるものになっている。
井戸のように深く暗い画面と、内省みたいなものとがすごくうまく結びつくっていう。レトリックの巧みさということだと思うんですけど、その巧みさが無理なく心と結びついて行われているのがほんとにすごいところだなと思うんです。「技術いるよな」って気持ちになるんです。だから、たぶん、技術とかそういうのじゃないところをやる方向もあるんだけど、やっぱり技術っていいんだなみたいな。
橋爪:うんうん、そう、技術っていいんだなとは思いましたね。確かに。
田島:純粋に技術って強いんだな、みたいな気持ちになってしまう。
橋爪:技術って裏を返せば古典的で古いやり方かも知れないですけど、でもなんか、やっぱ、いいものはこうやって歌い続けられていくんだなみたいな気持ちになるというか。
田島:そう、歌われる対象である「消費だとあなたは言えり」の暗さがちゃんとリアルだからなんですよね。それは。
橋爪:ここで暗いにしちゃったら台無しなんですよね多分。井戸は暗いものだけど黒いものとしてはなかなか。そこも思いましたし。ちょっとベクトルの違う、井戸ってなんか生き物っぽいじゃないですか、水があって、有機物感というか、幽霊が出てきたりするかもわかんないですけど、そういう井戸もあったりとか、なんかiPhone画面とはかなりベクトルの違うものだけど、黒さ。ベクトルの違うもので比喩をするって、例えば〈おぼえてる 水ようかんより涼しげなきみのドローフォー返し返しを/宇都宮敦〉とかあるじゃないですか。あれも、ぜんぜんベクトルが違うけど、分かるよね~ってなるところがあって、なんか。宇都宮さんの歌を出すのは違うかもしれないですけど。
牛尾:水ようかんは意外性ですよね。
橋爪:井戸って言われておおってなる気持ちあって、技術の力やなって思いますね。これもつぶやき実景? でもないのか、「あなたは言えり」だからつぶやき実景ではないけど。景と比喩ですよね、両方景だけど。やり方としてはまあ見るというか、ぜんぜんあるという感じはします。
牛尾:景と比喩と心情が同じところに焦点を結んでる感じはするかなって思いました。最後ちゃんと黒きiPhone画面でドンと落ちる。
田島:さらっとやってるけど「通話のち」もすごいくっつけかたしてますよね。言った通話があり、そののちにこの画面を見ている。「通話のち」って何。
橋爪:確かに。通話の後にだったら分かるけど、通話のちって。
田島:すごくない?
橋爪:すごいすごい。
田島:テンション上がっちゃった。なんかすごい技術を見るとテンションが上がっちゃうんですよきっと。
橋爪:わかるわかる。
田島:この前吉川宏志さんの歌集を読んでげらげら笑っちゃって。上手すぎ~っていうげらげら。
牛尾:まあわかるわかる。『景徳鎮』とか『駅程』とかも。
橋爪:笑っちゃうのかあ。
牛尾:はあ~キレキレかよって感じになる。
橋爪:キレキレで笑っちゃうのはちょっとわかる気がするなあ。
田島:キレキレでテンション上がっちゃうのは楽しい。
橋爪:やっぱそう、技術っていいなあ以上でも以下でもない。この一言に限るわって気持ちになりましたね。それを聞いて。わたしは自分自身が技巧派じゃないので。なんか、憎んでた時期もあるんですよ。でもなんか、やっぱ、たしかな技術、職人技って感じですよね。
田島:さらっとやってますけどすごいことなんですよね。
橋爪:この器は! みたいなきもち。
牛尾:いやでも、技術上手いみたいな話ってけっこう難しくないですか? 世の中の、世の中のっていうかまあ短歌のですけど、歌会でも評論でも、技術があるとか上手いよねって言われてるやつ、わたし賛同率五割ぐらいなんですけど。
橋爪:あ~賛同率を計測すると。
田島:賛同率って何?なんとなくはわかりますが。
牛尾:その、みんなが「技術」って言ってるものって正直何なんだろうっていう謎があって。
橋爪:でもあれですよ。古いなあって思うときもあるし、嘘くせえって思うときもあるし、上手すぎて舞台がばえばえじゃんって思うときもあるし、技術、適度な技術を凝らすことってそれこそ難しいんだと思います。
田島:今回の歌の場合でいうと、比喩の嘘でなさなのかな。わたしはこれまでは比喩じゃなくて、そのままのことをなるべくそのまま言うことに興味があったんですが、最近見立てることとか比喩のすごさに興味が出てきました。比喩って、別の仕方で「そのままのことを言う」手段なんですよね。そのままをうまくやっていくのってやっぱり古典的な技術だったんだな、そうだったのか。っていうのが最近の気持ちなのですが。今私が話してたのは比喩のことが多かったですけど、レトリック一般の話としても。
牛尾:わたしは意図が見えちゃってる歌を上手いとか技術とか思えなくて、なので、いい感じに読めたあらゆる歌に対して、この歌には技術があるって話になりかねないような気もしてるんですよね。で、そうじゃないなら「技術」って呼んでるものの中身は何なんだ?? となる。
でも確かに、比喩がハマっているということが技術なのは何となく分かりますが。比喩は成功しているときのド成功が分かりやすいから。
田島:そうそう。分かりやすい。
牛尾:比喩がめっちゃ成功してる時って、なんだろう、唯一解じゃないし誰でもできることではないが、予想外なことでもないって感じではあるからなのかな。
田島:なんだか本当のことを言っているぞという気持ちになるのは、納得となぜそうなのか説明できるからですよね。井戸とiPhone画面もですけど。でもその比喩を思いついたとしても、このような状況に当てはまるものとして思いついたものではなかった、みたいな感じかな。難しくなってきちゃった。
橋爪:比喩って、二つのものの適度な距離感みたいなところでキマるかどうかが決定すると思うんですけど、なんだろうな。キマった比喩が面白いのはなんかすごくよく分かるんですけど、最近私の興味としては、わざとずらした比喩とか、わざと決まらない比喩をすることによって、歌の飛距離自体を飛ばすみたいなことに興味があるというか。
牛尾:そういう開拓地があるのは分かります。たぶんその、決まった比喩を引き受けるのはそれはそれで難しいから。坂井さんみたいに文体とか他のところでもちゃんと支えないといけない。
橋爪・田島:そうそうそう。
橋爪:坂井さんは文体が支えてますよね、と思います。


2021/7/17 Zoomにて
(第2回へつづく)

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